新時代の企業責任とワークスタイル
兵庫県理事     
 清 原 桂 子


 ただいまご紹介いただきました、兵庫県の理事をしております清原でございます。先ほど皆さんの先輩お二人のお話を私も聞かせていただきました。そしていま、「今日この場に来させていただいて本当によかったな」と思っています。お招きいただき、ありがとうございます。私には、28才の社会人と23才の大学院生の二人の息子がおります。ちょうど皆さんと同じ年格好ですね。今日はそんな若い、これからの人たちに、母親・女性・学者または行政など様々な視点から視た「新時代の企業責任とワークスタイル」についてお話しさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いします。


清原桂子のお弁当大作戦!?

 その前に少しだけ自己紹介を兼ねて、私が行政に携わるまでをお話させていただきます。いま思えば、私は結構行き当たりばったりな生き方をしてきたように思います。大学院に進学を決めたときは、「しばらく勉強に身を入れるぞ!結婚なんて当分しない!」と意気込んでいました。がっ!入学したその日に、大学院の先輩だった今の夫に一目惚れ。それからは、彼からプロポーズしてもらうためにどうするか、と思案。彼が一人暮らしをしているという情報を手に入れましたので、「まずは食べ物から!?」と、母に頼み込んで毎日お弁当を二つ作ってもらい、さりげなく、「二人分お弁当持ってきたけど食べる?」。ワンパターンな外食をしていた彼は、とっても喜んで、作戦は大成功!
 当然ですが、結婚してから「えっ!あのお弁当は君が作ってくれたんじゃなかったの!」と言われましたが、その質問は想定範囲内ですから「当たり前じゃないの。私は『二人分持ってきたけど食べる?』とは言ったけど『作ってきたから食べる?』なんて言ってない。運んで持ってきたのは、私だから、ウソではな〜い。」なんて涼しい顔で切り返して、それから2人で一緒にてんやわんやしながら料理を学んでいくことになりました。
 もっと勉強をしたかったものですから、「結婚はするけれども子どもはまだまだ先でいい」と考えていました。でも、ただちに妊娠。なんの心の準備もなく、子育てに突入することになりました。


子育て奮闘記

 出産後、子どもを保育所に入れることを考えて、福祉事務所へ手続きに出向きましたが、窓口のおじさんに「学生の分際で子供は産むは、しかもその子を保育所にあずけて大学を続けようなんて、何を考えてんだ。」と頭ごなしに言われて、「えーっ!! 何でそんな言われ方をせにゃならんのだ!」。当時の保育所には雇用証明書がないと入所できませんでした。でも、それはおかしい!同じように保育所に入れず困っていた大学院生仲間と陳情書を作り、当時の厚生省に要望に行きました。しかし結果は変わらず、やむをえず2年間休学。子供が一歳を過ぎて、「やっと楽になってきた」と思った矢先、夫の就職が姫路に決まったのです。私はてっきり東京で就職してくれるものと思い込んでいましたので、昼間は子どもを実家に預け、大学に戻るつもりでした。私の両親は、娘(私)も孫もかわいいので、夫に単身赴任をさせ、私と子どもが実家で暮らすことをすすめました。私も迷いましたが、最終的に、夫とともに姫路に行くことを決心しました。
 この中で子育てを経験された方はまだ少ないと思いますが、子育てって本当に大変です。うちの息子たちは、特に2人とも夜泣きして、大変でした。寝不足続きでイライラしているときも、体調がすぐれないときも、遠慮はしてくれません。でも、大変なことの何倍もの喜びも与えてくれます。例えば「歯が生えた」「ハイハイした」「立った」「歩いた」「ママと呼んでくれた」など、数えあげればきりがありません。
 夫が単身赴任すれば、ときどき東京に戻って子どもに会って、子育ての美味しいところだけ味わってその大変さがわからないんじゃないか!ということもありますが、何より夫が子育ての喜びの場面、感動の場面に立ち会うことができないんじゃないか、と思いました。子育ての大変さも大きな喜びも、その両方を味わうことが親として最も自然な形だと思ったのです。
 ということで姫路に来たのですが、残る在学期間を、夫の給料を交通費に使いはたしつつ、子どもを抱えて東京まで通うという生活になりました。そんな状態の中で二人目を授かりましたが、切迫早産になって2ヶ月入院、その年の試験を受けられず。「来年こそは!」と思いましたが、翌年は下の子が百日咳にかかり、結局その年も試験を受けることが出来ませんでした。そんなこんなで、2人の子を連れて東京まで通って、結局、10年かけて32才のときに大学院を修了しました。



