日本との交流に捧げた私の人生 | |
|
皆さんこんにちは。私の名前はデムベレルと申します。私は、3月に第2回大好きなモンゴル展のため神戸に、10月には豊岡市との交流の一環でモンゴルの子どもたちと来日し、今回で今年3回目になります。1年に3度も日本を訪れることができて、うれしく思っています。本日は私の人生についてお話します。世界中には約70億人の人が暮らしていますが、それぞれの運命は違います。今から、私の運命と日本との関係について話をさせていただきます。 |
激動の幼少期 |
第二次世界大戦が終結した翌年の1946年、モンゴル国の西部、地図で見るとオブス湖とヒャルガス湖という二つの湖の間に位置するオブス県マルチン郡の地で、私は先祖代々家畜を育てて生計を立ててきたごく普通の家庭に生まれました。私の父は家族を食べさせるため、近隣の家畜の世話をすることで、苦しい生活を支えていました。マルチン郡は二つの湖にはさまれている地形のせいか、雪がよく降る土地で、冬になれば道路は寸断され、車はもちろん馬でさえ通行できなくなることがよくありました。そうなると遊牧民たちは、マルチン郡の中心地へ行くことができず、互いに連絡をとり合いながら厳しい冬を乗り越えたものです。当時は今のような通信機器どころか、ラジオすらなく、唯一の通信機材といえば馬ぐらいでした。 |
第二次世界大戦の戦中から戦後しばらくの間まで、モンゴルの人々は皆貧しい生活を送っていました。モンゴルの国土が戦火に見舞われることはありませんでしたが、当時ソ連を支援していたモンゴルは、戦争にすべてを捧げていました。我々は皆そうした困難な環境を乗り越えて育ちました。モンゴルの田舎の子どもたち、とりわけ私の世代の子どもたちは3〜4才ぐらいで自立して子羊や子山羊の放牧・牧育や、水運びをしたり、燃料用の牛糞や薪を集めたりと、日常の家事の一端を担います。私は同年代の仲間よりも早くから力仕事をこなし、自分の胃袋を満たすことはもちろん、一家を支えようと努めていました。任された家畜を放牧し、夏には水を、冬には氷を運び、木を割って薪にするなどの手伝い作業をする代わりに、少しの食べ物をもらっていました。私は16才になるまで新しい服を着せてもらった覚えがありません。 |
|
小学3年生を終えると、養父の弟のところで子牛や子羊、子山羊を放牧したり、水運びや燃料集めをしながら夏休みを過ごしていました。そこに養母が何年ぶりかに突然現れて、私を連れて行きました。こうして私は3番目となる養父と対面し、新しい生活を始めました。10才前後から羊・山羊を牧育し、年齢的にも辛い作業に、夜明けから日暮れまで根気強く働きました。年少期に学校へ通って基礎的な勉学を受けることができなかったとはいえ、空腹やのどの渇き、凍える寒さ、身の丈以上の仕事にもまれながら、身体的・精神的たくましさを身につけられたと思っています。 |
|
芽生える日本への関心 |
オブス県は首都ウランバートルから1300km離れています。私は1962年の16歳の時に、故郷からトラックで7日間かけてウランバートルから40kmほどの所にあるナライハ炭鉱にやってきました。最初のうちは他の発破作業士について働き、数ヶ月後には私自身が正式な発破作業士として若輩ながら大人たちと肩を並べて仕事をしました。夜間コースで学んで中学7年生を修了し、専門学校である師範学校へ入るために1964年にウランバートル市へ移りました。しかし、入学希望者は多くいましたが、大学の数は少なく、志望大学の入学試験の受験許可を得ることすら容易ではありませんでした。専門学校に入学することができなかったため、ウランバートル市内で何とか仕事をしながら夜間高校を卒業し、必ず大学へ入学しようと決意しました。仕事を探すといっても簡単なことではありませんでしたが、フェルト靴工場の仕事を見つけることができました。数年後には工場の帳簿係を担当し、1969年10月に夜間高校を卒業しました。1970年に国立師範大学人事部局の職員となり、仕事と平行して勉強しながら1975年にモンゴル言語・文学教員の資格を取得して卒業しました。 60年代末、私は世界のことを知りたいと考えていました。そんな時に「広島の石」、また、70年代初めには「恋の季節」という日本映画が、ウランバートルの映画館でロシア語の字幕付きで短期間ながら上映されました。