モンゴルの人々との交流


オブス県トーゴ知事との面談


オブス県との交流のモンゴル側の窓口である
デムベレルさん(写真中央)の紹介で実現した
オブス県トーゴ知事(写真左)との面談
 忙しい合間を縫ってオブス県知事のトーゴ知事が私たちと面会の時間を取ってくれた。遠い日本からの私たちの交流に対し、次の通り感謝の言葉をいただいた。

<トーゴ知事挨拶>
 図書の贈呈に対して非常に感謝しています。特に将来を担う子供たちは宝であり、子供たちに図書を贈呈してくださるのは、本当に大切なことだと思っています。
 現在、オブス県は日本の茨城県と宮城県と友好関係を結んでいます。宮城県は以前、オブス県のある郡に小学校を築いてくれました。また、オブス県物産として力を入れているサージ(ジュースなどの原料となる果物)と岩塩の日本での販売について現在交渉しています。
 私は、一年間日本へ留学した経験があります。一昨年と昨年の2年間続けて宮城県と茨城県を訪問しています。日本との交流は非常に興味を持っているので、皆さんが図書の贈呈を通じて今後も交流を行ってくれることを楽しみにしています。モンゴルの風景をぜひ楽しんでください。
(角尾 隆 記)


マルチン郡ツェンデスレン郡長との出会い

 モンゴルの子供の日は、大人も子供も夜まで大騒ぎして楽しむようだ。夕食はツェンデスレン郡長といっしょに羊肉とウォッカ。誰かが挨拶する毎に杯を空けるので12人で5〜6本は空いた計算だ。その後、ゲストゲルにみんなで移動しウォッカを回しながら、ツェンデスレン郡長も一緒になってモンゴルの歌と日本の歌を歌う。ロウソクのほのかな灯の下でみんながひとつになった感じだ。
 その後、くるぶしの骨でできたシャガイと呼ばれるオモチャで、すごろく遊びを教えてもらった。途中で何度も意識がなくなっている大野団長を残し、みんなは郡主催のダンスパーティーへ参加した。ダンスパーティー会場では大雪のために発電機が雪に埋もれ、出力不足のために何度となく停電になり、その度に一時中断しては再開するというハプニングに見舞われた。ダンスパーティーはワルツであったため、残念ながらうまく踊れる人は一人もいなかったが皆それぞれにダンスを楽しんでいた。


ゲルの中で肩を組んで大合唱

 翌日のマルチン郡からの旅立ちでは、ツェンデスレン郡長はじめ学校の先生方が峠の上まで見送りに来てくれた。一面の銀世界の中でウォッカを飲みモンゴル相撲をして、最後は双方で歌の大合唱。短い滞在であったが目頭が熱くなる別れとなった。
 マルチン郡のみなさんは、1回きりの交流ではなく2回目の訪問があったことに対し本当に嬉しかったのだと思う。
(坂本 憲太郎 記)


