琺瑯の歴史について
東罐マテリアル・テクノロジー株式会社
         研究開発部長  
濱 田 利 平


は じ め に

 みなさん、はじめまして。私は、東罐マテリアル・テクノロジー株式会社の濱田と申します。本日のセミナーは、御社の澤田さんから依頼を受けて、お引き受けしました。
 澤田さんとは、1986年(昭和61年)にスペインのバルセロナで開催された国際琺瑯会議で初めてお会いして以来、公私ともに長くお付き合いをさせて頂いています。
 まずはじめに私どもの会社概要ですが、戦後の混乱からようやく立ち上がり始めた1950年(昭和25年)に、東罐マテリアル・テクノロジーは前身である日本フエロー株式会社として誕生しました。
 この日本フエロー社は、米国フエロー社と技術提携を結び、戦後の化学工業界における、我が国最初の外資導入会社として設立されました。
 2003年10月に米国フェロー社と技術提携の契約期間が満了し、独立して東罐マテリアル・テクノロジーとして社名を変更しました。通称TOMATEC(トマテック)と言います。我が社は「フリット」の製造を中心に行っており、私はその「フリット」の開発業務に携わってきました。「フリット」とは、珪砂、長石、石灰等の天然原料や工業原料を配合し、高温で溶解して、急冷したガラスの事を言います。
 本日は、「琺瑯とグラスライニング」、「琺瑯の起源」、「日本の琺瑯工業」という内容でお話をさせて頂きますが、澤田さんからは、特に「琺瑯の歴史について」話して欲しいと依頼されていますので、日本の琺瑯工業の歴史を中心に話をさせて頂きます。よろしくお願い致します。

【会社概要】
社  名: 東罐マテリアル・テクノロジー株式会社
Tokan Material Technology Co.,Ltd.
所 在 地: (本社)大阪市北区大淀北2丁目1番27号
創  立: 1950年(昭和25年)12月19日
資 本 金: 3億1千万円
従業員数: 315名(2003年7月現在)
事業内容: 1.フリット(多成分無機ガラス)系製品
    ほうろう用フリット グレーズ用フリット
    電子材料用フリット 人造大理石用フィラー
    綜合微量要素肥料 製鋼資材用フリット
    その他特殊フリット
2.複合酸化物系製品
    セラミック用顔料 プラスチック用顔料 塗料用顔料
3.不飽和ポリエステル樹脂系製品
    FRP用ゲルコート、トーナー、パテ、人造大理石用BMC      
4.キッチン及び洗面人造大理石天板の成形及び加工
5.中国原料の輸入販売
6.その他、ほうろう工場設備の設計・施工
株  主: 東洋製罐株式会社


琺瑯とグラスライニング

 「琺瑯とグラスライニング」ということですが、先日、御社の播磨製作所の工場見学をさせて頂きました。「グラスライニング」という特殊な製品を造っていることから、私たちが普段扱っている琺瑯とはまったく違う面があると感じましたので、私の分かる範囲で話をし、琺瑯というものを知って頂きたいと思います。
 一般的な琺瑯製品には、なべやヤカン、風呂場の浴槽やマンション等の外壁パネルなどがあります。
 琺瑯とは、「金属の表面に無機ガラス質のうわぐすりを焼き付けたもの」であります。
  金属は強度があり、熱伝導性が良く、加工性に優れていますが、その反面、腐食されやすく、傷つきやすいという欠点があります。
 ガラスは色彩性に優れ、耐食性と耐熱性があり、さらに傷が付きにくいのですが、強度が弱く、壊れやすいという欠点があります。金属とガラス各々の長所を生かし、短所をカバーしたのが琺瑯であります。