いざ行政の場へ

 その後大阪の大学で講師をしながら、兵庫県の様々な審議会の委員などもさせていただきました。1992年、県立女性センターの設立にあたり、民間から比較的若手の所長をいれたいという県の意向を受けて、大学から行政にトラバーユ。子育て期の真っ最中でもあり、大学のほうが時間的に自由になりますので、お話を受けたときは悩みましたが、それまで審議会などで、もっとこうすべきだといろいろ発言していながら、じゃ自分でやってください、といわれて引き受けない、というのでは女がすたるかな、ということで決断しました。
 学会では、「最もお役所仕事のやりかたから遠い存在」と認知されていましたので、同僚・恩師たちがビックリして、がちがちの行政のなかで、すぐイヤになってやめるんじゃないか、半年もつか、1年もつかと、「清原桂子 ふ・あ・ん(ファンではなく、不安)クラブ」が結成されたくらいです。
 初代女性センター所長として、いちから予算を組んでやっとの思いで事業を立ち上げ、「さあこれから」というときに阪神・淡路大震災に直面しました。その後、生活復興局長、労働部長、復興総括部長、県民生活部長などをさせていただき、いま理事という仕事をしています。
 皆さんの会社の前身である神鋼パンテツクさんとは、労働部長時代や環境を所管する県民生活部長時代に関わりをもたせてもらっています。簡単に理事の仕事を説明しますと、知事の下には二人の副知事がいて庁内の6つの部をタテで割って3つずつ担当します。その下に2人の理事がいて、「技術」担当理事はハード面を、「参画と協働」担当理事はソフト面をというそれぞれの切り口で、6つの部をヨコで割って仕事をします。私は「参画と協働」担当の理事です。


民間企業と県庁との交流

 今年の県職員採用は162名でした。この内128名が新規採用、残り34名が経験者採用です。近年は経験者採用の枠を広げています。かつては500人からの新規採用をしていました。
 この128名の新規採用者を県内の企業、例えば神戸製鋼所さん、川崎重工さん、ホテルオークラさん、風月堂さん、オリバーソースさんといった兵庫県を代表する21社に一週間預かっていただき、体験研修をお願いするという事業を今年から開始しました。つい先日、各社の代表者と知事との間で、次世代の人材育成についての協定書を取り交わしたところです。次世代へ向けて、企業と行政とが一緒に人材育成を行うという趣旨で、その第一ステップとしてまずは行政から民間企業へ人を送り、民間企業を体験してもらうという試みです。
 様々な人と人との関係を、セクターの壁を超えて結んでいかないと今の時代を切り拓いていくことは、もはやできなくなっています。その視点から、県は企業とのコラボレーション(協働)をあらゆる場面において模索し創造してゆくつもりです。
 「働く」ということについて考えたとき、これは企業も行政も地域社会も全て同じですが、今怒涛のように音をたてて社会のパラダイムが動こうとしています。その中で「広い目で見たときのこれからの働き方、そして私たち一人ひとりはどうすればいいのか」についてお話したいと思います。


新たな試みとして始まった県職員のNPOでの体験学習『ボラターン研修』(2005年8月11日神戸新聞より)


「働く」ことの中身の転換
−農業社会からサラリーマン社会へ

 まず「働く」ということですが、いつの間にかこの「働く」ということが、会社、役所などに雇われて給料をもらって生計を立てる、統計用語でいう「雇用者」ですが、「働く」=「雇用者」と頭の中でピッと思い浮かべてしまうようになりました。しかし、このような働き方が多数派になった時代というのは、ごくごく最近なのです。つい百数十年前まで、だいたい明治時代の始めにはわが国の総人口3,300万人の内3,000万人以上は第一次産業、つまり農林漁業で生計を立てていました。残り300万人の過半数は家族で商売を営む自営業でした。
 そう考えると、全人口の約95%は、家族中の老いも若きも男も女もみんな家業で働いていました。もちろん定年などはなく、死ぬまでみんなが働くことがあたり前の働き方であり、あたり前の社会でした。