雪の峠でツェンデスレン郡長とのひとコマ


マルチン郡の人々

 真面目そうな顔とは裏腹に陽気な人が多く、郡長もその一人である。マルチン郡のゲストゲルに到着した当日と、子供の日のセレモニーの間は、非常にまじめで堅苦しく、話をするときには重々しく口を開き無口な印象であったが、子供の日の夜になると「ディスコー!!」と叫んで、ダンスパーティーを楽しんでいた。こちらが会場の端で休んでいても「踊ろうよ」と誘ってきた。ダンスホールに集まったメンバーの中では郡長が一番ノリノリで、日本でいう90年代の踊りを披露していた。また、昼間に開催されたスポーツ大会でもバスケットボールを一番盛り上げていたように思う。
 子供の日のスポーツ大会で気付いたが、マルチン郡の人たちは、大人と子供、男女などは関係なく容赦がない。バスケットボールの時も40歳を過ぎた先生が10代の生徒相手に本気で向かっていくし、本気でボールの取り合い(引っ張り合い)をしていた。私たちがバレーボールで見事優勝を決めたときにも「もう一試合してそれに勝てば優勝を認めよう」(トーナメントなので対戦してないチームがあった)と言ってもう一試合させられた。とにかく負けず嫌いである。
 マルチン郡の人々は飲ませ上手で、何かと理由をつけてウォッカでの乾杯をしていたが、私たちが乾杯した後にウォッカを全て飲み干すのに対して、彼らは最初の一回目のみ全て飲み干し、後は一口飲んだだけで、ウォッカを追加していた。彼らの手元を気にしていなかった私たちは見事に乾杯のたびに全て飲み干し、酒が体に回っていった。
 別れの日(6月2日)は、主だった郡の人々が総出で見送りに来てくれたが、やはりここでも飲ませ上手は健在だった。しかし、食事のときに乾杯するお猪口のようなグラスではなく、通常はミルクティーを入れる銀の容器にウォッカを入れ乾杯しようと言うのだ。もちろん、彼らにとっては最大級の別れを惜しむ挨拶である。“これが最後”と思いながら、ウォッカを飲み干したのに、数分したら先ほど飲ませたことはまるで忘れたかのように、平然とウォッカを容器に入れて手渡してくる。彼らの流儀にしたがって、一口だけ口をつけてウォッカを残して戻そうとしても、笑顔で“まあまあ”といわんばかりに容器を受け取ってくれない。仕方なしにウォッカを飲み干すと、やっと受け取ってもらえた。もちろんその数分後には同じようにウォッカを並々と注がれた容器を手渡されるのだが・・・。
 それにしても郡の境まで総出で見送りに来てくれるのは本当にうれしいことである。
(永野 竜規 記)


マルチン郡の境まで総出の見送り
   

銀の器でウォッカを飲み干す

雪の上でモンゴル相撲


エネレル子供センターでの交流

 5月29日訪問したエネレル子供センターは、当ユニオンとも交流のある毎日放送の三多さんの紹介で訪問することになった。今回、同行しているバトスフさんやエンクバットさんも三多さんの紹介で知り合うことができた方々である。エネレル子供センターは、現院長のツェベルマ院長のご主人が生前に設立した施設で、孤児になった子供たちを外国の助けに頼ることなく「自分たちの国の子供たちはモンゴルの人々の力で助ける」という思いで、設立されたそうである。現在は、幼児から18歳までの子供たち108人が暮らし、施設から学校に通っており、夏休みになると農園のあるキャンプ地へ移動し、自分たちで生活している。
 我々が到着すると、長旅で疲れただろうと甘いクッキーとジュースで歓迎してくれた。このジュースは、日本では飲んだことのない食感で、きんかんのど飴のような味であった。これは、モンゴルの特産品にしようとしている“サージ”という果物のジュースであり、水やお湯で割って飲むもので美味しかった。
 施設はコンクリート2階建てで、20畳ほどある子供部屋が6部屋とコンピューター室や絵の勉強ができる小部屋がいくつかある。絵や織物の専門の先生もおり、ここで暮らしている子供たちはみんな幸せそうに見える。実際、高校を卒業し大学生や社会人になった後でもツェベルマ院長をお母さんとして慕い、今度は自分たちが支援する側になって里帰りしていると聞いた。施設そのものは、銅鉱山の会社が資金援助をしていることから、非常に美しく清潔であった。