〜琺瑯の製造工程〜
 琺瑯の製造工程は、成形加工、前処理、くすり掛け、焼成からなります。
 成形加工工程では、板を切断し、縁切り・縁曲げを行い、溶接、検査となります。次にくすり掛けを行う前の処理工程では、ガラスが密着しやすいように金属表面から油と錆を除去します。脱脂→酸洗い→ニッケル処理→中和→乾燥という工程を組みます。次にくすり掛けの工程に入ります。釉薬を溶着させるために下ぐすりを掛け、乾燥・焼成を行った後、上ぐすりを掛け、乾燥・焼成となります。最後に仕上がりの絵付けを行い、乾燥・焼成し、検査、出荷となります。上ぐすりは、フリットに粘土や水を混合させてボールミルで粉砕させて造られます。

〜琺瑯の分類〜
 琺瑯にはいろいろな分類の仕方があり、下地金属別では、鋼板琺瑯、鋳物琺瑯、アルミニウム琺瑯、銅琺瑯、ステンレス琺瑯、金琺瑯、銀琺瑯とあります。その中でも金と銀は酸化され難い材質であることからガラスの密着は難しいと言われています。
 造り方別では、湿式琺瑯、乾式琺瑯、下ぐすり一回掛け琺瑯、二回掛け琺瑯、直接一回掛け琺瑯(下グラスがなく、上ぐすりを直接掛けるもの)があります。
 その他の分類では、グラスライニング、セラミックコーティング、セルフクリーニング琺瑯、七宝とあります。
 ここで、みなさんが扱っている「グラスライニング」という言葉がでてきました。
 「グラスライニング」は、酸やアルカリなどの薬品に対して強い抵抗力を持っています。高温、高圧下などで広範囲にわたって優れた耐食性と耐熱性が得られます。内容物への汚染や缶壁への付着が少なく、洗浄が容易であることも大きな特徴であります。
 「グラスライニング」の素地は熱延鋼板で、板厚は厚く、小さなものから大きなものまで扱っています。施釉前の表面処理はショットブラストが大半であり、素地設計に際して注意すべき点が多々あります。スプレーを用いての施釉が中心で、「グラスライニング」は「一般琺瑯」よりガラスの厚みが厚いことから、上ぐすり掛けが二回から数回行い、焼成を繰り返します。「一般琺瑯」は冷延鋼板を使用し小物が多く、二回掛け一度焼きなど焼成回数は少ないです。



(A) 成形加工工程(品物の形にする)

(B) 前処理工程(油や錆を除去)


琺瑯製造工程


(C) くすり掛け加工工程(釉薬を溶着)

(D) うわぐすり製造工程


琺 瑯 の 起 源

 続いて、琺瑯とはどこから来たのか。またどのような由来があるのかなど「琺瑯の起源」の話をします。
 『琺瑯』の字源をたどってみると、サンスクリット語(古代インド語)で七宝質のことを言う“フーリンカン”にさかのぼるという説があります。「琺瑯」という言葉は七宝質という意味であり、七宝とは、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)といった7種類の宝物のことです。もともとは装飾品、美術品として製作されてきたものであるといえます。最も古い琺瑯製品らしきものが見つかったのは、エーゲ海に浮かぶミコノス島で、紀元前1425年頃に製作されたと思われるものです。その後、この技術がヨーロッパ方面とアジア方面に伝播し、16世紀頃に朝鮮半島に流れ、その後日本へと渡ってきたと言われています。


琺瑯の伝来

 「琺瑯」と「七宝」の意味を改めて辞書で調べてみました。琺瑯は、不透明ガラス質の物質であり、石灰、長石、粘土・珪石・硼砂・蛍石などを混合してこれを溶融して作り、金属器物の表面に焼き付けて装飾として、腐食を防ぐものです。瀬戸引、エナメル引などとも呼ばれ、装飾品では七宝焼きがあります。
 七宝は、七つの宝、七宝ながしという意味があります。七というのは西方を表す数字であり、「西方の宝物」という意味も含まれており、私自身も初めて知ることができました。また七つの宝を集めたような美しい宝物とも辞書に書かれています。
 また、「琺瑯の漢字は『王』偏でありますが、実はこの『王』」は『玉』(ギョク)であると言われており、宝石という意味も含まれています。みなさんが製作を行っている「グラスライニング」も宝であると言えますね。

