日本との交流に捧げた私の人生 img1_1.jpg
モンゴル日本関係促進協会 理事長
モンゴル・豊岡シルクロード友好協会 副会長
モンゴル日本学会 理事
言語学博士
S.デムベレル


 皆さんこんにちは。私の名前はデムベレルと申します。私は、3月に第2回大好きなモンゴル展のため神戸に、10月には豊岡市との交流の一環でモンゴルの子どもたちと来日し、今回で今年3回目になります。1年に3度も日本を訪れることができて、うれしく思っています。本日は私の人生についてお話します。世界中には約70億人の人が暮らしていますが、それぞれの運命は違います。今から、私の運命と日本との関係について話をさせていただきます。



激動の幼少期


 第二次世界大戦が終結した翌年の1946年、モンゴル国の西部、地図で見るとオブス湖とヒャルガス湖という二つの湖の間に位置するオブス県マルチン郡の地で、私は先祖代々家畜を育てて生計を立ててきたごく普通の家庭に生まれました。私の父は家族を食べさせるため、近隣の家畜の世話をすることで、苦しい生活を支えていました。マルチン郡は二つの湖にはさまれている地形のせいか、雪がよく降る土地で、冬になれば道路は寸断され、車はもちろん馬でさえ通行できなくなることがよくありました。そうなると遊牧民たちは、マルチン郡の中心地へ行くことができず、互いに連絡をとり合いながら厳しい冬を乗り越えたものです。当時は今のような通信機器どころか、ラジオすらなく、唯一の通信機材といえば馬ぐらいでした。
 父は家族と離れて近隣の家畜を放牧し、母と姉は郡の中心地近くで暮らしていました。そんな時に、私は生を授かりました。厳しい生活状態であったため、体調を崩していた母は、生まれて間もないわが子をなんとか救わなければと考え、郡の中心地でそれなりの暮らしをしていた夫婦に私を養子として預かってくれるよう頼み込み、その後ほどなくしてこの世を去りました。
 私を養子にした家庭には、既に私と年が近い子ども二人を引き受けていた上に、自身も乳飲み子と幼子の二人を抱えていました。そのためか、養母は自分の兄に「この子を一人前に育てて」と言って私の身を預けました。
 新しい父母もまた厳しい生活をしていましたが、子どもがいなかったので、私を我が子のように育ててくれました。しかし、残念なことに、私が3才になる頃に離婚してしまい、養母は100km以上離れた別の郡に移り住みました。そのため、私は小学校に入学するまで養父のもとで育ちました。私が小学校に入学する前の年には、養父は私より1才年下の子連れの女性と再婚し、その後は多くの子宝に恵まれた大家族となりました。



 第二次世界大戦の戦中から戦後しばらくの間まで、モンゴルの人々は皆貧しい生活を送っていました。モンゴルの国土が戦火に見舞われることはありませんでしたが、当時ソ連を支援していたモンゴルは、戦争にすべてを捧げていました。我々は皆そうした困難な環境を乗り越えて育ちました。モンゴルの田舎の子どもたち、とりわけ私の世代の子どもたちは3〜4才ぐらいで自立して子羊や子山羊の放牧・牧育や、水運びをしたり、燃料用の牛糞や薪を集めたりと、日常の家事の一端を担います。私は同年代の仲間よりも早くから力仕事をこなし、自分の胃袋を満たすことはもちろん、一家を支えようと努めていました。任された家畜を放牧し、夏には水を、冬には氷を運び、木を割って薪にするなどの手伝い作業をする代わりに、少しの食べ物をもらっていました。私は16才になるまで新しい服を着せてもらった覚えがありません。



