私にとっての「働く」とは[3] 「デフ・ラグビー」 イギリス遠征に参加して |
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播磨ブロック 君 野 真 弘 |
はじめに |
みなさん、こんにちは。 今日は、ユニオンから依頼を受けた「デフ・ラグビー」をテーマにお話しさせて頂きますが、その前に少し時間を頂いて、SKSの社員として聴覚障害者の存在を皆さんに知って頂きたいので、「これまでの私の半生」を振り返りながらお話をしたいと思います。私の話を聞き終えたあと皆さんの聴覚障害者に対する認識に少しでも変化があれば幸いです。 |
耳が聞こえない |
まず、私の耳のことからお話します。 私は昭和49年大阪に生まれましたが、物心ついたときには鳥取へ引っ越しましたので、関西人とはいえません。家族は父と母、そして兄、祖母と私の5人家族です。いつから聞こえなくなったのかというと、それは生まれた時からです。医学的には両耳感音性障害といいます。みなさんは、その障害名を聞いてもまずピンと来ないと思います。これは「耳が遠い」とか「聞こえにくい」ということとは全然、違います。 それは一般には伝音性障害と言っています。その場合は、大きな声でしゃべる。またはゆっくりしゃべることで聞き取りが可能です。しかし私のような感音性障害ですと、音声を感じ取る聴覚神経が全く機能しないために声の母音の区別がつかず、大きな声で話されても、ゆっくり話されても雑音としか聞こえず判別は出来ません。コミュニケーションをとるため、大きな声でゆっくりと話してくださる方には申し訳ないのですが、実際に言葉としては入っては来ません。 聞こえの程度を判別する目安はdB(デジベル)で表します。その値によって障害の等級が決まります。私の場合は100dBを超えていますが、みなさんはこの数字がいったいどれくらいのものなのか、どれくらい聞こえているのかイメージ出来ないと思います。 具体的にいいますと、車のクラクションの音は聞こえません。真上に飛行機が飛んだり、電車のガードレールの下にいて電車が通り過ぎると、なんとか聞こえるような気がしますが実際には、耳で聞く音よりも体で感じる振動の要素の方が大きいです。 ですから私は人の声とか音とかが、どんなものか分かりませんので、口話によるコミュニケーションは当てにしていません。口話とは相手の口の動きを見て単語を読み取ることです。これは大変難しく、そして神経を遣います。 たとえば、「たまご」と「たばこ」の口の動きは同じですよね。 この場合にその単語を決定するには頭の中で前後の文章を整理して、どちらが適切かを判断する必要があります。しかも、会話は進行中ですから目はずっと口の動きを追わなければなりません。一日中これをするとヘトヘトです。 人は耳から入った音をまねて口から出すことで言葉の練習をしていますので、幼いころ、耳が聞こえないことで大きな問題になるのが「自分の意志で発音が出来ない」ということです。そのために父は、私が5歳になると発音訓練士の指導を受けさせるために毎週、大阪まで片道3時間かけて車で連れて行ってくれました。そこで1時間の発音訓練を受けていました。たった1時間と思われるでしょうが、発音訓練は喉を痛めつけるので、終わったあとは、もう痛くて痛くて1時間が限界でした。そして、覚えたことを家で毎日反復練習するというのが幼いころの私の生活でした。 ですから幼少期は普通の子供たちよりも遙かに遊ぶ時間が少なかったと記憶しています。しかし、その甲斐あって少しは喋ることが出来るようにもなりました。大人になった今、ようやくそのときの父と母の気持ちが分かるようになり、両親の苦労の大きさと愛情の深さが身にしみています。
このころはまだ自分以外の聴覚障害者に会ったこともなく、自分は世の中でたった一人の聴覚障害者ではないのかと不安をいつも抱えていました。また健常者の同級生たちと同じことが自分には出来ないということに対する強い屈辱感の中にいたことを思い出します。 高校進学のことを考えていた頃は、それまでの授業が全く分からないという、もどかしさに耐え切れず、どうしたらいいのかと悩んでいるころでした。偶然、筑波大学の附属にあたる聾学校のことを新聞で見つけました。そこには高度教育の上に授業内容の情報保証もあると書いてありました。「これならちゃんと勉強できる、自分の能力を試すことが出来る」と思い、この聾学校を目標に受験勉強を始めました。努力の甲斐あって念願が叶い、「これでこんな厭な思いから解放される」と嬉しさが込み上げてきたことを今でもよく覚えています。 聾学校への入学をきっかけに私の人生を大きく変えることがありました。それは手話の存在です。そこは先生も生徒も手話を使うのがあたりまえの世界でした。 私は手話が全く分からず、周りの会話についていけず、いわゆる5月病になったこともありました。