この2本の映画を見て、私の日本に対する価値観が大きく変わりました。このようなウランバートルの若者たちは多くいたと思います。これらの映画によって、「日本人は私たちと何ら変わらぬ幸福と苦しみを味わい、日々奮闘している人々なんだ」ということを理解し、日本と関わりのある全てものに関心を持ち始めました。 1975年からモンゴル外務省人事課に勤務しましたが、仕事で使えるレベルの外国語を何か一つ習得しておかなければ、今後外交関連の仕事をするのに展望が開けないと感じていました。 モンゴルは日本と外交関係を樹立してまだそれほど時間は経っていませんでしたが、いつかきっと日本語が必要とされる時がやってくると信じ、丸2年努力していたドイツ語学習を止めて、日本語を学ぶことにしました。 モンゴル平和・友好団体連盟の建物の一室に、日本語学習の夜間短期コースが初めて開講され、それを受講して日本語の「あいうえお」というものを初めて習いました。当時、モンゴルにあった日本語教材は薄い手書き冊子だけでした。なお、1975年にはモンゴル国立大学に日本語コースが開設され、モンゴルにおける日本語教育が本格的に始まっていました。
このことを知った私は日本語をさらに意欲的に学び、1976年秋にはモンゴル外務大臣宛に日本留学を希望する上申書を提出しました。大臣は私の希望に賛同してくれ、モンゴル人民革命党中央委員会に判断をゆだねました。当時、第三国と呼ばれた資本主義国に長期・短期で赴任・留学をする際には、必ず党中央委員会の裁決を仰ぐという決まりがあったためです。党中央委員会の対外関係課はこの問題について、数ヶ月間過ぎても結論を出さずにいました。なぜなら、モスクワで日本語または日本の研究を専攻した人物、あるいは外務省内から希望者を募って派遣すべきではないかという反対意見があったためです。時間はかかりましたが最後には私を派遣すると決定され、そして程なくして、日本側からも受け入れるとの回答を得て、私はようやく安心しました。 こうして私は、日本の大阪外国語大学で研究留学生として日本語・日本文化を研究するという道が開け、私の人生における最大の転機となりました。私が日本へ留学することを友人や知人に伝えると、様々な反応がありました。「日本の学校に入るなんて、どう考えたっていいことではないだろう。大気汚染がひどくて、酸素マスクをつけて暮らす都市もあるらしいぞ」、「高層建築で暮らしていて、地面に降りたこともない人がいるそうだよ」、「日本人は非常に潔癖で、一日に何度も風呂に入るそうだ」、「日本人は白米と魚だけ食べているらしい」などと言われました。こうした言葉を聞いてもおじけづくということなく、早く行ってみたいと待ちこがれていました。当時のモンゴル人が抱いていた日本に対するイメージを今改めて思い出すと、笑い出してしまうようなおかしなものです。 |
あこがれの日本へ |
1970年代半ばのウランバートルでは店頭に並ぶ商品が更に少なくなり、おしゃれな靴や衣服は特定の人だけが購入できる時代でした。稀少品は特別証明書を持つ人だけが利用でき、特別店のみ販売され、一般の人々は購入することができませんでした。私は幸いなことに日本に留学する機会に恵まれ、モンゴルを代表して日本に行く以上は身なりを整えて行きたいと考え、給料を貯金するようにしました。ある方の気遣いのおかげで特別店を利用することができ、靴を一足購入し、訪日する時まで大切にしまっておきました。 |
|
日本が私の第二の母国に |
授業は日本語で行われました。英語の解説が付いていましたが、理解できずに困ることも多々ありました。当時、日本語の単語の意味を調べるのに、日本語からモンゴル語に訳された辞書はありませんでした。学内の書店から、1970年と1971年にモスクワで出版された『和露大辞典』と『和露学習辞典』を購入し、いつもカバンに入れて持ち歩いていました。必要になると思ってウランバートルから持参した『ロシア語・モンゴル語辞典』も重宝しました。どうしても分からない単語・表現があれば、モンゴル語科の先生方に教えていただきました。 |
神鋼環境ソリューション労働組合との出会い |