モンゴルでは3歳くらいから家畜の世話をします


 小学3年生を終えると、養父の弟のところで子牛や子羊、子山羊を放牧したり、水運びや燃料集めをしながら夏休みを過ごしていました。そこに養母が何年ぶりかに突然現れて、私を連れて行きました。こうして私は3番目となる養父と対面し、新しい生活を始めました。10才前後から羊・山羊を牧育し、年齢的にも辛い作業に、夜明けから日暮れまで根気強く働きました。年少期に学校へ通って基礎的な勉学を受けることができなかったとはいえ、空腹やのどの渇き、凍える寒さ、身の丈以上の仕事にもまれながら、身体的・精神的たくましさを身につけられたと思っています。
 当時、モンゴルの学校は、小中高を合わせて10年制で、新学年の始まりは9月1日からでした。遊牧民たちは、冬の雪害を無事に乗り越えるために、四季を通じて遊牧を繰り返していることから、郡の中心地から遠く離れて暮らしています。学校は郡の中心地にあるので子どもたちは学校の寄宿舎に入るか、郡に住む親類や知人の家から学校に通うことがほとんどです。少人数の家族で放牧を行うのは簡単ではないため、子どもたちの労力も欠かせないことから、両親は我が子を通学させることをあまり望まないことがあります。現在でもそういうケースはあると思います。そのため、先生方は8月中旬になると馬を走らせ、田舎の家々を訪ねては子どもを通学させるようアピールを行っていました。両親は「草刈りを終えて秋営地に落ち着いたら子どもを学校へ行かせるから」などと先生たちを言いくるめ、結局丸2年半の間、私を学校へ行かせてくれませんでした。しかし、それに気付いた郡と学校の上層部が厳しい対応を示してくれたので、私は学校へ通えることになりました。こうして私は、休学を挟みながらも学業を努め、大きくなるにつれて生活のためにさらなる重労働にももまれ、夜間学校や、独学で勉強に励みながら、高等教育まで修めることができました。このような年少期の生活が、あらゆることを乗り越える奮励努力の精神と忍耐力を身体に教え込んでくれたと思っています。



苦しかった幼少期を語るデムベレル氏



芽生える日本への関心


 オブス県は首都ウランバートルから1300km離れています。私は1962年の16歳の時に、故郷からトラックで7日間かけてウランバートルから40kmほどの所にあるナライハ炭鉱にやってきました。最初のうちは他の発破作業士について働き、数ヶ月後には私自身が正式な発破作業士として若輩ながら大人たちと肩を並べて仕事をしました。夜間コースで学んで中学7年生を修了し、専門学校である師範学校へ入るために1964年にウランバートル市へ移りました。しかし、入学希望者は多くいましたが、大学の数は少なく、志望大学の入学試験の受験許可を得ることすら容易ではありませんでした。専門学校に入学することができなかったため、ウランバートル市内で何とか仕事をしながら夜間高校を卒業し、必ず大学へ入学しようと決意しました。仕事を探すといっても簡単なことではありませんでしたが、フェルト靴工場の仕事を見つけることができました。数年後には工場の帳簿係を担当し、1969年10月に夜間高校を卒業しました。1970年に国立師範大学人事部局の職員となり、仕事と平行して勉強しながら1975年にモンゴル言語・文学教員の資格を取得して卒業しました。
 60年代末、私は世界のことを知りたいと考えていました。そんな時に「広島の石」、また、70年代初めには「恋の季節」という日本映画が、ウランバートルの映画館でロシア語の字幕付きで短期間ながら上映されました。この2本の映画を見て、私の日本に対する価値観が大きく変わりました。このようなウランバートルの若者たちは多くいたと思います。これらの映画によって、「日本人は私たちと何ら変わらぬ幸福と苦しみを味わい、日々奮闘している人々なんだ」ということを理解し、日本と関わりのある全てものに関心を持ち始めました。
 1975年からモンゴル外務省人事課に勤務しましたが、仕事で使えるレベルの外国語を何か一つ習得しておかなければ、今後外交関連の仕事をするのに展望が開けないと感じていました。
 モンゴルは日本と外交関係を樹立してまだそれほど時間は経っていませんでしたが、いつかきっと日本語が必要とされる時がやってくると信じ、丸2年努力していたドイツ語学習を止めて、日本語を学ぶことにしました。
 モンゴル平和・友好団体連盟の建物の一室に、日本語学習の夜間短期コースが初めて開講され、それを受講して日本語の「あいうえお」というものを初めて習いました。当時、モンゴルにあった日本語教材は薄い手書き冊子だけでした。なお、1975年にはモンゴル国立大学に日本語コースが開設され、モンゴルにおける日本語教育が本格的に始まっていました。