しかし、時間の経過と環境への順応というのは恐ろしいもので、気が付けば知らず知らずに日常的に手話を使うようになった自分がいました。授業は全ての先生方が手話を使って行いましたし、職員室に判らないことを聴きに行けば、判るまで何度でも教えていただきました。大学では機械工学を専攻し、卒論はエンジンのセラミックスについて研究しました。しかし勉強よりも熱中したことは当然部活動でした。高校時代は軟式野球、大学はサッカーに明け暮れていました。 思い返せば大学を卒業するまでは、本当に毎日が平和で何の苦悩もなく過ごすことが出来ていました。しかし、いつまでも学生でいられる訳もなく、そのうちに就職活動を真剣に考えなければならないときがやってきました。 |
社会人となっての葛藤 |
聴覚障害者としての採用は私が初めてであったことを聞かされたときは、大きな失望感を覚えたと同時に「この先どうなるのか」という不安は経験したことのないほど、とても大きなものでした。 また会社も聴覚障害者の受け入れが初めてだったということもあって、障害というものを全く理解出来ていませんでしたし単に法律上の障害者雇用率を達成することだけに重点を置き、採用して所属先に廻して、“はいおしまい”というような感じを受けました。 与えてもらう仕事の質にしても健常者と大きな差がありました。それは仕事をする過程で必ずコミュニケーションが入ることへの配慮だったと思うのですが補助的なものばかりで、やり甲斐もありませんでした。自分のスキルアップを望んで、度々上司に、「まともな仕事が欲しい」と訴えましたが、少しの間だけ考えてくれて、いつの間にか自然消滅するといった繰り返しでした。今思えば上司も、「どのように接すれば良いのか、どのような仕事をさせれば良いのか」が分からなかったのでしょう。当時は今とは違いメールも普及していませんでしたので口頭連絡が多く不便でしたし、会議では資料に目を通すだけで議論に入っていけるわけもなく、ただ呆然とその光景をスクリーンの中の出来事のように眺めていました。親睦会はというと、廻りの会話が全くわからず、仕方なくひたすら食べ続け、お腹が膨れると「早く終わらないかな」と時計ばかり見てました。そんな風でしたので、だんだんと飲み会に顔を出すことが少なくなっていきました。 「付き合いの悪い奴やな」と思われても仕方ないですね。今ならメールもありますし、僕自身成長もしましたので、そういったことも少々受け入れることができるようにもなりましたが、そのときは全く気持ちの余裕もなくストレスが日ごとに大きくなり、体調を崩すことが多くなってしまいました。 「もう嫌だ、もう駄目だ」と会社を辞めたい気持ちが次第に大きくなり、他の道を生きることが自分にとって賢明なのか、もう一度やり直した方がいいんじゃないか、まだ今ならやり直せるんじゃないかと模索する毎日が続きました。 |
デフ・ラグビーを通じて |
そんな或る日、デフ・ラグビーをやっていた学生時代の友人が熱心に私を誘いました。当時は、ルールも何もわからなく、興味もそれほどではなかったので、あまり乗り気ではありませんでした。しかし友人の熱心さに負けて、軽い気持ちで練習に参加してみました。すると初心者の私に対しても容赦なくブツカリに来るし、かなり走らせるし、もうきつくて、こんなのは一回で充分だ、もうコリゴリと思いましたが、なんというか暇つぶしに練習に参加するようになると、いつの間にか毎週練習に通うようになってしまい、気がついたら完全にラグビーの虜になっていました。 ここで、私の夢中になっているデフ・ラグビーについて少し説明します。 デフというのは聾者の英語ですが、聾よりもニュアンスがやわらかく感じ、聴覚障害者はデフという言葉を好んで使う傾向があります。 普通のラグビーと何が違うかというと、ルール上は何も変わりません。ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、ラグビーは意外に音を大切にするスポーツです。試合をコントロールしていくには声をかけ合うことが重要とされます。しかし、私達は音が聞こえない分、目だけで全ての情報を集めてゲームをコントロールしていきます。 そのために普段の練習では普通の人よりも、コミュニケーションをとる時間がたくさん必要になってきます。 私にとってラグビーの最大の魅力は、TVでよく見かける華やかなプレーではありません。 “One for All, All for One”という精神を形成することです。 当たり前の話ですが、みんなと一緒に力を合わせたら、ひとりでやるより大きな、そしてよりよい結果を生むことができます。こういうことが頭にあっても、感情のコントロールというのは簡単なものではありません。 私がここ本社にいた頃は、仕事にも人間関係にも悩んでいましたので、その怒りをラグビーにぶつけていました。先ほど、話をした“One for All , All for One”と明らかに正反対でした。