故 冷水 真吾
ユニオン委員(会計監査委員)に捧ぐ


ユニオン委員会      
議長 松 原 義 昭


 去る12月7日(金)午後15時7分、突然の事故で若く尊い命を一つ亡くしました。あまりにも突然な出来事で、告別式を終えた今も、まだ信じられない自分がいます。こんな形での別れを一体誰が思いつくのでしょうか。あまりにも身近な存在過ぎて。
 私と冷水真吾くんとの出会いは、私がユニオンの執行委員をしていた7〜8年ぐらい前のことだと記憶しています。当時、私は執行部の中で播磨製作所内の若手を対象とした青年部の担当をしていました。「ためになる・元気になる・友だちができる」を合言葉に、神鋼グループ企業や異業種工場の訪問見学など青年部の活動を行っていました。その活動が真吾と知り合うきっかけとなったのです。
 若手を育成するという観点から、企画段階からかなり無理な課題を与え、彼らが作成した資料をつき返すような厳しいこともしました。それでも真吾は途中で投げ出すことなく、夜遅くまでかかってでもやり遂げるような実直な青年でした。
 私がさらに真吾との親交を深めることできたのは、2004年に第一次図書贈呈団としてモンゴルへ一緒に行くことになったことです。それまでのユニオンの活動に対する積極性とまじめさが評価され、派遣団6名の一人として真吾は選抜されました。
 現地に到着してからは、真吾は時間を惜しむように精力的に子供たちとの交流を図り、今でも真吾がマルチン郡でバレーボールを教えたり、日本語を教えたりしていた、モンゴルの子供たちに対する心やさしい姿がまぶたに焼き付いています。
 こんなエピソードもありました。モンゴルは真夏とはいえ夜になると0℃近くまで気温が下がることを出発前から真吾に伝えていたにも関わらず、空港にやってきた真吾は半袖のTシャツしか持ってこず、他の人から長袖のシャツを借りて震えていたオッチョコチョイなところが思い出されます。
 最後に真吾と二人で話すことができたのは、亡くなる前月のある会合でのことでした。その会の半ばあたり、仕事に関わったメンバーが一人ずつスピーチをしていく中で、真吾の出番となりましたが、数分間に渡りスラスラと自分の考えを話す姿を見て、彼の成長ぶりに驚きました。
 その後、席に戻った真吾が「今までは人を前にして話すなんて、あがってしまって何も話せなっかたけど、今は話すことができる自分にビックリしています。青年部のころに厳しく指導してもらったことが今になって活きているのかな」と私に話してくれて感動したことを覚えています。真吾の私に対する精一杯の気遣いだったのかもしれませんが、その気持ちがうれしかったし、また頼もしく感じました。話せば他にもたくさんの真吾との思い出が脳裏に浮かんできます。
 27歳という若さにもかかわらず、現場を代表するユニオン委員として、また全ユニオン会員を代表する会計監査委員として活躍していた彼は、ユニオンの次代を担う大人材でありました。その真吾と、もう一緒に歩んでいけないことが言葉では表せないほど残念でなりません。

左が松原さん。右が冷水さん。
  労働災害の撲滅はユニオンにとって最大かつ永遠のテーマであります。二度とこのような災害は起こさないということを固く誓うとともに、再発防止に対して万全の取り組みを行うことを真吾に誓います。
 また12月7日を私たちユニオン会員は絶対に忘れることなく、「完全無災害の日」として留めていきたいと思います。
 真吾、今まで私を助けてくれて本当にありがとう。心よりご冥福をお祈りします。先輩としてまた良き友人として。