デムベレル氏のお話に聞き入りました

 1976年に東京外国語大学へ初めての客員教授として D.トゥムルトゴー氏が、大阪外国語大学には研究生として物理学者チンバト氏が派遣されました。
このことを知った私は日本語をさらに意欲的に学び、1976年秋にはモンゴル外務大臣宛に日本留学を希望する上申書を提出しました。大臣は私の希望に賛同してくれ、モンゴル人民革命党中央委員会に判断をゆだねました。当時、第三国と呼ばれた資本主義国に長期・短期で赴任・留学をする際には、必ず党中央委員会の裁決を仰ぐという決まりがあったためです。党中央委員会の対外関係課はこの問題について、数ヶ月間過ぎても結論を出さずにいました。なぜなら、モスクワで日本語または日本の研究を専攻した人物、あるいは外務省内から希望者を募って派遣すべきではないかという反対意見があったためです。時間はかかりましたが最後には私を派遣すると決定され、そして程なくして、日本側からも受け入れるとの回答を得て、私はようやく安心しました。
こうして私は、日本の大阪外国語大学で研究留学生として日本語・日本文化を研究するという道が開け、私の人生における最大の転機となりました。私が日本へ留学することを友人や知人に伝えると、様々な反応がありました。「日本の学校に入るなんて、どう考えたっていいことではないだろう。大気汚染がひどくて、酸素マスクをつけて暮らす都市もあるらしいぞ」、「高層建築で暮らしていて、地面に降りたこともない人がいるそうだよ」、「日本人は非常に潔癖で、一日に何度も風呂に入るそうだ」、「日本人は白米と魚だけ食べているらしい」などと言われました。こうした言葉を聞いてもおじけづくということなく、早く行ってみたいと待ちこがれていました。当時のモンゴル人が抱いていた日本に対するイメージを今改めて思い出すと、笑い出してしまうようなおかしなものです。


あこがれの日本へ


 1970年代半ばのウランバートルでは店頭に並ぶ商品が更に少なくなり、おしゃれな靴や衣服は特定の人だけが購入できる時代でした。稀少品は特別証明書を持つ人だけが利用でき、特別店のみ販売され、一般の人々は購入することができませんでした。私は幸いなことに日本に留学する機会に恵まれ、モンゴルを代表して日本に行く以上は身なりを整えて行きたいと考え、給料を貯金するようにしました。ある方の気遣いのおかげで特別店を利用することができ、靴を一足購入し、訪日する時まで大切にしまっておきました。
 ビザ、パスポート、航空チケットの用意も済み、1977年4月初旬、ウランバートル発モスクワ行の飛行機に乗ろうと特別店で購入した靴を履き、新調したスーツを着て出発しました。日本への留学に気持ちが高ぶっていたせいか、新しい靴がきついことに最初のうちは気が付きませんでした。しかし、モスクワで飛行機を降りた時には締め付けられていた痛みで足をひきずってなんとか歩ける状態でした。裸足で歩くわけにはいかず、手持ちのお金も無かったため、モスクワにあるモンゴル国大使館に勤務していた知人に事情を説明し、お金を借りて急いでカリニンスキー通りの店で靴を購入しました。安心したのも束の間、私は足に合っているかどうかをよく確かめずに大急ぎで買ってしまったため、今度の靴は逆にサイズが大き過ぎました。新しい靴を買おうにもお金がなかったため、脱げないように足を引きずって歩くしかありませんでした。大阪に到着しても靴が脱げてしまうのではと思うと恥ずかしくて、冷汗をかきながら歩きました。このことを思い出すたびに、「なんてみっともなかったんだろう」と、つい笑みが浮かんでしまいます。
 そんな私でしたが、ウランバートル−モスクワ−羽田−大阪国際空港という航路を丸2日かけて移動し大阪に到着しました。当時、モンゴル・中国関係は正常とは言えない状態で、航空便がなく、モンゴルから日本への最短ルートはモスクワ経由便となっていました。1980年代半ばに、ウランバートル−北京間に航空便が運航するようになり、日本とモンゴルの距離が縮まりました。今ではウランバートル−東京、大阪間で直行便が運航するようになり、民間交流も当時に比べ活発になっています。これは非常に喜ばしいことで、今後とも両国の関係は一層深まり、民間交流も進展していくものと信じています。
 私が大阪国際空港に降り立った時、大阪外国語大学モンゴル語科のd松源一先生、荒井伸一先生、橋本勝先生が温かく迎えてくださり、立派な車2台で東花園の留学生寮へ送り届けてくださりました。
 飛行機が到着したのは黄昏時であり、夜になると蒸し暑い空気を感じました。至る所にカラフルな電飾やおしゃれな車が走る様子を見て、不思議な思いに包まれる一方で気持ちは一段と引き締まりました。私が聞いて想像していた日本像とは異なり、温厚な日本人の若者たちに囲まれた留学生活が始まりました。