※琺瑯の語源は、
 「琺瑯」という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。
 「払菻嵌(フーリンカン)→払菻(フーリン)→発藍(ハツラン)→仏郎嵌(フーロウカン)→法郎(ホーロー)→琺瑯(ホーロー)」という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説もあります。




日本の琺瑯工業

 続いて、本日のテーマでもあります「琺瑯の歴史について」ですが、明治時代からさかのぼり今に至るまでの「日本の琺瑯工業」について話をしたいと思っております。

〜琺瑯の歴史は鋳物琺瑯から〜
 1866年(慶応2年)に徳川慶喜が第15代将軍となる頃、伊勢桑名の広瀬与左衛門という方が鋳物の琺瑯を始めたと言われています。
  万古焼の不透明釉薬を銑鉄鍋の内面に塗布し錆止めとして使用したのが鋳物琺瑯の始まりとなりました。この広瀬与左衛門が始めた鋳物琺瑯が後に日本の琺瑯業界の中で旋風を巻き起こすことになります。
 1868年(明治元年)には、琺瑯業界の中でも有名なワグネル博士が来日しました。
 ワグネル博士は、ドイツのハノーバー生まれで、ゲッチンゲン大学の著名な数学者ガウス教授の下で21歳の若さでPhysical(物理学)ドクターを取得後、パリで化学や多くの外国語を学んだ後、スイスで数学教師を勤めた後、来日してきました。
 ワグネル博士は、日本で、先端技術の導入や人材育成を行い、1872年(明治5年)に「七宝」の講義を行った後、東京の銀座にアーレス商会を設立し、「七宝」の普及に尽力されました。
 1872年(明治5年)から1881年(明治14年)にかけて、鋳物琺瑯鍋の製造・販売が始まりました。
 その後、琺瑯釉薬も製造・販売され、1881年(明治14年)には東京上野公園を会場とした勧業博覧会に鋳物琺瑯を出展しました。
 勧業博覧会とは、国内の技術を紹介する有名な博覧会であり、その場所に鋳物の琺瑯製品を出展することで、多くの方々の注目を集めました。
 このように日本における「琺瑯の歴史」は、鋳物琺瑯から始まったのです。



〜鋳物琺瑯から銅琺瑯へ そして琺瑯鉄器へ〜
 1884年(明治17年)には、石川栄吉という方が大阪の北区に会社を創業し、銅の琺瑯鍋の製作を始めました。銅板を鍋の形にプレスで加工し琺瑯加工を行い販売することとなったのです。この石川栄吉の始めた銅琺瑯の後身は、現在の石川琺瑯亜鉛鉄器工場となり100数年が経過した今でもプレス成型を中心に活躍しています。
 1885年(明治18年)には琺瑯鉄器が始まりました。小田新助という方が大阪の福島に小田工場を設立し、鉄板を成形したものに琺瑯釉を焼き付けた鉄板琺瑯鍋が開発されました。当時の材料は輸入鉄板で、材質が堅く、板厚も厚く、人力での成形は困難であることから、鉄板を加熱して成形を行っていました。10年後の1895年(明治28年)には、外国製のドラム缶を潰して琺瑯鉄器の材料として利用していました。生地の切り抜きを行った後の成形、酸洗いの工程スピードが速くなり生産能力が上がりました。
 生産量は一日150個程度と増加し、焼成炉はコークスの直火の上に鉄板を乗せ、その上に瓦を組み合わせて乗せた一種のマッフル炉でした。