1991年から兵庫県豊岡市但東町にある日本モンゴル民族博物館の創立者である故・金津匡伸氏と3年ほど一緒に勤務しました。金津さんとは政策についても共通した認識をもっていましたので、よくディスカッションし、また個人的にも影響し合いました。金津さんと友好を深める中、2002年に金津さんのご紹介により神鋼環境ソリューション労働組合の当時執行委員長である関谷さんをはじめとする組合員の皆さんと私は出会うことができました。当時モンゴル国には海外から多くの支援を受けていましたが、その支援と交流のほとんどが首都で中心地であるウランバートルへ集中し、わたしの故郷のような中心を外れた地域には、交流の輪が届かないということが多く見受けられました。その最大の理由は、遠隔地のため交流に時間と費用がかかることです。神鋼環境ソリューション労働組合の皆さんは、これらの事情を深く理解し、マルチン郡との長期にわたる交流について決定されたことに対し、当郡の人々は非常に喜んで大歓迎しています。 |
マルチン村の元気な子どもたち |
昨年3月に来日した教育視察団と 日本の子どもたちとの交流の様子 |
辞書に入れ込んだ運命 |
モンゴル・日本関係が深化するにつれて、モンゴル国内における日本語学習者の数は急増しました。しかし、1990年代以降、日本語の教科書・教材はまれに刊行されていたものの、必要性を満たすレベルに達したものはない状態が続いていました。日本で学んだ初期留学生として、この状況をただ傍観するのではなく、「自分が活動して社会的に役に立つべきではなかろうか」と、私の耳元で誰かがささやいているように思えました。日本語を学ぶ時にまず難関となるのは漢字であり、私自身もとても苦労しました。今でも理解していると言いきることはできません。とにかく日本語を勉強するためには漢字辞典が必要であり、必要ならば私が作ろうと決心しました。仕事の合間の時間で作成に取り掛かり、時折投げ出したくなることもありましたが「初志貫徹」という言葉を思い出しながら、1995年に『和蒙漢字辞典』を完成させ、出版しました。これはモンゴル国で出版された最初の日本語辞典であり、日本語を学ぶ若者たちにとって良い手引書になったと思っています。同書を増補改訂して2009年に『和蒙学習辞典』として刊行するとともに、同年、漢字学習辞書の比較研究によって言語学博士の学位を取得しました。 |
日本語の教師に |
1970年代半ばに日本語を学んでいたのは10人ほどでしたが、今日ではモンゴルの小学校から大学までの計約70校で1万人以上の児童・生徒・学生たちが日本語を学んでいます。また、日本の大学に留学しているモンゴル人学生は約2,000人います。今、モンゴルでは日本語が分かる人々、日本語を介して世界の科学技術・政治・経済に関する情報を得る人々の数は年々増え続けています。日本の大学の卒業生の中には、既にモンゴル政府の閣僚や国会議員に選出された人もいて、日本で企業研修を受ける人、様々なルートで日本で仕事・生活をする人も多くいます。一方で、日本側にはモンゴルに関心を寄せている人やモンゴル語・モンゴル文化を学んだり研究したりする人も大勢います。 |
友好強化に向けた活動に尽力 |
日本大使館で一緒に勤務していました故・金津匡伸氏がモンゴルで収集した物品を用いて、1996年、兵庫県但東町に「日本・モンゴル民族博物館」が設立されました。日本は定住文明でモンゴルは遊牧文明というように、風習や文化がまったく異なっているとはいえ、同じアジア原住民です。親交を深めるためには、相互理解の障害となるものを一つひとつ取り除く作業、および相互尊重のために民間交流を深める作業が重要です。すばらしい心を持つ日本の人たちがモンゴルの歴史・文化を日本人に紹介しようと尽力している以上、我々モンゴル人はそれを支援し協力しなければならないと考えています。あらゆる協力は一方向からの努力ではなく、双方向的な努力の結果により成功に至ります。但東町に設立された日本・モンゴル民族博物館は両国の歴史・文化の紹介に留まらず、モンゴルとの交流、文化協力の中心の一つとなっています。 |
講演後積極的に質問をする ユニオン委員の姿が見られました |
モンゴルの方の接し方について質問をする 木庭ユニオン委員 |
プロフィール
|
オープンハウス冒頭に 豊岡市日本・モンゴル民族博物館 の紹介をする植田館長 |
講演後の集合写真(デムベレルご夫妻、植田館長と一緒に) |