オープンハウスの講演の様子



日本が私の第二の母国に


 授業は日本語で行われました。英語の解説が付いていましたが、理解できずに困ることも多々ありました。当時、日本語の単語の意味を調べるのに、日本語からモンゴル語に訳された辞書はありませんでした。学内の書店から、1970年と1971年にモスクワで出版された『和露大辞典』と『和露学習辞典』を購入し、いつもカバンに入れて持ち歩いていました。必要になると思ってウランバートルから持参した『ロシア語・モンゴル語辞典』も重宝しました。どうしても分からない単語・表現があれば、モンゴル語科の先生方に教えていただきました。
 大阪に住み始めて1ヶ月が過ぎた頃から、私は絶えず胃に痛みを感じるようになりました。日本では医療費が高額だと聞いていたこともあり、そのうち自然に治るだろうと思っていました。その時は日本に社会保険制度というものがあって、外国人にも適用されることを知らなかったのです。その後2ヶ月が経ちましたが、痛みは一向に治まらず、このまま痛みが続くのなら帰国しようかと弱気になっていました。どうしようもなく荒井先生に相談し、大阪市立病院で診察してもらうことになりました。病院で処方してもらった薬をしばらく飲んでいると胃痛もおさまりました。幸い重い病気ではなく、授業についていくことに必死で睡眠不足が続いていたこと、ホームシック気味であったこと、新しい土地に十分慣れていなかったことなどでストレスを感じていたようです。しばらくすると体調はよくなり、新しい環境に慣れてくると体重も少しずつ増加し、2年後には75kgにまで増えていました。以後、現在に至るまでその体重は変わっていません。
 私は日本語の初級、中級教育を大阪外国語大学で終えましたが、日本語レベルは思ったほど向上しませんでした。そこで、モンゴル大使館を通じて留学期間を延長する要望を提出しました。モンゴル大使館も日本文部省も了承し、東京外国語大学で学ぶことが決まりました。
 こうして1979年の春に東京外国語大学に移り、1981年3月に修了して帰国することになりました。母国に戻るとわが国は以前同様、過度のイデオロギーにとらわれ、東欧諸国のうち旧ソ連の影響下にある国々とかたまっている状況にありました。ただし、資本主義諸国、とりわけその中でも日本に対する空気がいくらか穏やかになっているようにも見えました。ウランバートル市内に日本の援助によってカシミア、ラクダ毛を加工する「ゴビ社」が建設されていました。また、モンゴル人が初めて宇宙飛行をしたということで大騒ぎでした。さらに、ウランバートル市に第3地区、第4地区というアパート群が建設され、その大半の住宅に人が住み始めていました。
 当時は様々な理由から、国内の人々はモンゴルに来る資本主義諸国の人々に対してはもちろん、その国々へ短期的・長期的に留学したあるいは仕事をした自国の人々に対してまで、疑惑や不信の念を抱いている様子が明らかに伺えました。正直な気持ちを言えば、私は国内外で日本語学習に励み、日本語と日本文化について相応のレベルまで理解を深めたと思っていました。
 私は帰国して外務省内のいくつかの部局に勤務しました。省の上層部が習得した言語を生かすような配置を考えても、日本語・日本と関係のない職場に配置しようと考える人もおり、私の希望はなかなか聞き入れてもらえませんでした。結局丸8年間、日本と関係のある仕事はできませんでした。
 1980年代末に民主化・刷新という雪解けの風が吹き始め、イデオロギーの締め付けがゆるみ始めました。そうした時に私はウランバートルにある在モンゴル国日本大使館に勤務する要望を提出しました。その願いが叶って、日本大使館に勤務することになり、再び日本語・日本人と関わるようになりました。