〜「琺瑯」の言葉が全国区に〜
 1899年(明治32年)頃には、焼成炉の生産性向上を図るために改良化が進みました。土で造っていた窯を煉瓦積みの炉に改良し、コークス炉からマッフル炉への開発を行い、小田工場で内部角型のマッフル炉(和窯)が完成しました。炉材は外側は赤煉瓦で内側は白煉瓦を使用し、燃料は石炭を使用するようになりました。
 このように、様々な手段を用いて生産性の向上を図りましたが、1900年(明治33年)に「有鉛琺瑯」の製造が中止となりました。この当時の琺瑯には鉛が入っており、釉薬として使用していた白玉(フリット)に鉛分が70%も含有されていました。琺瑯業界に多大のショックを与えたことは言うまでもありません。
 しかしながら、その後に兵庫県住吉村の寺島さんという釉薬の研究者が「無鉛琺瑯釉薬」を開発しました。
 それまでは、一般向けの琺瑯製品は「瀬戸引き」という名称で販売していましたが、有鉛報道により、「瀬戸引き」と名が付く製品は全く売れなくなりました。そこで、1902年(明治35年)に「瀬戸引き」の名称をやめ、「琺瑯」の名称を採用して販売することとなりました。「琺瑯」という言葉は学術用語でありましたが、これを機に「琺瑯」という名が広まっていきました。


〜酒造向けグラスライニングの研究は大正時代から〜
 明治末期(明治40年頃)に近づき、東京瓦斯電気工業が設立され、当時の開発担当の方がドイツの技士と耐酸琺瑯の研究を始めました。その後1911年(明治44年)に琺瑯部を設け本格的な耐酸琺瑯の研究が始まりました。これが「グラスライニング」の端緒となったのです。
 明治時代も終わり大正から昭和へと時代が流れていきますが、1884年(明治17年)、1885年(明治18年)は琺瑯鉄器工業の創業時代であり、大正初年までは新業の基礎を造る過渡期、試練時代。そして1909年(大正2年)から9年間の間は琺瑯工業界が盛況となりました。
 1913年(大正6年)には琺瑯工業界における輸出が画期的に伸長し、さらには東京瓦斯電気工業が琺瑯工場を設立しました。琺瑯鉄器、耐酸琺瑯の研究・試作を行い、人材育成が図られ、琺瑯業界を発展していくこととなりました。そして、1914年(大正7年)〜1916年(大正9年)には、琺瑯工業界が大盛況となったのです。
 1917年(大正10年)〜1919年(大正12年)は、耐酸琺瑯の研究・開発がさらに深まり、1921年(大正14年)〜1922年(大正15年)に掛けて酒樽向けの琺瑯研究が始まりました。
 ここにおられるみなさん方は、グラスライニング製の酒タンクを数多く製作されたと思いますが、酒樽向けの琺瑯研究は大正時代から始まっていたのです。
 後ほど説明しますが、昭和以降にグラスライニング製酒造タンクの製作がはじまり、酒造会社各社ともにグラスライニングに注目を集めました。

※東京瓦斯電気工業:
 東京瓦斯電気工業は日本のエンジンメーカーで、航研機を組み立てた航空機メーカーでもある。日野自動車及び小松ゼノアの前身の会社。略称瓦斯電(ガスデン)。



琺瑯鉄器生産額


琺瑯製品の輸出金額の推移

〜日本初 琺瑯建築物!! 神戸製鋼所琺瑯部〜
 戦前である1941年(昭和16年)〜1942年(昭和17年)は軍需産業として生産統制が始まり、鉄製品はことごとく軍隊に資材として差し出していたことから、家庭用の洗面器やなべなど、あらゆるものが不足していました。
  戦後の1945年(昭和20年)以降は、戦後の復興への道を歩み始め、家庭用品の洗面器、なべ、かまなどが琺瑯業界に発注されるようになりました。
 御社の前身である神戸製鋼所も家庭用品を生産する計画を立て、琺瑯鉄器の製造を始めることになりました。その後、1947年(昭和22年)に神戸製鋼所が琺瑯工場を設立しました。
 琺瑯業界における技術の向上を図るため、日本琺瑯技術委員会が設立され、その後、琺瑯鉄器の需要が進み、釉薬のみを製造する会社が設立。チタンフリットの研究が各方面で行われ、また、焼成設備の回転式自動焼成炉への研究も行われました。
 さらには1948年(昭和23年)に「琺瑯工業」が創刊されるなど、琺瑯業界が全国に知れ渡りました。
 神戸製鋼所琺瑯部は、家庭用品向けの琺瑯鉄器に併せ、1949年(昭和24年)に建築用パネルの製作に進出しました。翌年には桃色の琺瑯パネルを使用したビルを神戸に建設し、このビルは日本で初めて琺瑯を使用した建築物となり有名となりました。
 その後、1954年(昭和29年)には、神戸製鋼所琺瑯部と米国フアウドラー社との共同出資により神鋼フアウドラー社が設立され、今の神鋼環境ソリューションとして成り立っているのですね。弊社の概要も先ほど説明しましたが、1950年(昭和25年)に米国フエロー社と技術提携を結び、今に至るなど、同じような歴史であるとも言えますね。

