私にとっての「働く」とは[4]
青年海外協力隊(パラオ共和国)
に赴任して
本社ブロック     
高 野 重 好


はじめに


 みなさんこんにちは。第二営業本部冷却塔部の高野です。今日は青年海外協力隊としてパラオ共和国に派遣された2年間について話したいと思います。


パラオ共和国とは



日本からパラオまでは
グアム又はサイパンを経由
・地理
 パラオは日本から南に約3,000kmの海原に点在する大小300余りの島々からできており、これら多数の島のうち人が住んでいるのは9島あり、残りの大多数は無人島です。また、人口2万人弱の半数近くが首都コロールのあるコロール島に住んでいます。

・習慣
 習慣はパラオ語でもシューカンです。幅広い意味で葬式もシューカンです。写真は第一子が生まれたときに祝う習慣です。大昔のパラオでは帝王切開が普通で子供を産むと母親は亡くなるという言い伝えがありました。その後、蜘蛛の神様が舞い降りて自然分娩を伝えたという伝説があり、第一子が生まれた後は元気である事を証明するために、母親が人前に登場し無事を祝う。というのがこの習慣のはじまりだそうです。


パラオの海辺

・歴史
 パラオは昔、日本国南洋町と呼ばれ、写真のように街並みも日本そっくりでした。また、第一次世界大戦の終戦後、約31年間、日本の統治時代があったため、比較的日本に近い文化が残っています。例えば人の名前です。約40人いるポリスアカデミーの中には、「サカジロウ」、「キョウタ」、「キンサン」、「サブロウ」、「タカタロウ」といったファミリーネームの生徒達がいました。ちなみに「タカタロウ」は女の子で、父親は「ヒデキ・タカタロウ」です。教育省の大臣は「マリオ・カトウサン」です。敬称を付けると「カトウサンさん」です。他にも公安局には一人なのに「ノブオ・テルオ」といった漫才コンビのような名前の人もいます。ファミリーネームが「キンタロウ」という一族もいます。パラオ人は初対面でも最初の自己紹介で名前を聞くだけで親しみを感じることができました。
 2年間ホームステイをしていた家族では、小学生の子供たちの名前は「サチコ」と「ユキエ」です。ほとんどのお年寄りは日本の統治時代はよかったと語り、日本のことが大好きです。ステイ先のおばあちゃんも日本が大好きで、子供たちにも日本の名前がつけられました。パラオの家族と一緒に生活して驚いたのは、日本による侵略戦争のイメージはなく、パラオと日本が過去に共生共存していたということです。


昔のパラオの町並み

・食事
 主食はアメリカのカリフォルニア米とタロイモやタピオカです。週末は漁に出かけるため、おかずは近海でとれる魚の刺身が多く、醤油と庭にあるパラワンレモン、わさびをつけて食べます。そして、残った魚は煮付けや油で揚げて食べます。
 一番変わった食べ物はコウモリかもしれません。あと、おやつになまこを食べるのも多かったです。なんせ、ポテトチップが2ドル、なまこは海にごろごろいて“きざみなまこ”がスーパーで50セントで売っているのでわかるような気がします。


コウモリを食べた


青年海外協力隊について


[1] JICA(Japan International Cooperation Agency): 国際協力事業団とは
 この度、青年海外協力隊に参加し、2003年3月1日から約2年半、会社を離れ休職した訳ですが、この青年外協力隊とはどういうものなのか、どういう制度なのか、簡単に説明します。青年海外協力隊とは開発途上国政府からの要請に基づき、JICA(国際協力事業団)が実施している国の事業で、技術、技能をもつ青年を開発途上国に派遣し、現地の人々と生活をともにしながら、その国の経済、社会の発展に貢献するといったものです。例えばセネガルで稲作栽培を主とした農業技術指導を行い水田の開墾、稲作技術の普及を行ったり、タンザニア北部の職業訓練校で溶接の指導を行ったりといった事業が繰り広げられています。ところで、JICAが行っているこういった事業は一体どこがお金を出しているのでしょうか。2000年度におけるJICAの技術協力は1,792億円になりますが、これは我が国のODA予算10,466億円からなっています。JICAとはODA(政府開発援助)の実施機関として開発途上国に無償で技術協力をしています。
 自分が話を聞く立場だったら、「国のお金なんてどうでもええねん! パラオにいる間、いったい、いくらもらっててん!」と思うでしょう。月給そのままではなく、多少減額されていました。しかし、国は会社のボランティア制度をサポート、応援しています。JICAのシステムは会社が休職した人間に支払った金額を、国から会社に補填する。つまり、会社が協力隊に行く人間は給料の1割しか支給しないと決めれば、その金額が国から会社に補填されます。会社が8割支給すれば、その金額を国が会社に補填します。これはJICAのホームページにも掲載されています。
 パラオに派遣される前は、年に1回1週間のリフレッシュ休暇がある会社や、ボーナスや給料が高い会社の話などを周りから耳にして、普段は隣の家の芝が青く見えることが多かったですが、今回ははっきり言えます。「自分の家の芝は青いです。」感謝しています。


