私にとっての「働く」とは [1]
「家族」との関わりと「働く」ということ
研究所ブロック   
小 林 宏 子


水素エネルギー社会と水素発生装置HHOG


 まず、私が10数年取り組んでいる水素発生装置HHOGについて、簡単にご紹介します。
 水素発生装置、商品名をHHOGといいますが、皆さんご存知でしょうか?
 最近、「水素」「燃料電池」などの言葉を、テレビや新聞などで耳にすることがあると思います。石油や石炭など有限な資源の代替として、将来のエネルギー「水素」が注目されています。水素は燃やしても水になるだけで、二酸化炭素や有害物質が発生しないということで、クリーンエネルギーとして期待されています。
 このような水素エネルギー関連用途での納入は、大変、夢が広がる仕事ではありますが、現時点では、まだビジネスとして成り立つ市場ではありません。そこで、現在、UC事業室では将来の水素エネルギー社会を目指しつつ工業用途の水素発生装置の実績を伸ばし、足元のビジネス基盤を固めています。



これまで業務を通して取り組んできたこと


 次に、これまで私自身がどのような想いで業務に取り組んできたかをご紹介します。

1)入社当初
 私が当社に入社した動機は、「環境関連の会社だから」という程度で、特に明確な動機があったわけではありません。90年に入社し、技術開発本部に配属されました。入社後、いくつかの開発テーマを担当しました。当時、若手を国内留学させる試みがあり、入社3年目の時につくばの旧無機材質研究所で1年弱、勉強させてもらいました。入社して3〜4年間、いろいろな分野の開発テーマに取り組み、広く勉強することができましたが、入社4年目頃には、自分のテーマ(専門分野)が定まらない状況に若干あせりを感じることもありました。ちょうど、その頃に、HHOGの開発テーマを担当することになり、今度こそ、このテーマに腰を据えて取り組みたいと思いました。

2)一貫して持ち続けている願い
 93年から一貫してこの水素発生装置の業務に携わってきました。一貫して持ち続けている願いは、「HHOGが世間で日の目をみること」です。難しく言うと「水素発生装置の事業拡大」ということでしょうが、自分の言葉で言うと少しイメージが違っていて、「HHOGが世間で日の目をみること」「HHOGを大きく育てたい」ということです。ただ、「日の目をみる」「大きく育つ」といっても、職種や時期により自分が目指したものは、変化してきました。93年から「開発」「技術」「営業」という立場でこの業務に携わってきましたので、それぞれの立場で取り組んできた内容をご紹介します。

3)開発の立場での取り組み
 最初は開発でした。当時は、とにかくHHOGを市場に出すことが目標で、ユーザーにHHOGを使ってもらいたいという気持ちでした。HHOGは当社では「ガス」という新分野の製品でしたので、開発当初から「売る」ことに執着し、開発と並行して新規開拓の売り込みも積極的に進められました。常に社外の評価や反応を耳にしながら、売ることを目標に、チームで開発を進めていました。夢があって、目指すゴールがあって、チームに勢いがあって、いつの間にかHHOGに引き込まれていったという感じです。事業部門の協力のおかげで、96年に正式な受注として第1号機が出荷されました。1号機が出荷されたときには、本当に嬉しかった事を覚えています。その時、開発品をユーザーに使ってもらえる商品として仕上げるために、多くの人が苦労している姿をみて、自分も商品を仕上げ、ユーザーの顔が見える業務をしたいと思いました。


自然エネルギーを利用した発電システム模型。
当社製水電解式水素発生装置『HHOG』が組み込まれている

4)技術の立場での取り組み
 99年に技術開発本部からUC事業室に異動し、技術の仕事を担当しました。受注した案件を担当し、計画から試運転、ユーザーへの引渡しまでする仕事です。希望した通りにユーザーの顔が見える仕事ができるようになったのですが、このときは、ユーザーにHHOGの良さ・価値を認めてもらうこと、満足してもらうことが目標でした。実際には、慣れない事が多く、同僚にかなり手助けしてもらいましたし、不具合やクレーム対応に四苦八苦という状況で、大変でした。自分が納入した装置は、設計や製作などたくさんの人の手で仕上がった装置ですが、本当にかわいく、不具合なく客に気に入られて順調に稼動してほしいと願いました。
 ユーザーに、HHOGの良さを認めてもらいたいという気持ちがあったから、大変なクレームにも対応できたし、ユーザーへの引渡しも丁寧にできたと思います。

5)営業の立場での取り組み
 現在、HHOGの営業を担当しています。営業担当になった当初は、もっと多くの人にHHOGの良さを分かってもらいたい、顧客の数を増やしたいという気持ちでしたが、今は、HHOGの事業で利益を稼ぐことが目標です。営業担当になって3年になりますが、営業全般について、ずっと試行錯誤の状態です。装置を使用する立場の人だけでなく、買う立場の人が相手で、うまくいかないことが多く、厳しさを痛感しています。また、水素エネルギー関連で、今はビジネスに結びつかない問い合わせが多くありますが、将来に向けてどのように繋げていけばよいのか、手探りの状況です。