〜琺瑯工業界躍進〜
 次に1956年(昭和31年)〜1965年(昭和40年)に掛けて技術が進捗していき、1961年(昭和36年)には琺瑯業界で琺瑯設備の改善を図り自動化が進むにつれ、1962年(昭和37年)には釉薬の新技術が紹介されました。弊社は下引きが不要な直接一回掛けの紹介を行い、御社は結晶化グラスライニング「ヌーセライト」の紹介を行いました。
 琺瑯技術は戦後の復興期を経て1955年(昭和30年)代に生産技術および設備近代化が始まり、特に30年代後半からの進捗は急速でありました。1965年(昭和40年)〜1966年(昭和41年)を境に生産は急速に伸び、各琺瑯業界ともに生産増に追われましたが、下地金属、前処理、釉薬、焼成など、素材から完成品に至るまでの研究・開発を行い、生産性を上げることができました。
 下地金属(素材)については、1959年(昭和34年)頃に脱炭鋼板の開発、爪飛びが抑制され、ガラスの密着向上に伴い、上ぐすりのみの直接一回掛けが可能になったことで大幅なコストダウンが図られたこと。前処理については、下地表面の清浄化、腐食による粗面化など直接一回掛けの普及により、前処理の改良が進みました。また、第一次石油ショック後の環境問題への観点から、低温脱脂、無酸洗前処理が実施され、公害対策ともなりました。
 釉薬については、チタン乳白上ぐすりが開発されました。このチタン乳白ぐすりは乳白力が強いため、どのくすりと比較しても密着効果に優れていました。日本が海外の輸出に貢献できたのも、この乳白上ぐすりが日本で開発されたことが一番の理由と言われています。1960年(昭和35年)には、アルミニウム琺瑯用フリットと740℃の低温での焼成が可能なぐすりができ、1974年(昭和49)年には無酸洗下ぐすり、1976年(昭和51年)にはグラスセラミックコーティング、1983年(昭和58年)には、二回掛け一度焼き下ぐすりができ、釉薬が年々進歩していきました。
 施釉技術については、連続自動ディップ機と湿式静電スプレーがありました。連続ディップ機は業界全体への普及へは至りませんでしたが、湿式静電スプレーは、釉薬層の均一化など好評でありました。さらに1977年(昭和52年)には、電着施釉法、乾式静電スプレーが開発され施釉技術が上がりました。

〜出荷推移〜
 昭和初期から末期までの各々の出荷の推移についてご説明します。
 琺瑯鉄器の出荷推移は、海外向けの出荷が大半でありましたが、1953年(昭和28年)頃から国内の需要が伸び出荷数が上昇しました。1974年(昭和49年)の石油ショックの影響で1985年(昭和60年)まで出荷量は減少傾向となりましたが、高度成長期の中、販売価格はさほど変化はないと言えます。
 化学向けのグラスライニングの出荷推移は、1951年(昭和26年)頃から1974年(昭和49年)のオイルショックまで化学業界の設備投資がピークとなり出荷推移が上昇します。設備導入が一巡すると新規需要が起こりにくいと言えることから、設備投資の減少により、出荷数も減少します。しかし、グラスライニングの販売価格は、出荷減に反し上昇していると言えます。
 酒タンクの出荷推移は戦後の昭和20年代に酒造メーカーの琺瑯タンクがグラスライニングに注目し、1963年(昭和38年)頃にピークを迎え、ビールタンクにおいても1969年(昭和44年)前後に設備投資がピークとなりました。しかし、近年では、一般消費者の変化、いわゆる清酒を飲まない方々も増えたことや一度納めた酒タンクは何十年と使用するので、今では酒タンクの出荷はピーク時に比べると非常に少なくなったと言えます。