 特に女性の働き方は、「ずうっと昔から専業主婦が一般的な存在で、最近になって働き始めた」といったイメージをお持ちかもしれませんが、これは大きな間違いで、女性の暮らしを長い歴史のスパンで見ると、圧倒的に長い時代、女たちも男たちと同じく働き続けてきました。専業主婦(家事専業者)が働く女性(労働力人口)よりも多くなったことは、わが国の歴史上一度もありません。常に働く女性の方が専業主婦よりも多かったのです。いちばん家事専業者数が労働力人口に近づいた年、1975(昭和50)年においても、労働力人口の方が一割以上多かったのです。
 このような働き方と社会が、縄文・弥生の太古の昔からついこのあいだまで延々と続いてきたのです。ではいつ頃から変化があらわれてきたのでしょうか。世界史のレベルでいいますと18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命の時代です。第一次産業である農林漁業中心の社会から工業中心の社会へとシフトし始めた時代です。それまでは家族中で農業をしていましたが、この時期石炭掘りの仕事や工場へと働きに出る者(雇用者)が増えていきました。
 そして雇用者同士が結婚し子どもを育てることになる。農業であれば生まれた子どもを田んぼのあぜ道など父母の目の届くところで遊ばせ働き続けることが可能でしたが、工場労働者となるとそれはできませんので、女性が家庭に入り家事育児に専念するという、専業主婦が誕生しました。ここから女性たちの生き方・働き方が変わっていくことになります。日本の場合ですと、19世紀終わり頃から20世紀初頭(明治時代後半から大正時代)がそれにあたります。
 わが国の歴史を見ると、全人口に占める第一次産業従事者は明治初頭で9割、半ばで8割、そして1950年(昭和25年)には5割まで減少しました。1960年で3割、1970年で2割、1980年で1割。1995(平成7)年には、とうとう1割を割り込み6%。つい150年前まで9割を超えていたにもかかわらず現在では数%しかありません。その大転換期は、「大正時代」と「戦後の高度経済成長期」の2つでした。
 特に戦後の高度経済成長期には、農村の次男・三男だけでなく長男までもが農業者をやめて雇用者となっていきました。そのようにして、サラリーマンの夫と専業主婦という夫婦のあり方が広がっていったのです。
 サラリーマンの夫は、朝から晩まで働きバチのごとく働く。当時の高度経済成長期下においては、仕事は次から次へとありましたので、残業をすればするほど豊かになっていきました。戦後の焼け野原からの再出発でしたので、当時の父親たちは、わが子には少しでも豊かな生活を送らせてやりたい、少しでも学歴を身につけさせてやりたい、という切実な思いから働き詰めの生活を選んだのです。
 また社会的にも、サラリーマンの夫と専業主婦の妻というスタイルが、憧れの存在となりました。農村部に生まれた娘たちは、「私は、おかあちゃんのように農家へなんて嫁ぎたくない。サラリーマンの妻になりたい」と専業主婦にあこがれ、田舎から都会へと人口の移動が加速していったのです。
 人口流入の受け皿をつくるため、1955(昭和30)年日本住宅公団が設立され、翌1956年には関西で初めての団地が堺市の金岡に出現しました。この堺の金岡団地に住むことは、当時最もトレンディーなことでした。当時の若い女性たちの理想は、「サラリーマンの夫と団地に住んで、専業主婦になること」でした。
 若い男性たちの理想も、「自分は妻を働かせはしない。自分の母親のように朝から晩まで休む暇なく畑仕事をしなければならないような働き詰めの生活はさせたくない。お味噌汁を作って自分の帰りだけを待っていてくれる妻をもちたい」でした。女性と男性の理想が一致したわけです。これには、当時(1950年代後半から60年代)続々と創刊された女性週刊誌も一役買いました。グラビアの構図は、団地の窓から可愛い赤ちゃんを抱いて「あなた、いってらっしゃい」とにこやかに手を振る妻、それに応えて「いってくるよ」と手を振るサラリーマンの夫、その妻のうしろには真新しい真っ白な電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビが並んでいるというものでした。これが世にいう「三種の神器」です。この「三種の神器」はまたたく間に行き渡り、次いで現れたのが、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」です。この3Cもすごい勢いで普及していきました。


女性の働き方

 大正時代に生まれた「専業主婦」ですが、若い夫婦だけに夫の給料だけで生計を立てることは難しく、当時ほとんどの専業主婦は内職をしていました。わが国で内職が広がったときと専業主婦が生まれたときは、期を一にしています。当時の内職は動力ミシンを踏む縫製が主流でした。
 戦後の高度経済成長期は、動力ミシンを踏む代わりにパートタイマーとして外に出て働き、家計を助けるという女性の働き方が広がっていきました。受け入れ先の企業にとっても、低賃金でしかも景気調節弁として利用できるパートタイマーの存在は便利なものでしたし、女性の側にも子どもが学校から帰ってくるまでに帰ってこれるという利点がありましたので、ここに両者のニーズが一致し拡大していったのです。いま、全女性雇用者の4分の1が、パートタイマーです。