つまり、生活の中で二つの精神を抱えていたことになります。ひょっとしたら二重人格に近かったのかも知れません。愚痴を言い始めたらキリがありませんので、これくらいにしておいて、本題に戻したいと思います。 デフ・ラグビー界の最大のイベントは世界デフ・ラグビーチャンピオンズです。 これは、3年に1回開催され今年の夏が第2回目にあたり、ラグビーの本場ウェールズで開催する予定でした。しかし、参加国の資金難などの事情で不参加表明が続出したため中止になりました。しかし、日本のデフ・ラグビー・クラブは今年が創立10周年目にあたり、一つの節目として何か大きな行動を起こしたいということで粘り強くウェールズ協会に単独の遠征を持ちかけました。関係者の粘り強い協力もあって紆余曲折の末、ようやく遠征が実現することになりました。遠征では8月の盆休み明けから2週間に渡ってウェールズを中心にイギリスのデフ3か国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)とのテストマッチを行いました。結果はみなさんの手元にある資料に書いてある通り全敗でした。 |
ここで、補足をしておきますが、デフ・ラグビーの出場資格は聴力が両耳合わせて25dB以上なのです。私のように全く耳が聞こえない選手はごく少なく、ほとんど片耳しか聞こえないとか軽度の難聴の選手が多いのが世界のデフ・ラグビーの実情です。日本はそうではありませんがイギリスの3カ国はラグビーの母国らしく、元々、トップリーグで活躍して一線を離れた選手がほとんどでした。 そんな相手との激しいあたりの中でプレー出来たこと、またすごいプレーを自分の肌で感じたことは誇りになりましたし、これからの糧になります。私はいずれも途中出場でしたが、グランドのピッチに立った時、言葉で表現することができない素晴らしい感動を味わいました。それと同時に、これまで迷惑をかけてきた人、この遠征に協力していただいた人に対する感謝の気持ちが込み上げてきました。支えてくれる人がいなかったら、ここまで来ることは出来ませんでした。その感謝の心を忘れずに無我夢中でピッチを縦横無尽に力の続く限り走り回りました。 幸いにも大きな怪我は誰もせず、全員が無事に職場、学校へ戻っています。 |
遠征で得た喜び |
この遠征に向けて私が準備したことを少しお話しします。 みなさんご存じのように、わたしたち日本人と外国人との間にはフィジカル面で大きな差があります。特に激しいコンタクトが要求されるラグビーでは尚のことです。遠征までの生活を普段通りのモードにしていては、怪我はもちろんのこと、その怪我が元で自分のこれからの生活まで奪われる危険があります。 普段の筋力トレーニングや走り込みをいつも以上に強度を上げて行いました。遠征1ヶ月前の7月までは順調だったのですが、7月1日付で私がSKL製図グループへ異動することになり職場が本社から播磨製作所へ変わったことが、大きな変化をもたらしました。 生活の面で大きく変わったのが通勤時間の異常な長さでした。帰宅時間がこれまで以上に遅くなりました。2〜3週間は環境が変わったことによる緊張感と通勤の疲れで、全くトレーニングが出来ない日々が続き、3週間が過ぎたところで、遠征が近づいているのに体力が落ちていることを自覚しました。焦りが出始め、帰宅すれば今日はトレーニングをしろ! いや無理すべきでない! と心の中での葛藤が毎日続きました。あのときは毎日が疲労との戦いでした。走り込み中に嘔吐したことも有りました。そんなときは、こういう苦しい思いをするのは今だけなんだと自分に言い聞かせました。 遠征を一週間後に控えた盆休み中には、過度の走り込みによる過呼吸で肺に違和感を感じました。遠征中に悪化してしまうのではと不安になりましたが、幸い遠征中の練習は意外と伸び伸びとしていたので肺のことは杞憂に終わりました。遠征が終わった今、さすがに無理なトレーニングはしなくなりました。 遠征は思っていたような甘いものではありませんでした。いよいよ待ちに待ったウェールズに飛び立つ日の前夜、選手たちの間に緊張感よりも浮かれ気分が目についた監督は夜10時に全員に緊急集合をかけ「この遠征は旅行ではない! 戦いに行くんだぞ、判ってるのか!」とゲキを飛ばしました。その後、成田空港のホールで練習をさせられました。いくら夜とはいえ、空港には人通りも多く日本人も含め外国人には「アンビリーバボー」な光景だったようです。当の僕たちも「アンビリーバボー」でした。 英国に到着してからも同様でした。折角、歴史と伝統の国、英国に来ているのに観光も一切無く、日中は毎日起床後の散歩から始まって一日中練習だけ、夜は招待パーティ、試合後はアフターファンクション、ミーティングなどで自由時間なんてありませんでした。 唯一「あ〜ここは外国なんだ〜」と発見し感じたことはたのは、ウェールズの文化でした。 それは、買い物するときレジのおばちゃんの動きがスローモーションのように遅く、買い物よりもレジに並ぶ時間の方が長いことでした。「お客様は神様です」として扱う日本では考えられないことでした。 |