琺瑯鉄器出荷推移


化学用品出荷推移


醸造用タンク出荷推移


ま  と  め

 最後に本日の内容をまとめとして報告します。
 繰り返しになりますが、琺瑯というのは、金属の表面に無機ガラス質の釉薬を焼き付けたもので、金属とガラスの長所を併せ持つことから、家庭用の器物から化学工業のグラスライニングまで、私たちの生活環境の中でいろいろなものに使用されています。
 琺瑯という言葉は、元々、装飾品である七宝のことを表していましたが、その技術が日用品や工業用品に応用され、琺瑯という名称が一般に浸透したことによって、琺瑯という概念の中に七宝が含まれるようになりました。
 琺瑯(七宝)の起源は古く、紀元前1425年頃の作品がエーゲ海のミコノス島で発見されています。その技術は紀元前7〜8世紀頃イスタンブールで発展し、その後中国、韓国を経て日本には16世紀頃に伝わりました。
 日本における琺瑯工業の歴史は、1866年(慶応2年)に鋳物鍋に陶磁器用の釉薬を掛けたのが始まりでした。琺瑯鉄器の始まりは1885年(明治18年)です。いろいろな創意工夫を重ねながら、大正時代に琺瑯鉄器工業は黄金期を迎え、耐酸琺瑯、いわゆるグラスライニングが研究され、昭和初期には酒樽に応用されるようになりました。
 戦争による中断はありましたが、戦後も琺瑯工業は順調に成長し、経済成長の波に乗り、合理化や技術の進歩を重ねてきました。
  私の話は1985年(昭和60年)までの琺瑯工業で終わっていますが、その後現在まで約20年が経過し、琺瑯工業は大きく様変わりしています。平成の大不況の影響を受けて、多くの琺瑯メーカーが廃業に追い込まれ、弊社の琺瑯フリットビジネスも、この10年間で約50%減少しました。多くの琺瑯メーカーが廃業に追い込まれたのは、琺瑯製品が市場のニーズに適応できなくなっていたことが最も大きな原因であると考えられます。
 これからも、そして永遠に企業を存続させていくためには、市場に受け入れられる製品を常に研究開発し続けていくことが必要であると思います。
 弊社は「always for you and with you」を合い言葉に、皆様と一緒になって新技術、新製品を生み出していく所存でございますので、これからもよろしくお願いいたします。
 本日はご清聴ありがとうございました。

参考文献
・日本琺瑯工業史(日本琺瑯工業連合会:昭和40年12月25日発行)
・琺瑯工業史最近の20年(日本琺瑯工業会:昭和60年12月2日発行)


● 濱田 利平氏 プロフィール ●
 昭和50年(1975年)3月東京工業大学無機材料工学科卒業。         
 同年4月日本フエロー株式会社に入社、琺瑯技術および各種フリットの開発に携わる。
 平成14年10月同社研究開発部長に就任、現在に至る。
◇講演
日本琺瑯工業会技術講習会・窯業協会琺瑯部会講演会
    昭和51年11月19日
昭和56年11月27日
昭和58年9月2日
昭和59年12月6日
「密着と酸洗に関する実験報告」
「琺瑯の色測定におけるマイコンの利用」
「耐熱水性試験について」
「二度掛け一度焼成ほうろうについて」
  窯業協会琺瑯部会
    昭和63年5月25日 「ほうろうスリップの流動特性」
◇平成2年度中小企業委託事業「ほうろう焼成炉」に参画
◇論文
セラミックス第33巻6月号(1998)「抗菌琺瑯」