近代化と高度経済成長の持つ
もうひとつの顔

 また、大正時代と戦後の高度経済成長期という2つの時代は、子育てをめぐる問題が顕在化していった時代でもあります。大正時代には、多数派は農業でしたが、専業主婦となり内職で動力ミシンを踏み家計を助けるという女性たちの生き方、働き方が少しずつ広がっていきました。
  農業ならば、子どもが小さい間は田んぼのあぜ道など目の届くところにおいて、ときどきおっぱいをやりながら農作業をし、少し大きくなれば子ども同士の集団で遊ぶ。また、農業社会というのは地縁血縁社会ですので、親類縁者やそれ以上の付き合いのあるご近所さんなど、多くの大人たちの目で子どもたちは見守られ育てられていました。
  しかし、大正期の近代化の中での子育ては、家の中という閉ざされた空間で、生みの母がひとりぼっちでする子育て。家計を助けるため動力ミシンを使って内職をする母たちは、危なくないように、動き回るわが子を柱にくくりつけざるをえませんでした。
  このような環境のなかで、子どもたちに言葉の遅れや、情緒の不安定、無表情などの問題が指摘されてくるようになります。この状況に強い憂いと危機感を持った児童文学者の鈴木三重吉らが中心となって、グループ「赤い鳥」を立ちあげました。
  「赤い鳥」のメンバーたちは、子どもたちに絵本を読み聞かせ、いっしょに歌を歌い、こうした問題に対応していこうとしました。作詞:西條八十、作曲:山田耕筰の名コンビで今でも歌い継がれる多くの童謡がつくられたのは、大正時代のこの時期です。また、メンバーのひとりであった芥川龍之介は、親が子に読み聞かせるようにと童話「蜘蛛の糸」を書き下ろしました。これが、日本の近代化が進んだ大正時代のもうひとつの顔です。



子育てをして初めて知った
「子育て」の大変さ

 戦後の高度経済成長期は、児童虐待が顕在化していった時代でもありました。夫不在の密室の中のひとりぼっちの子育て。くる日もくる日も母と子だけの生活がもたらす閉塞感。核家族化による祖父母の不在。都市化がすすむなかでの地域のつながりの希薄化。
 私も大学院を休学して、専業主婦として子育てに専念しました。くる日もくる日も母と子だけの生活。私は専攻が教育学でしたので、修士課程では教授の代わりに母親学級(現在は両親学級)で講師もしました。本当に申し訳ないことですが、あのとき私の話を聞いてくださったお母さん方には何ひとつお役に立てることは言えていなかった。それがわかったのは、実際に私が子育てを経験してからでした。
 教科書には、「子供が泣くには理由があります。」と書いてあります。お腹がすいているのか? おむつが濡れているのか? だっこして欲しいのか?「それは母であればわかる」と書いてありました。でも、とんでもない、そんなことわからないんです。おっぱいもあげたし、おむつも替えた、だっこもしてる。考えられることは全てやった、でも泣き止まない! どうして、あんたはいつまでもいつまでも泣くの!と涙がこぼれました。教育学を専攻し母親学級で講義した私にとっても、教科書に書いてあることと現実とは、かけ離れたものでした。
 母がわが子にしてあげられる最大のプレゼントは、乳幼児期から小学校期にかけて、子どもにできる限りたくさんの人間関係を用意してあげること、と言われています。子どもを取りまく多くの友だちであり、祖父母、親類、知人、近所の人々です。多くの人間関係のなかで育った子どもは、思春期になったとき、「ちがいを認め合う」許容度が高くなると、言われます。思春期に問題を抱える子のなかには、親以外の大人を誰も知らない、という場合も少なくありません。
 同じ時期、子育て期が終わった妻たちのなかで、アルコール依存症が問題となっていきました。あれだけ手をかけて精一杯の愛情を注いだわが子は勝手に離れていく、夫は日本の高度経済成長を支える企業戦士として朝から晩まで働き詰めでいない、この前の夫婦の会話がいつだったのか、何だったのかさえも思い出せない、やっとの思いで手に入れたマイホームには、もはや守るべきものは何ひとつないと気づいたときの途方もない空しさ。「空の巣症候群」といわれますが、そんなとき何気なく一口呑んでみた料理酒が気晴らしとなり、やがて深みに。現在アルコール依存症患者の1割以上が女性でありなお激増しています。
 一方、夫はというと、現役時代は企業戦士として朝から晩まで働き、趣味もなく、休日にすることもなく、地域に友もなく、子育てにも関与せず、そして定年後は日がな一日家にいて、粗大ゴミ、産業廃棄物、ぬれ落ち葉族と言われる。60才代で妻と死別した夫の平均余命は1.5〜2年という統計もあります。一方、60才代で夫と死別した妻の平均余命は何ら変わりません。つまり、妻は夫が死のうが生きようが、全く関係なく生きるところまで生き続ける。これが高度経済成長期のもうひとつの顔です。