6)まとめ
 今回のお話をいただいて、自分なりに振り返ってみると、その時々で目指していた内容が変化してきたことに気づきました。大きな目標は、UC事業室が目指している「水素エネルギー社会を目指して、今、工業向けにビジネス基盤を固める」という方向と同じです。正直、開発当初は雲の上でぼんやりとしていたものが、年を経て、世間や周囲の状況が変わってきたこともあり、少しづつ近くなってきたように思います。また、自分の言葉での目標は「HHOGに日の目をみせてやりたい」であり、その目標に向かうために、自然に、自分の中に業務に直結した小さな目標、願いを持ちながら、日々の業務に携わってきたという感じです。


家族との関わりの中で考えたこと


 これまで、私の業務であるHHOGの話が中心でしたが、視点を変え、家族との関わりについてお話したいと思います。93年からHHOGの仕事をしてきましたが、開発の時に、結婚し、出産し、育児休暇を2回、とらせていただいています。やはり、家族との関わりの中で、私の「働く」ということについても、少しずつ変化してきたように思います。


1)育児休暇中に考えたこと
 まず、結婚して、長女がおなかにできたとき。当時は漠然と仕事を続けたいと思っていました。HHOGの開発当初でしたので、今度こそ1つのテーマに取り組もうと思っていた時期ですし、「売る」ことを目標に開発を進め、どんどんHHOGに引き込まれていた時期なので、まだ仕事は続けようと思って、1回目の育児休暇をとりました。
 私にとって印象的だったのは、1回目の育児休暇のとき。生まれた赤ん坊を育てるために育児休暇をとっているのですが、ずっと家にいて子どもの世話をする毎日を過ごしていると、社会との関わりがなく、すごくむなしくなったことを覚えています。「社会で自分が必要とされていない」「社会で誰の役にも立っていない」と強く思いました。実際には、目の前の赤ちゃんは自分を必要としているはずなのに、社会と断絶されていて、孤独でむなしい気持ちでした。また、どちらかというと金銭に無頓着な性質ですが、自分に収入がないことがすごく不安でした。このときに、会社で働くことの意味を初めて実感したと思います。自分にとって、このときの気持ちは忘れられず、今も仕事を続けている原動力の一つだと思います。
 その後、2回目の育児休暇の時は、日頃、子どもと接する機会がないので、この機会にまじめに子育てをしよう、子どもの長い人生で休みを取れるのはこの機会しかないからと、ゆっくり育児休暇をとりました。

2)子どもとの関わり
 育児と仕事の両立という言葉がありますが、私の場合は、日々の子どもの世話はほとんど同居している母に頼って、私は仕事に重心をおいてきましたので、両立とはほど遠い状態です。ただ、子供は子供、自分は自分という考えがあって、自分が生き生きしていたいために働いているという感じです。子ども達にも、生き生きしていたいために働いているということをいつか分かって欲しいと思います。他のお母さんよりも子どもと一緒にいる時間が少なくて、子どもに対して、罪悪感を感じます。自分でルールを作って、保育所の行事には何があっても会社を休んで参加するなど、必ず厳守して、自分を納得させてきました。実際には、仕事に重心をおくとはいえ、急な病気や諸々の事情で会社を休むこともあり、上司や同僚には迷惑をかけたことも多々ありました。あちらをたてればこちらがたたずの状態で、最初からどんなに頑張っても両方完璧にできるものではないので、どちらかを優先するときには割り切って考えるようにしました。手薄になった分は、後で挽回やフォローし、自分なりに全体で収支があうようにし、自分を納得させてきたという感じです。
 実は、子どもたちには、反対に私の方が精神的にずいぶんと助けてもらったと思います。最近は、子どもたちが大きくなり少し余裕ができたこともあり、今は子どもたちと一緒にいろいろなことに目を向けたいと思っています。


最後に


 今回のお話で、自分を振り返ってみて、初めて気付いたことが多く、大変よい機会になりました。
  私にとっての働くことの3つの原動力、それは1つめにHHOGが大好きであること、2つめに働くことによって自分の存在価値を実感できること、3つめには子供たちに自分の生き生きとした姿を見せてあげたいことです。
  このように、私が生き生きと仕事ができたのは、周りのいろんな人に恵まれたおかげだと思います。まず、ここまで様々な仕事に取り組むチャンスを躊躇なく与えていただいた上司やその周りの人たちに、大変感謝しています。多分、多方面でご心配をかけた(ている)のではないかと思います。また、長い付き合いの同僚たちには、現場で教えてもらったり、手伝ってもらったり、いろんな面でフォローしてもらい、よく付き合ってもらったなと思います。それから、家族には、母なくして仕事は続けられませんでしたし、夫と子どもたちにもわたしのわがままを理解してもらい感謝しています。


プロフィール
1990年  姫路工業大学(現兵庫県立大学)応用化学科 卒業
当社入社、技術開発本部に配属
1992年 無機材質研究所(現物質・材料研究機構)留学
1993年 HHOGの開発担当(94年と98年に育児休暇)
1999年 UC事業室へ異動