神鋼環境ソリューション労働組合との出会い


 1991年から兵庫県豊岡市但東町にある日本モンゴル民族博物館の創立者である故・金津匡伸氏と3年ほど一緒に勤務しました。金津さんとは政策についても共通した認識をもっていましたので、よくディスカッションし、また個人的にも影響し合いました。金津さんと友好を深める中、2002年に金津さんのご紹介により神鋼環境ソリューション労働組合の当時執行委員長である関谷さんをはじめとする組合員の皆さんと私は出会うことができました。当時モンゴル国には海外から多くの支援を受けていましたが、その支援と交流のほとんどが首都で中心地であるウランバートルへ集中し、わたしの故郷のような中心を外れた地域には、交流の輪が届かないということが多く見受けられました。その最大の理由は、遠隔地のため交流に時間と費用がかかることです。神鋼環境ソリューション労働組合の皆さんは、これらの事情を深く理解し、マルチン郡との長期にわたる交流について決定されたことに対し、当郡の人々は非常に喜んで大歓迎しています。
 我が故郷は中央から遠く離れていることから、残念ながら情報も不足しており、届けられる本の数も非常に少ないのです。恥ずかしながら申し上げますが、正直なところ、本があっても購入する余裕のある村民も少ないのです。このような状況をご理解くださり、モンゴル語で書かれた多数の書籍を寄与するため、2004年の6月に神鋼環境ソリューション労働組合の当時事務局長だった井上さんを団長とした6名の方々が現地を訪れ、子どもたちや教職員への図書にあわせて楽器、スポーツ用品などを贈呈してくださいました。また物品の贈呈だけでなく、現地訪問の際には、バレーボールなどの友好試合、日本とモンゴル双方の歌の披露、児童絵画の展示、環境をテーマとしたパネルディスカッションなどを行ってくれました。こうしたスポーツと文化の交流が、日本とモンゴルの双方の人材育成にもつながるものと信じており、今日では多くの郡の住民が、若手組合員を中心とした訪問団の来訪を心待ちにしているところです。当時のマルチン郡には電気も携帯電話もなく、道も舗装されていない時代遅れの地域でしたが、遠く離れた海の国である神戸市の神鋼環境ソリューション労働組合から、代表の訪問団の方々が心を込めて4回訪問し、素晴らしい交流をしてくださっていることに対し、皆が非常に喜び、今後も繰り返しご訪問くださることを心待ちにしております。本は世界を視る窓であり、人間の能力を向上させるための計り知れない価値を秘めています。
 昨年3月にはモンゴル首相補佐官をはじめ、マルチン郡の先生と文部科学省の専門家、オブス県出身の政府関係者が訪日し、日本の教育システムを見学し、交流の輪がさらに広がりを見せています。
 この交流を、息の長い、実のあるものとして絶対に成功させたいと思っております。モンゴル日本両国民の相互理解が更に深まり、神鋼環境ソリューション労働組合とモンゴル国オブス県マルチン郡の共同協力が、一層繁栄することを祈ってやみません。
 さて、話は戻りますが、大使館に16年間勤務して2005年に定年退職を迎えました。
 定年退職を迎えるという時に、会社を設立しようかとも考えました。しかし、熟考した末に、日本政府の奨学金で教育を授かった者として、モンゴルの若者たちに日本語を教えたり辞書を編纂したりすること、モンゴル・日本両国の相互理解を深めることに寄与するため友好団体としての活動に尽力すること、精神的に人々に有益となる本を日本語から翻訳することというこの3つの方面で、第2の人生を歩むと決めました。