サラリーマン社会から次なる時代へ

 現在の自殺者数は、一昨年で34,000人、昨年は32,000人です。そのうち7割が男性、しかも働き盛り層に限定すると8割以上が男性です。交通事故による死者が、7,500人弱ですので、毎年毎年30,000人を超える人が自ら命を絶つ、ということは大変なことです。
 働き盛りのときは過労死、または過労自殺まで精神的に追い詰められ、定年後は地域に友もなく、趣味もなく、することもなく、妻に先立たれると1.5〜2年でその生涯を終える。男性は男性で、問題を抱えています。
 こうした状況のなかで、社会はいま「次なる新しい働き方、生き方」を模索し始めています。これまでのような「夫は企業戦士として朝から晩まで働けばいい」、「妻は専業主婦として、銃後の妻として支えればいい」という役割分担は、高度経済成長期には効率的に機能した面もありますが、もはや時代とあわなくなっています。
 女性も働けばいいといった単純なものではありません。働く女性のなかには、家庭と仕事に介護も加えて、二重三重の負担となっているケースも少なくありません。家事・育児や介護を女性だけが担っている限り、男性と同じスタートラインには立てません。女性にだけ時間的制約があるため補助的な仕事しかできず、従って収入も男性に比べ低くなってしまいます。女性の平均賃金は現在、男性の67%で世界最低レベルです。
 このような問題が顕在化し指摘され始めたのが、1980年代から1990年代以降の中低経済成長期です。高度経済成長期の終身雇用、右肩上がりの年功序列型賃金制度だけではもたなくなってきた時期です。いまフラット&ワイド型賃金の導入が言われています。簡単に言いますと、「フラット:若くても、年とっても年齢に関係なく、今働いた分だけの賃金」、「ワイド:同じ年齢、同じ経験年数でも成果により賃金差を幅広く(ワイドに)する」といったモデルです。
 また個人の働き方も多様化しています。様々なスキル・知識を身につけた専門職(エキスパート)であっても、管理職(マネージャー)とならない限り賃金が上がらない現行のシステムが行き詰まっていることは確かですし、そのことは県庁組織においても課題です。
 いろいろな働き方が既に出てきています。働くことの多様化、賃金体系のフラット&ワイド化が言われる中で、私たちのこれからの働き方はどうあるべきか、が今問われています。


人口減少問題が問うこと

 戦後の高度経済成長期を経て、平均寿命と出生率の2つが大きく変わりました。現在の平均寿命は男79才、女86才です。つい80年前では男45才、女47才が平均寿命でした。男女とも50才に足りません。朝から晩まで農林漁業で働き詰めに働いて、子どもを7〜8人もうけ、末っ子がまだ幼いうちに上の子たちに後を託しその生涯を閉じるというのが、ほとんどの日本人の一般的な人生でした。このようなライフコースが、ついこのあいだまであたり前でした。それが、ここ数十年で激変したのです。
 次に出生率ですが、同じく80年前のそれは4.75でした。現在は1.289です。出生率は2.08で人口が維持できます。このままでは世代がひとつ代わるごとに人口が3分の1ずつ減るといわれています。わが国の総人口は今1億2,700万人ですが、このまま推移すると、今世紀半ばには1億人を下回り、今世紀末には4,000〜6,000万人にまで減少すると想定されています。100年を待たずに人口が3分の1〜2分の1にまで減少する社会をどう感じますか? さらに4,000〜6,000万人の状態が維持できるのならまだしも、そこから数百年で、このままでは日本の人口はゼロになるということです。



これからの社会をどうしていくのか

 今のままでは、「子育て」と「仕事」の両立支援は難しいままです。両立しやすい社会の実現が急がれますが、それには父親の家事・育児への参加をすすめる必要があります。「男も家事・育児を半分持て!」ということではなく、「子育て」という最も人間らしい営みを男性たちも分け合おうよということです。行政においては、法制度の整備が急ピッチで進んでいます。2003(平成15)年には「次世代育成支援対策推進法」、「少子化社会対策基本法」が施行され、国は結果を毎年フォローしていきますし、2004年12月には「子ども子育て応援プラン」が発表されました。これは、今のような「生みの母ひとりが孤立した家の中で背負う子育て」から、おとうさん、おじいちゃん、おばあちゃんなど家族みんなでやっていたときのように、また、村中の子どもの名前を、村中の大人たちが知っていて地域社会全体で子育てをしていたときのように、いろいろな人たちと一緒に子育てができる社会へと変化させることを目的としたものです。
 何故いま、そのようなプランが推し進められているのでしょうか。それはこれからの5年間が20代後半から30代の女性が最も多い最後の5年間にあたるからです。この最後の5年間でわずかでも出生率を上向かせないとわが国は1世紀待たずに人口が3分の1〜2分の1にまで減少することになります。
 減少する出生率を上げること、また、少なくなった子供たちを虐待・いじめ・自殺などから守り、たくさんの人間関係の中で育て、「子育て」が喜びと受けとめられる社会をつくっていくことが今急がれます。