[2] ODA(Official Development Assistance): 政府開発援助とは
 話がそれましたが、JICAの使っているお金はODA予算からということですが、ではODAとは一体どういった機関なのでしょうか。ODAとは開発途上国の抱える問題に取り組むために、政府が開発途上国に対して提供する資金や技術援助のことをいいます。青年海外協力隊の説明をしようとすると、JICAという言葉がでてきて、JICAを説明しようとするとODAという言葉がでてきます。ODAを説明しようとするとまた新しい言葉がでてきますので、この辺で青年海外協力隊の説明は終わりたいと思います。


派遣内容について


 この度、青年海外協力隊としてパラオ共和国に派遣されたわけですが、なぜパラオに派遣されたのか、目的は何なのか簡単に説明します。今回派遣されたパラオの警察官や公安局員は、暴力などの危害を受けるリスクを常に持っていますが、危害から自ら身を守る術、護身術を習得していません。そこで国の護身術として柔道が採用されたのですが、パラオ国内には柔道(護身術)を指導する人材がいないため、日本から誰か1名派遣してくれないかという要請があったからです。以下、派遣要請の文面を引用します。

『派遣要請理由:公安局スタッフ(刑事、警察官、刑務官など)は法秩序を守るために犯罪取締やパトロール業務などを行っているが、このような業務において暴力などの危害を受けるリスクを常に持っている。スタッフは前記危害から自ら身を守る術、護身術を習得すべきであるが、現在のところ護身術を教える人材がパラオにいない。そこで、公安局スタッフに柔道による護身術を教えながら、将来的に柔道(護身術)指導ができる人材の育成が可能な隊員の要請に至った。』
(配属省庁名:法務省(Ministry of Justice)
 勤務先名:公安局(Bureau of Public Safety)
 地位:護身術(柔道)トレーナー(Self-Defense (Judo)Trainer))

といった派遣内容です。


きっかけ


 出発前の講演で話しましたが、前回とメンバーが違いますので、この場でもう一度話をしたいと思います。いろいろな要因があったのですが、一番強かった思いは「生きているうちに精一杯のことを!」というのがありました。阪神大震災で父を亡くしたことから、自分がやりたいと思っている夢は生きている間、つまり今しかできない、今を精一杯生きる、と思ったからです。

[1] 阪神大震災

震災で全壊した自宅。最愛の父を失った。
1995年の震災当時、実家は長田区の御蔵・菅原地区にありました。父親が亡くなったという辛い思い出はありますが、それと同じぐらいたくさんの人たちの温かさに接することができました。避難所にはボランティアで集まった人や全国から集まった支援物資でいっぱいでした。辛い思い出としては、村野工業高校の体育館に遺体が100体以上も並べられ、棺桶が不足していたためか背の高い父にも小さいサイズの棺桶しかなかったのか、丈がいっぱいで足を少し曲げ窮屈そうにしていたこと。また、圧迫死のためか死後硬直で拭いても拭いても口から血が噴き出してきて、顔を見る度に口から流れでた血を拭いてあげたことが今でも思い出されます。しかし、今でも誇れることもあります。地震が起こったときは父も起きていて、2階の部分がそのまま落ちてきたときは母をかばうように倒れたそうです。母は父のすぐそばで埋まっており、二人とも2階の梁の下敷きになっており、大きかった父の厚みでかろうじて母の命が救われました。最後の最後に好きな人を守って、大きな仕事をしたなと誇りに思っています。

[2] コスタリカでの柔道体験
 『異文化の中にニッポン』
 初めて柔道を通して異文化に接したのは1996年、23歳の時でした。在籍していた福井大学の柔道部にコスタリカから来た留学生がいました。春休みに彼が実家のコスタリカに帰ることになり、あとを追いかけ実家の近くにあるコスタリカ大学の柔道部に顔を出すことになりました。コスタリカはパナマ運河の南に位置し、日本とはちょうど地球の反対側にあり、日本と縁がないように感じますが、柔道の練習が始まるとスペイン語が飛び交う中、『正面に礼!』や『黙想〜』、『服装正して!』などは日本語がそのまま使われており、異文化の中にニッポンを感じることができました。