そのくせ5時になった途端、慌ただしく仕事を片付け家へと急ぐ光景にはビックリしましたが、仕事より家庭を大切にするというお国柄を強く感じ取れました。 また英国独特の食事も舌に合わず、仕事とは違ったストレスがたまりました。そのせいなのか帰国後、緊張が抜けると体調を崩し1週間ほど苦しみました。僕は見かけによらずデリケートなんです。 でもそんな中、僅かな楽しみもありました。それは宿泊先が大学の寮だったので、ユニットごとに6〜7名に分かれて泊まりましたが、1日の予定が全て終わり、やっと一息ついたときに、ユニットのキッチンに集まってみんなと雑談したことです。その中には聾、軽度の難聴者が混在しあって、雑談と共に手話を教えあって、気が付けばコミュニケーションがスムーズになっていて、以前より親しくなったことが喜びでした。 |
One for All, All for One |
僕自身「ラグビーを通して何か変わったことは」と聞かれると、仕事で嫌な思いをしても辛抱できるようになったことです。今、こうやってユニオンと関わりを持つきっかけとなったのも、ラグビーによって得ることのできた勇気から生まれたと思います。 本当に勇気とは、小さな事でも人生を大きく変えることが出来る不思議な力があるということを改めて強く感じました。障害者の私でさえ、小さな勇気によって環境が良くなってきたのだから、みなさんも悩んだり、つまずいたりしたときは、躊躇せずに行動を起こしてください。私がもし、ラグビーをしていなかったら絶対にこの会社で働き続けることはできなかったと思います。 今僕は、播磨製作所で働いています。ありがたいことに職場環境は随分と良くなっていると感じています。それは「毎日上司からその日の連絡事項を事細かくメールで指示もらえること」「仕事を親切に丁寧に教えてもらえること」そして、「障害者の視点から見た意見・要望を真剣に聞き入れてもらえる。またそんな空気があること」など、コミュニケーションが断然良いことが一番うれしいことです。僕はSKL製図グループでは、プロセス機器事業部の主力製品であるグラスライニング機器の製作図面を手掛けています。 また今回の遠征のようなビッグイベントに参加できるチャンスを得たなら、その都度、自分の体力に合わせてチャレンジしていきたいと思っています。 |
Rugby Magazine 2005年11月号掲載 |
法律規制の緩和を…… |
僕は社会に対して聴覚障害者に対する偏見を止めて欲しいと強く願っています。どうやってコミュニケーションをとれば良いかをもっと真剣に考えてほしい。また、行政へは障害者が法律で規制されていることを少しずつでもいいから緩和してほしい。そうすれば障害者の活躍する場が増え社会進出が進むと思います。僕は、上司から仕事の目的と意義を明確に示されたとき、「よ〜しやるぞ!」となります。誰だって目標がないと力湧いてきませんよね。 僕にとって「働く」ということは、自分のスキルを伸ばしていくために必要な生活の一部であり、また、自分の仕事が社会の役にたっているという実感を通して得られる喜び。 それが「働く」ということだと思います。ですから早くそうなれるようがんばります。 この場を借りて父と母へ、いまの気持ちを伝えたいと思います。「幼い頃から普通の子以上に心配かけてきたと思います。今、僕は頑張っています。だから、もう心配しなくて良いよ。僕が必要なときは、いつでも言ってね。」 |
おわりに |
最後になりましたが、今日は折角の機会ですから、みなさんに手話を3つお教えします。実は職場の昼礼で毎日手話を教えています。これはグループ長の企画で、僕が先生となって手本を見せ、グループ員が後に続いて真似る。というやりかたです。目に見える効果はまだ出てきていませんが、いろいろと趣向を凝らしてやってみたいと思っています。 今からやる手話は、みなさんが覚えてくれたなら私が本当に助かるものです。私に続いてやってみてください。 まず、ひとつめは「ありがとう」です。手話ではこうします。 |
手の甲に他方の手を 直角に乗せた状態から、 その手をあげます。 感謝する気持ちを込めた 表情も加えます。 |
みなさんどうぞ。 《受講者が手話を真似る》 次に、「どうした(何)?」です。手話ではこうします。どうぞ。 《受講者が手話を真似る》 最後に「お疲れ様」です。手話ではこうします。 《受講者が手話を真似る》 覚えて帰ってくださいね、私と同じ障害を持つ人たちも、たったこれだけの手話が判ってもらえることで勇気が出て行動を起こすことができるかも知れません。また、みなさんにも同じことがいえるかも知れません。 ご静聴ありがとうございました。 |
以上 |