ユニバーサル社会
〜誰もが社会の担い手に〜

 人口減少社会においては、いまのように「社会にお世話になる人」「お世話する人」といった2極の構図は成り立ちません。いえ、「もたない」と言った方がいいでしょう。ではどうすればいいのでしょうか?
 それは、これまで周辺労働力あるいは労働力ではないとしてしか位置づけられてこなかった人たちを、労働力として活用していくことです。そのことは、同時に、しごとを通しての生きがいづくりにもつながっていくでしょう。誰もが社会の担い手となる社会、それがユニバーサル社会です。
 2003年6月、参議院において「ユニバーサル社会形成促進に関する決議」が、満場一致で議決され、兵庫県では2004年4月に、全国で初めて「ユニバーサル社会課」を新設しました。


−女性の働き方−

 女性の平均賃金は男性の67%、全雇用者に占める女性雇用者の割合は4割ですが、女性管理職は8.9%、因みに米国は45.1%です。農業では、夫が雇用者として働いている場合も多いため、6割を女性が占めているにもかかわらず農協女性役員は0.6%。労働組合では、女性組合員の占める割合は27%ですが、組合女性役員は7%しかいません。女性たちが基幹労働力として決定の場へ参加できる社会をつくることが大切です。


−高齢者の働き方−

 65才以上の一人暮らし世帯は20年後には現在の2.2倍の680万世帯になり、75才以上の一人暮らし世帯は現在の3倍にあたる422万世帯となる見込みです。たった20年でこれほどの高齢社会が到来します。
 そのような状況下では、いまのように高齢者の方を「一方的に社会から助けてもらう存在」として位置づけることは、支える現役層が激減していくのですから、大変難しくなります。医療が発達し平均寿命も延びていますので、皆さんお元気です。これまで培ってきた知恵・知識・技術・伝えるべき伝統など、様々な分野でその力を活かし続けてもらえるような仕組みづくりが必要です。そのことは、高齢者の方々の生きがいにも必ずつながっていくにちがいありません。


−障害者の働き方−

 日本の全人口の5%が障害者の方です。その家族や、授産施設や作業所などで毎日障害者の方と接する方々を含めると、20〜30%になります。今日携帯電話のメールはごくごく一般的なものとして扱われています。この携帯電話メールが、会社の若手開発メンバーから提案されたとき、事業計画を承認する取締役会議では、「こんなものは駄目だ。売れるはずがない」と一蹴されました。大体どこもそうでしょうが、経営会議に出てくるような偉い人は、すでに老眼になっている方が多いですし、しかも、そうした方々にとって小さな携帯電話の上で指を忙しく動かし文字を打つことは至難の技です。しかし若い開発者たちはあきらめず粘って、モデル的に地域をいくつか選びモニタリングすることを認めてもらうまでこぎつけました。始めてみると、爆発的に利用者が増えている地域が出てきました。何故?と調査してみると、その地域には障害者の施設があったのです。聴覚障害の方などとコミュニケーションをとる手段として、その家族、指導員、知り合いの方たちが、これは便利だと、口コミで広げていたのです。そして今携帯電話にメール機能が当然のごとくついています。そうした面から見ると、障害者の方、その家族の方また支援している方は、膨大な数のユーザー層でもあります。
 さらに、IT化が進んだ社会では身体障害というのは、その部分を機器で補うことができれば、例えばインターネットには全く同等に参入することができます。単に「支援してもらう人」という位置づけは、適切ではありません。兵庫県内に授産施設・作業所が450ほどありますが、従来は、そこでつくる製品は、バザーなどで細々と売られていました。それでは、収入は限られます。
 私たちは「どうしたらもっと売れるのか」「どうやればもっと収益をあげられるのか」という視点から、市場で流通できる質の向上と、販売ルートをつくることを考えました。いま授産施設や作業所でつくられる商品、例えばクッキーやパウンドケーキなどは一流シェフの指導を受けていますし、包装も一流の包装会社の指導を受けています。また、炭石鹸は環境問題への取り組みのひとつとして、「環境にやさしい」を売りにしてきましたが、手づくりですから、形は少しずつちがってきます。名刺の印刷も、少しずれることもあります。
 従来は、「だから、大量の受注は受けられない」と思いこんでいました。でも、そこに商品価値をつければ、「ひとつひとつ違う、だから意味がある」ということになります。SMAPの「世界にひとつだけの花」ですね。炭石鹸をひとつひとつ違う包装紙で、キャンディーのように可愛らしく包装して、「ひとつひとつ違う、たったひとつのもの」を売りにしました。
 次に販売方法についても新しい手法を取り入れました。いま楽天さん、フェリシモさんと組んで、インターネットや通販を使った多角的な販売に力を入れています。売上は順調に伸びつつあり、障害者の方が手にする給料は、施設によっては3倍から4倍に増えました。県は、この取り組みの技術指導者の派遣やコーディネーターの人件費に、予算を組んでいます。でも、この試みも当初庁内からは非常に反対を受けました。県が個別企業と手を組むということは前例がなかったためです。徹底的な情報公開をテコに、行政も個別の企業やNPOと手を組む時代に入ったということです。
 このように、人口減少社会は、すべての人が社会の担い手となるユニバーサル社会を必然化します。一方的に支援される側の人がいる社会というものは、もはや成立してゆけませんし、また誰もが支援する側になったり支援される側になったりということこそが、全ての人にとって自分が社会に貢献している手応えを得て、生きる居場所をもつことへとつながっていくのではないでしょうか。