マルチン村の元気な子どもたち

昨年3月に来日した教育視察団と
日本の子どもたちとの交流の様子


辞書に入れ込んだ運命


 モンゴル・日本関係が深化するにつれて、モンゴル国内における日本語学習者の数は急増しました。しかし、1990年代以降、日本語の教科書・教材はまれに刊行されていたものの、必要性を満たすレベルに達したものはない状態が続いていました。日本で学んだ初期留学生として、この状況をただ傍観するのではなく、「自分が活動して社会的に役に立つべきではなかろうか」と、私の耳元で誰かがささやいているように思えました。日本語を学ぶ時にまず難関となるのは漢字であり、私自身もとても苦労しました。今でも理解していると言いきることはできません。とにかく日本語を勉強するためには漢字辞典が必要であり、必要ならば私が作ろうと決心しました。仕事の合間の時間で作成に取り掛かり、時折投げ出したくなることもありましたが「初志貫徹」という言葉を思い出しながら、1995年に『和蒙漢字辞典』を完成させ、出版しました。これはモンゴル国で出版された最初の日本語辞典であり、日本語を学ぶ若者たちにとって良い手引書になったと思っています。同書を増補改訂して2009年に『和蒙学習辞典』として刊行するとともに、同年、漢字学習辞書の比較研究によって言語学博士の学位を取得しました。
 モンゴル・日本両国の人々はそれぞれ自言語、自文化を有しています。両国間の民間交流にとって最大の障害となるのが言葉の壁であることは誰もが認めるところです。習得したいターゲット言語を学ぶのに、ターゲット言語ではない第三言語を介さなければならないとなると負担が大きくなり、一層の労力が必要となります。これは私自身の経験で強く感じたことであり、私は他言語を介さずに翻訳できる辞書の必要性を強く感じていました。そこで私は、3万語以上を収録した『和モ辞典』を2007年に刊行し、その増補改訂版を2010年に再刊しました。2010年に出版した第3版では語彙を大幅に増やし、現代日本語で広範囲に使われている7万語余りの語彙・複合語・派生語、約5万7,000語の例文を含んでいます。また、社会・文化・政治・情報技術・経済・法律・歴史・医学・植物・動物など多様な分野の専門用語、慣用句・ことわざ・格言を約3,000語、外来語を約6,500語含めました。
 また、2012年に出版した『和蒙大辞典』二巻は、これまでに出版された辞書と比べるとボリューム的にもはるかに大きな辞書となっています。さらに最近、『モンゴル語・日本語医学用辞典』、『日本語・モンゴル語医学用辞典』を出版しました。こうした私の活動が日本政府に「モンゴルにおける日本語の普及活動を通じて両国交流の増進に貢献した」と高く評価され、2012年には日本国外務大臣から表彰を受けました。



日本語の教師に


 1970年代半ばに日本語を学んでいたのは10人ほどでしたが、今日ではモンゴルの小学校から大学までの計約70校で1万人以上の児童・生徒・学生たちが日本語を学んでいます。また、日本の大学に留学しているモンゴル人学生は約2,000人います。今、モンゴルでは日本語が分かる人々、日本語を介して世界の科学技術・政治・経済に関する情報を得る人々の数は年々増え続けています。日本の大学の卒業生の中には、既にモンゴル政府の閣僚や国会議員に選出された人もいて、日本で企業研修を受ける人、様々なルートで日本で仕事・生活をする人も多くいます。一方で、日本側にはモンゴルに関心を寄せている人やモンゴル語・モンゴル文化を学んだり研究したりする人も大勢います。
 私自身も1990年代半ばから末まで、2005年からモンゴル国立大学、人文大学でモンゴルの若者たちに日本語・日本文化を教える機会を持ち、現在も人文大学大学院で教え続けています。日本語を学びたい若者たちを温かく迎えながらも、「日本語を学ぶと決意したのなら、途中で投げ出さずに励み続けなければならない。そして、この言語で関わりを持つ人々に対して、誠心誠意敬愛していなければ言葉というものは完璧には習得できない。君たちが学んでいるこの言語には知性を豊かにする力があるんだ」と励まし続けています。