コスタリカ柔道−全体

[3] 漠然とした夢から具体的な現実へ
 柔道を活かした国際貢献や国際交流をしたいという漠然とした夢は常に持っていましたが、社会人になってから見た新聞記事がひとつのきっかけになりました。記事の内容は「インド柔道はばたけ/邦人男性が本格道場」といった見出しで、ある男性が14年前からインドで柔道を教えはじめ、大学生や警察官などが毎日練習に来ていましたが、柔道を習うと行儀がよくなるという評判を聞きつけ、親が子供を連れてきたりするうちに警察学校の校長から柔道をする場所を提供され、本格道場がオープンしました、といった内容の記事です。その中で、他の道場では同じカースト同士でしか組み合わないケースが多いが、ここでは誰とでも組み合います。また、学生は就職、警官は出世を目当てに柔道を始める人も多く、全国クラスの選手になれば授業料が免除されたり、警察では大会の成績が昇進に結びつくといったケースもあります。そういった背景から日々の練習にも熱がこもり、本家の日本に対抗心を燃やし続ける男がいると紹介されていました。この記事を見て、漠然とした自分の夢が、何となく輪郭をもって見え始めてきました。

[4] 合格通知を受け取ってからの心境
 うれしい反面、会社の危機的な状況を目の前にして、早期優遇退職で多くの先輩方が抜け、さらに自分が抜けることに対する責任の重さと葛藤する時期が長く続きました。選考に落ちたと思って夢をあきらめようかと思ったこともありました。しかし、夢を紙に包んで手の届かないところに片付けてしまうことは、一生後悔すると思い、派遣への決意を固めました。
 そのとき、会社を辞めるかどうかの選択がありました。それは会社に委ねることにしました。行きたいというのが自分の中でのMUST条件で、退職か休職かは会社の判断に任せることにした結果、2年半の休職が認められました。なぜ認められたか、周りからいろいろ聞きますが実際のところ何だったんでしょうね。青年海外協力隊の制度には退職参加と現職参加がありますが、ほとんどの人が会社を退職して参加しているのに対し、ここに今自分が立っていられるのも、チャンスを与えてくれたこの会社があったからです。繰り返しになりますが、いい会社です。感謝しています。そう思いませんか?


活動報告


[1] パラオ柔道のはじまり
 柔道着も畳も何もないゼロからのスタートでした。はじめに、柔道にはパンチやキックがないという説明からでした。ジャッキーチェンなど映画の影響が強く、殴る、蹴るが主流だと思われていた護身術で、抑込や関節技で相手を制するという概念は新鮮だったようです。彼らの理解を得るために、柔道とは少し離れますが、ボクシングと柔術が戦っている異種格闘技のビデオを見せたりもしました。

[2] ポリスアカデミー
・Tシャツ短パン柔道
 派遣されて1ヶ月、自分にとって1期生となるポリスアカデミーが始まり、月曜から金曜まで毎日2時間の柔道クラスがありました。柔道着がないため、アカデミーの制服であるTシャツで柔道をしていました。そのため、双手背負や小内刈などの襟や袖を持った技は殆んどできませんでした。また、護身術や逮捕術といった概念が強かったので、上半身が裸の相手を想定した練習も行い、レスリングと柔道が混ざったような柔道指導でした。


授業風景

・日本から柔道着の寄贈
 派遣されて1ヶ月が経った頃、NHKラジオに出演して「Tシャツで柔道をしている」というパラオの柔道事情について話をする機会を頂きました。その結果、平日の朝8時からの放送にもかかわらず多くの応援メッセージを頂きました。その中で、新品の柔道着を20着も購入してパラオに寄贈してくれた方もおられ、計38着の柔道着がパラオに届きました。寄贈された柔道着は現地の新聞でも大きく取り上げられ、早速、ポリスアカデミーの授業で使用することになりました。

・初の柔道トーナメント
 卒業を間近に控えたアカデミー最後のクラスで、パラオ初となる柔道トーナメントを開催しました。“有効”や“技あり”などのポイントはありません。相手を投げて抑え込むか、絞技や関節技で相手から“参った”を取れば勝ち、という特別ルールで行いました。国際ルールとは大きくかけ離れていますが、柔道の試合を一度も見たことがない生徒にとっては、勝敗がはっきりしていたので分かりやすく、非常に盛り上がりました。また、それとは別に、決勝戦を見守っていた生徒全員が尊敬の意を表して正座をしていたことが非常に嬉しく思いました。