持続可能な財政制度へ

 人口減少社会がもたらすもう一つの問題は、財政問題です。江戸時代の江戸のまちの人口は100万人でした。住民の数は60万人程度で、武士とその家族がそのほか40万人いましたが、こちらは支配系統が違いますので、いまの東京都庁にあたる町奉行所は住民60万人を見ていたことになります。
 いま60万人都市となると行政職員は相当数います。しかし江戸のまちでは、60万人の住民に対し町奉行所の役人は300人程度しかいませんでした。お触れの立て看板を出したり、人別帳を作ったり、行き倒れの人の世話をしたりという行政事務は誰が担っていたかというと、江戸のまちに約2万人いたといわれる大家さんたちでした。大家さんたちは5人ずつ月当番を組んでボランティアで、いまの集会所にあたる「番屋」に詰めて、人々の相談にのったり、事務をしたりしていました。おおやけ(公)という言葉はおおや(大家)からきているとも言われています。
 また、昔は道普請というのがあって、道をつくるために地域の人が人手も出していましたし、昭和20年代あたりまでは「地域のことは地域でやる」という習慣がありましたので、家の前の落ち葉などは自分たちで掃除することがあたり前でした。しかし、このような暮らしも、ある時期を境に変わっていきます。
 高度経済成長期の国・地方自治体は、企業の高収益に支えられて税収も増えていき、いわゆるハコもの行政といわれる公民館や市民センターといった建物の建設が、急ピッチですすんでいきました。市民も、家の前に落ちている落ち葉さえも市役所に電話するということになっていきます。何でも行政がやってくれる、このような構図は高度経済成長期のモデルで成り立っていますので、いまとなってはもはや継続していくことはできません。民と官がともに、地域のみんなのこと(公)を担う時代へとシフトしていかざるをえません。
 兵庫県でも2003(平成15)年に「県民の参画と協働の推進に関する条例」を施行しました。福祉の領域でも、行政が何もかも決め県民は従うだけという従来の措置型から契約・選択型へと動いています。例えば2000(平成12)年に始まった介護保険制度は、その端的な例です。介護保険は自己負担10%、公費45%、保険料45%の割合で自助・公助・共助を組み合わせた仕組みとなっています。その選択を応援する専門家を「ケアマネージャー」と呼んでいます。2003年に始まった「障害者支援費制度」も同じく、障害者やその家族の選択を応援する仕組みとなっています。


企業のサバイバル

 グローバル化の社会の中で、企業の生き残りを賭けた闘いは厳しさを増しています。グローバル化社会では、一流企業があっという間に消えたかと思うと、つぶれかかった企業が息を吹き返し、これもまたあっという間に世界の一流企業に登りつめるといったことが起こってきます。
 消えた方では、私の学生時代一流企業であった山一証券や日本長期信用銀行があります。あっという間に消滅してしまいました。他方、登り詰めた企業の代表格はインテルやサムスン電子と言えるでしょう。