エネレル子供センターでツェベルマ院長(中央の女性)と一緒に

 今は夏休みに入るので、子供たちは、農園で私たちの到着を待ってくれていた。子供たちは、すでにバスケットボールや長縄跳びなど、元気いっぱいに遊んでいた。キャンプ地の具体的な広さは分からないが、播磨製作所の3〜4倍の広さだろうか?子供たちと先生たちが、自分たちで、寝泊まりするバンガローや食堂、トイレ、ブランコなどの遊具を作ったとのこと。子供用のバンガローは10棟ほどあり、子供が5〜6人寝泊まりできる。約1,000頭程の羊も飼っており、羊などの家畜が立派な財産になっているのだろう。土地は国から無償で、60年間借りており、期限が過ぎても無期限で延長が続けられるとのことだった。
 今は、6月1日の「子供の日」の前で、全ての子供がキャンプ地に来ておらず、約半分の50名強の子供たちが私たちを迎えてくれた。挨拶やバレーボールなどの贈呈のセレモニーに引き続き、日本の歌とモンゴルの「お母さんの歌」を歌った。あんなに車中で練習したのに、出だしで失敗し、バラバラになって残念であった。
 今回は、午前中にオブス行きの飛行機チケットの手続きを行い出発が遅くなってしまったため、到着が夕方となりあまり交流の時間がなかったが、短い時間ながらもバレーボールを使っての遊びやバスケットボールなど、遊びを通じて子供たちと触れあうことができ大変有意義であった。
 夕食は、正月やお祝いの時に食べるヤギの石焼きで歓迎してもらい、キャンプ地のゲル風ゲストハウスで一泊した。6月とはいえ夜は寒く、薪ストーブをつけて寝る。朝、薪ストーブが消えて寒くて目を覚ますと、角尾さんと岡田さんの二人が薪をくべて暖かくしてくれた。旅を通じてお互いを思いやる気持ちが強くなったのだろう。良いことだと思う。
 翌日も子供たちと遊び、朝食にはミルク粥をいただいた。米屋の息子の岡田さんは、「考えられない味だ」と言っていたが、砂糖で味付けしてあり肉食で疲れた胃には優しい味だと思う。すでに子供たちは農園で働き始めており、手を休めて私たちと一緒にたくさん写真も撮ったあと、みんな笑顔で見送ってくれた。
 このエネレル子供センターとの交流は、地元企業の資金援助もあることから、何かを贈呈するというものより、3、4日の滞在で一緒に農園で働いたり、子供と遊んだりすることが良いのではないかと感じた。一番良いのは、農業でもスポーツでも日本の文化や日本語などを教えてあげるお兄さんというか先生役が喜ばれるのだろう。日本からは毎年、けん玉名人がここを訪れてけん玉を教えていると聞いた。
 帰りの車中でも歌の特訓を継続したので、だんだん上手になってきて、タイミングもつかんだ。帰りは下り坂が多いので約1時間程早くウランバートルに到着した。そういえば、行きの時は韓国製ワゴンのエンジンが唸りをあげていたことを思い出し、最後まで頑張ってくれた車にも感謝する。
(黒岡 達男 記)


先生と子供たちだけで建てたキャンプ地のバンガロー


エネレル子供センターの子供たち


初めてパパとなった(?)岡田さん
 言葉が通じないのと人見知りもあって、初めのうちは声をかけても恥ずかしそうに無言でこちらを見ているだけであった。しかし、いったんボールを持ってバレーボールの輪の中に入ると、皆笑顔で笑いかけてくる。子供センターの施設では一人の子供(2歳くらい?)が岡田さんに抱かれて岡田さんのことをモンゴル語で「パパ、パパ」と呼んでいた。カメラを向けると岡田さんの顔を無理やり両手でカメラに向けさせて一緒に写ろうと必死だった。一度抱きついたが最後、施設を見学している最中はずっと岡田さんから離れようとはしなかった。キャンプ地では年長者も年少者も入り混じって子供たちとバレーやバスケットを楽しんだが、そんな顔を見ると生き生きとして見える。
(永野 竜規 記)


エルデネット周辺

 エネレル子供センターのあるエルデネットはソ連統治時代に銅の発掘と共に発展した町である。町に入ると銅鉱山で利用された水を貯めるダムのような貯水池が見えるが、貯水池周辺にはそこから流れ出た水が溜っていた。その水は緑色に近く、周辺の土は白く見える塩のようなものでコーティングされていた。多分、銅を含んだ水が蒸発し、白っぽくなったり、緑っぽくなったりしているのだろう。町の中心地からは大きくそびえ立つ丘が見える。その丘は高さが数十メートルであり、丘の上がまっ平になっている。まっ平な部分は高さの2〜3倍の長さがある平たい台形の形をした丘である。この丘こそ銅の発掘場であるが何年もかけて銅が発掘された結果、山々が丘へと変わっているらしい。あと30年は銅を採取する計画らしいが、その頃にはエルデネット一帯は山のない平野部へと様変わりしているかもしれない。