・司法大臣から感謝状
 パラオに派遣されてから約1年が経った頃、会社の柔道部の方々がパラオを訪問しました。ラジオ出演で集まった柔道着とはまた別に、寄贈して頂いた柔道着20着を持参してポリスアカデミーに参加し、得意技の紹介や技術指導などが行われました。日本とパラオ、柔道による友好の架け橋となり、警察や税関などを管轄する司法大臣から感謝状が手渡されました。


日本よりパラオへ柔道着を寄贈した

[3] 柔道の普及
 派遣された当初、一般向けの柔道教室は警察からストップされていました。警察が護身術や逮捕術として柔道を採用したのに、一般の人が先に上達すると困る、といった理由からです。しかし、活動も1年以上が経過し、相手に危害を加えるのではなく相手を尊敬し礼を重んじる柔道が認められたのか、そういった意見もなくなり、大学生を中心とした一般向けの柔道教室を開催できるようになりました。初めて警察で開催した自由参加の柔道クラスは受身3日目で10人いた参加者がゼロになった経験を活かし、次のクラスからは初日にひざを着いた状態での乱取りを行い、自ら相手をすることで柔道とは何かを知ってもらうようにしました。抑え込むとなぜ逃げられないのだろう、と興味をもった参加者はその後も継続し、3名から多い時で10名ぐらいですが、少しずつ参加者が増えるようになりました。

[4] オセアニア選手権(2004年4月)
 アテネ五輪の予選を兼ねたオセアニア選手権がニューカレドニアで開催されました。国際柔道連盟の教育コーチング理事を務める山下泰裕先生が来られ、オセアニア地区の柔道普及のためセミナーを開催しました。残念ながら、このときはパラオからの選手派遣はありませんでした。
 選手権終了後、合同のトレーニングキャンプが開かれました。それと同時に、各国のコーチが集められ、オセアニアのコーチングライセンスを取得しました。

[5] オーストラリア遠征(2005年6月)
 パラオで柔道を指導する自分の任期は2年です。後任を要請していたのですが見つからず、任期もあと2ヶ月となりました。自分が日本に帰国すれば誰がパラオの柔道を引っぱっていくのだろうか。パラオ柔道が自立するためにはオセアニア柔道連盟と密に繋がることが重要です。これまでは自分がオセアニア柔道連盟とパラオを結ぶ役割をしてきましたが、これからはパラオ人が主役にならなければいけません。かねてより目をつけ、警察官の同僚に経験を積ませるため、オーストラリア遠征に連れて行きました。オセアニア柔道連盟役員の自宅に滞在し、3つの道場に通い、練習以外の時間は部屋にある柔道のビデオを何本も見続けました。パラオには自分しか黒帯がいませんが、遠征ではたくさんの黒帯と練習をすることができ、彼は次のアカデミー柔道指導者として大きく成長しました。

[6] パラオ柔道連盟の設立
・設立の目的
 警察やポリスアカデミーで柔道が採用され、パラオで柔道が始まってからまだ2年弱ですが、これからパラオの柔道がもっと安定継続して発展していくためには個人の力ではなく、組織の力が必要であると感じました。個人では受けられないサポートも法人団体としてパラオ柔道連盟が認められれば、パラオオリンピック委員会に加盟でき、様々なサポートを受けられるようになり、また、国際大会にも参加できるようになります。

・発足
 パラオ柔道連盟が非営利法人団体として登録されるためには4名の役員(会長、副会長、秘書、会計)と連盟規約などの書類が必要でした。会長はポリスアカデミーの総指揮官、会計と秘書は同僚の警察官に就任していただき、裁判所に登録申請を行いました。そして、2005年2月28日、大統領の承認が下り正式にパラオ柔道連盟が非営利法人団体として発足しました。その後、オセアニア柔道連盟に加盟を申請し仮承認を受け、2005年9月、カイロの世界選手権における大陸別総会で正式に加盟が承認されました。これで、パラオは正式に国際柔道連盟の一員となりました。
 しかし国際柔道連盟の加盟にはいろいろ障害がありました。
 オセアニア柔道連盟に加盟されれば自動的に国際柔道連盟に加盟されるのですが、パラオが連盟に加盟したその翌日、国際柔道連盟の総会があり、4年に一度の国際柔道連盟の会長選挙が行われました。現職は韓国のパク会長で、オリンピックなどで見られるカラー柔道着を導入した会長です。彼はオセアニア地区の支援を約束していました。そして、会長選挙で対立するのはヨーロッパ連盟の会長で、アフリカ各国のサポートを約束していました。選挙結果は接戦で、僅差で現職のパク会長が選ばれました。
 問題になったのはその後です。パラオは前日に加盟し、翌日の選挙に1票を投じたのです。もちろん、オーストラリアに行った際、前もって委任状を書いておき、当日カイロでの総会は欠席しました。委任状の真否、つまり今まで聞いた事もない国が、本当に柔道をしているのか。選挙のためのペーパー組織ではないのか、といった内容でヨーロッパ各国から異議申し出がありました。その場はオセアニア会長が納めたようですが、まだ完全とは言えません。
 ヨーロッパ連盟の異議申し立てを払拭するために、来週開催されるオセアニア選手権でパラオの選手を派遣し、パラオを初の国際大会の舞台に立たせたいと思っています。