友好強化に向けた活動に尽力


 日本大使館で一緒に勤務していました故・金津匡伸氏がモンゴルで収集した物品を用いて、1996年、兵庫県但東町に「日本・モンゴル民族博物館」が設立されました。日本は定住文明でモンゴルは遊牧文明というように、風習や文化がまったく異なっているとはいえ、同じアジア原住民です。親交を深めるためには、相互理解の障害となるものを一つひとつ取り除く作業、および相互尊重のために民間交流を深める作業が重要です。すばらしい心を持つ日本の人たちがモンゴルの歴史・文化を日本人に紹介しようと尽力している以上、我々モンゴル人はそれを支援し協力しなければならないと考えています。あらゆる協力は一方向からの努力ではなく、双方向的な努力の結果により成功に至ります。但東町に設立された日本・モンゴル民族博物館は両国の歴史・文化の紹介に留まらず、モンゴルとの交流、文化協力の中心の一つとなっています。
 友人の金津さんが但東町で仕事をしていた関係で、私は1993年から個人的にこの町と関わりを持つようになりました。但東町の人々はモンゴルが草原火災や雪害に見舞われると必ず支援してくれました。また、モンゴル国との民間交流の拡大を目指してくれました。個人的なつながりに留まらず、友好協会を設立して活動したほうが良いだろうと考え、博物館の所蔵品の充実と相互協力・相互理解の深化を目的とした「モンゴル・但東シルクロード友好協会」を2001年に創設しました。但東町は市町村合併により豊岡市となったので、協会の名称は「モンゴル・豊岡シルクロード友好協会」と変更し、現在も持続的に協力活動を続けています。
 モンゴル・日本両国の国民・団体による友好・相互理解・相互信頼・協力活動への支援、日本の発展・日本および日本人の歴史・文化・言語・風習・生活・科学技術の成果をモンゴルの人々に紹介することなどを目的として、1994年に「モンゴル日本関係促進協会」が創設されました。協会の会長はD.ソドノム元首相で、副会長にはS.ダンバダルジャー元日本大使、学者T.ナムジム、S.フレルバータル大使など両国関係の発展に貢献した人々が就いており、2005年以降は私がこの協会の理事長を務め、この協会の目的を達成するため、活動を続けています。
 以上、私の人生において日本と結びついた35年の経歴を簡単に述べました。退職前に掲げた3つの目標を一歩一歩達成し、これまで様々な活動に取り組めたことを光栄に思っています。



講演後積極的に質問をする
ユニオン委員の姿が見られました

モンゴルの方の接し方について質問をする
木庭ユニオン委員

プロフィール

サンジ・デムベレル (Sanj DEMBEREL)
  モンゴル日本関係促進協会 理事長
  モンゴル・豊岡シルクロード友好協会 副会長
  モンゴル日本学会 理事
  言語学博士
 
1945年生まれ、モンゴル国オブス県出身。
1970年  国立師範大学に入学、1975年卒業。
1975年  モンゴル国外務省事務官に就任。
1977年  大阪外国語大学へ留学。
1979年  東京外国語大学へ編入、1981年卒業。
1989年  在モンゴル日本大使館職員、2005年退職。
2005年  クリジッド銀行頭取に就任。
現役引退後は、大学非常勤講師。
   
1995年  『和蒙漢字辞典』を出版刊行。以降多くの日蒙辞書の編纂など日本語教育に尽力。
   
デムベレルさんの辞書は日本へ留学するモンゴルの若者たちのバイブルとなっている。
また、こうした活動が日本政府に「モンゴルにおける日本語の普及活動を通じて両国交流の増進に貢献した」と高く評価され、2012年には日本国外務大臣から表彰を受ける。



オープンハウス冒頭に
豊岡市日本・モンゴル民族博物館
の紹介をする植田館長

講演後の集合写真(デムベレルご夫妻、植田館長と一緒に)