ロバに乗って農園で作業に向かう子供たち

 子供センターの子供たちが夏の間過ごすキャンプ地は、青々とした草の茂った山の麓に位置している。キャンプ地の裏にある山(小高い丘)の頂上までは10分程歩けば到着するが、そこからキャンプ地の方角を見ると、扇形に広がる草原が目の前に広がり、周りを丘で囲まれた盆地になっている。正面に広がる平原には視界を遮る丘や建物はなく、ただ平原が続いていた。自分が登った山の片面(キャンプ側)には木々は見られず、草原が広がっていたが、山の反対斜面には木々が茂っていた。葉を見ると、針葉樹であった。
 日中、私たちが訪れた時は気温は15〜18度程度に感じたが、夜になると一気に冷え込み、朝の5時頃には建物の中も5度ぐらいにまで冷え込んだ。
 この地方では、ネズミのような生き物(畑で発見)やオオカミ、小型の熊が生息しているらしい。熊は以前このキャンプ地で捕獲し、檻の中で飼っていたが、穴を掘って見事に逃げてしまったとのことであった。子供らは、また熊を探して飼うつもりらしい。
 また、広大な畑を耕して作物を作っているが、さすがに毎年手を入れているだけあり、畑は黒々とした栄養分を含んでいそうなやわらかい土で覆われていた。
 キャンプ地には電気が通っておらず、蓄電か小型の発電機によって必要な電気を確保していた。ただし、6月は午後9時であっても充分にバスケットボールやバレーボールが出来るぐらいに明るく、室内に入らない限り灯りは不要と思われた。さすがに午後10時を超えると周囲に灯りは見えないため真っ暗闇が広がり、外を歩くのも一苦労である。残念ながら雨が降って星空を見ることは出来なかったが、晴れていれば町の灯りに邪魔されることなく、綺麗な星空が見れただろう。
(永野 竜規 記)


朝の水くみは子供たちの大切な仕事

バレーボールには、小さな子供も参加


楽団イフカザル(大地)のメンバーとの交流

 5月28日、ウランバートル空港で迎えてくれたのがモンゴルでの生活をサポートしてくれるバトスフさんとエンクバットさんだった。エンクバットさんは「コンニチハ」と流暢な日本語で話しかけてきたため、てっきり日本に留学していたのかと勘違いしてしまったが、日本には数回行ったことがあるだけで、日本に来た時に、耳で日本語を聞いて覚えたとのこと。
 彼は28日と29日、我々のエルデネットのエネレル子供センター訪問に付き合ってくれ、エルデネットへの道中では、モンゴル語の「おかあさん」の歌のレッスンを行ってくれた。また、私たちの話し相手になってくれたり、さらには6月1日に行う各メンバーのモンゴル語の自己紹介の練習に付き合ってもらうなど2日間お世話になりっぱなしだった。
 エルデネットからウランバートルに戻ると、彼は「コンサートがあるから」と言い残して去っていったが、実は約140名の団員を束ねる楽団の団長であり、この日も夕方から総勢170名のコンサートを開催したとのことだった。非常に忙しい合間をぬって私たちの旅に同行してくれた彼の心遣いに感謝してもしきれぬ思いだった。
 なお、彼は伝統的なモンゴルの民族楽器であるリンベ(横笛)の奏者で、息を吐いて音を出すのと同時に息を吸うことができるという特技の持ち主である。そのため彼は息つぎをしなくても何時間も音を出し続けることができる。どこでそのような技を覚えるのか?と聞いたところ、音楽大学で習ったとのこと。しかし、実際にこれをできる人はモンゴルでも10人しかいないらしい。モンゴル民俗音楽の公演はモンゴル国内に留まらず、日本、欧州やロシアなど世界をまたに架ける音楽家であった。
 また、同じ楽団イフカザルのメンバーであるビールワンさんは馬頭琴の奏者で、彼の馬頭琴を2mという至近距離で聞くことができた。馬頭琴の音色はビールワンさんの体格に似合わず、非常に繊細でかつ深い響きのある音色だった。馬頭琴の音色を聞いている間は皆動くのを忘れてしまうほどだった。
 別のメンバーの方も馬頭琴とホーミーを披露してくれ、馬の地響きと共に小鳥のさえずりが聞こえてくる非常に躍動感あふれる曲が印象的だった。
(永野 竜規 記)


楽団のレッスン場で馬頭琴の演奏を披露してくれた
ビールワンさん

楽団イフカザルのメンバー   
後列左側が、エンクバットさん
前列右側が、ビールワンさん