[7] オセアニア選手権

オセアニア選手権
  国際柔道連盟に加盟し、初の国際大会であるオセアニア選手権が2005年11月、オーストラリアで開催されます。パラオにとって試合も大事ですが、試合後に開催されるトレーニングキャンプに参加してレベルの高い柔道を肌で感じることや、国際大会に参加した実績(前例)を作ることも必要だと思っています。しかし、参加するには多くの問題があります。オセアニアにある国の多くは島国なのでバスで試合に参加することはできません。飛行機を乗り継いだ移動には莫大な遠征費がかかってきます。そういった障害を乗り越えて、是非、参加したいと思っています。オセアニア選手権まであと1週間、パラオ柔道連盟の日本支部という気持ちでこれからもサポートしていきたいと思います。


おわりに


 今日は“働く”がテーマになっています。最後に少しだけまじめな話をして終わりたいと思います。みなさん、アントニオ猪木はご存じですか? パラオには猪木アイランドという島があります。というのは、猪木がパラオのサンゴ礁を保護する基金を設立し、大統領とも親交が深く、年に数回はパラオに来ています。いや、それ以上かもしれません。そういった関係で、島を一つプレゼントされたようです。といっても、パラオでは外国人が土地を所有することは認められていないので、名前の権利と所有権だけで、亡くなればパラオに戻されるそうです。
 まあ、最後に何が言いたいかというと、「元気ですか〜っ! 元気があれば何でもできる! 元気があればパラオに来れる! 1・2・3・ダァー!」、猪木のパラオ公演で投げ掛けた言葉で、みなさんよくご存知のフレーズだと思います。
 つまり、自分の仕事に取り組む姿勢は“元気”イコール“やる気”です。
  「やる気があれば何でもできる!」です。やる気があれば新しい発想が生まれます。知識があってもやる気がなければ新しい発想も生まれてきません。やる気があれば知識を身に着けようと努力します。何事もやる気です。
 やる気は人によって違うと思います。仕事そのものにやり甲斐を見つけようとする方もいると思いますが、残念ながら自分はそういうタイプではありません。嫌なことも辛いこともしなければならない、それが仕事だと思っています。そして、その代償、報酬として自分のやりたい事を実現させる。
 自分は自分のやりたい事、夢を実現させるために仕事をするタイプだと思っています。皆さんもこんな経験をしたことありませんか? たとえば、金曜日に休みを取って週末に子供を連れてキャンプに出かける計画を立てると、その週は月曜から仕事に対して意欲的になりませんか? なんとしても木曜までに仕事を片づけ、金曜日を休んでも業務に差しつかえがないようにしようと、いつも以上に頑張ると思います。
 同じ部署に好きな人がいる。だからいいところを見せて気を惹きたい! というのも立派な仕事に対するやる気だと思います。結婚して子供が生まれた。頑張らないと! という人も多いかと思います。
 皆さんの仕事に対するやる気は何ですか?

 最後に、2年間パラオの家庭で過ごし、日本を離れて感じたことを一言・・・
 日本は経済的には先進国です。パラオは経済的には発展途上国です。しかし、心のゆとりについていえばパラオは先進国です。ここで日本を振り返って下さい。心のゆとりについて先進国といえますか? パラオのようになれとはいいません。両方で先進国を目指したいと思います。
以上


<講演後、その後の報告>

 講演終了後、11月5日からオーストラリアでオセアニア選手権が開催されました。遠征費の捻出など苦労しましたが、なんとかパラオから選手2名を派遣させることができました。初参加ということもあり、勝敗に関係なく会場から多くの声援を受けました。また、試合以外では、パラオの柔道事情について多くの取材を受け、中には尋問のような取材もありましたが、カイロでの委任状疑惑、パラオが会長選挙のためのペーパー組織ではないかというヨーロッパ各国からの異議申し立ても完全に払拭することができました。晴れて世界の仲間入りです。
 次の目標は、国際大会の初勝利です!