1)リニアモデルからターゲット・ドリブン型へ
 東北大学に「日本の半導体企業をつぶした男」と云われる大見忠弘教授という方がいらっしゃいます。教授が研究成果を企業へ持ち込んだとき、日本の半導体メーカーは皆そっぽを向きました。しかし、インテルとサムスン電子だけは違いました。1987(昭和62)年当時傾きかけていたインテルは選りすぐりの優秀な社員を20人、大見研究室へと送り込みました。その20人からは「今はつぶれかかっているが必ず自分の会社を数年で世界一に押し上げてやる」という熱意と決意が感じ取れたと、大見教授は当時を振り返っておられました。そして5年後、世界の頂上へと登りつめたのです。そのときに用いた手法がターゲット・ドリブン型といわれるものです。
 かつての技術開発または研究開発では、基礎研究→応用研究→実用化研究→実用化・事業化と順を追って進めていく、リニアモデル型といわれる手法が主流でした。しかし、これでは時間がかかり過ぎて変化の激しい今の時代には対応できません。しかも実践の試練を受けない開発は、いくらやってもモノにはなりません。
 そこで実践の試練を受ける開発、つまり基礎研究、応用研究、実用化研究、実用化・事業化の4つを同時進行する手法が大見プロジェクトではとられました。基礎研究と実用化・事業化を同時進行させるためには、20年くらい先を見越した強力なプロデューサーが必要でしたので、その役を教授自らが担当されたそうです。

2)企業間コラボレーション
 いま国の財政がかなり厳しい状態にあることは皆さんご存じだと思います。2010年代初頭に10兆円規模の税収がないと財政収支が均衡しないのです。10兆円規模の税収増を可能にするには、100兆円規模の新産業の創出が必要です。しかも同時に、CO2排出量の1990年比で6%削減を達成しなければなりません。
 日本のメーカーには、まだまだ優秀な技術者がいて優秀な技術があります。でもそれらをあまりに安売りしてはいないでしょうか? 大見教授は「目先の利益を追うがために、万の価値のある技術を二束三文で安売りしている。これが許し難い」と嘆いておられました。また特許に対しての認識も甘く、産学協働で研究開発を行うと、大学あたりから研究論文の形で情報が漏れ、中国、韓国などでどんどん使われてしまって、せっかく日本で開発した技術でも特許として保護できないといったケースもあるようです。例えば、これからは大型ディスプレイの開発ひとつをとってみても、テレビパネル・装置・部材・建築・ユーティリティなど関連する様々なメーカーが、それぞれ一流の技術を持ち寄って協働し、そして情報をコントロールすることで知的財産を守り、世界とたたかうというような形での企業間コラボレーションも、グローバル化された社会で生き残っていくためには必然となってきます。こうしたメーカーを一番そろえられるのは、今でも日本です。

3)ダイバーシティーと嫉妬への断罪
 いつの世でも若い者の意見は、年上の者がつぶしてしまいがちです。人生経験から年長者が若年者をたしなめるといったこともあるでしょう。しかし、それが研究開発となればどうでしょう。
  若い研究者たちの「こうしたらどうか」「ああすればどうなるだろう」という意見を年上の者たちは、やる前から「そんなことをしても駄目だ」「やる前からわかりきっている」と可能性の芽をつぶしてしまうことがあります。その可能性や怖い者知らずの行動力、またバイタリティーに、妬みや嫉妬はありませんか?
 我々日本人は元々は農耕民族でしたから、狩猟民族の欧米人に比べ嫉妬や妬みは弱い民族であるといわれています。しかし欧米人は、1929年の世界大恐慌で大きな痛手を受けたことをきっかけに、再チャレンジを繰り返せる社会を実現するために、嫉妬に対して社会的制裁を加える仕組み、嫉妬して人の足を引っ張る行為には制裁を加えるといったコンセンサスをつくりあげてきています。日本人が嫉妬心が強く足を引っ張り合っているということではなく、むしろ弱かったためにこれまでそのことへの対応策がとられてこなかった。そのため未だ嫉妬に対し社会的に制裁を加えるという仕組みがありません。嫉妬ゆえの情報の隠匿や有意な人材への足の引っ張りは、企業にとって致命的です。ダイバーシティーとは多様性の共存という意味ですが、ちがいがなければ新しい発見もありません。ちがいがあるからこそ活力の維持ができるのです。老いも若きも、男も女も、お互いのちがいを尊重し、意見を認め合い、無用な嫉妬や妬みは捨て去る必要のある時代と言えるでしょう。

4)ソーシャル・キャピタル(関係性資産)
 ダイバーシティーとあわせて、この間、注目されてきたものに、ソーシャル・キャピタルという考え方があります。これは米国経済学者のロバート・パットナムが広めた経済学の用語で、関係性資産と訳されます。キャピタルとは資本のことで、ふつう土地・工場・労働力・機械などをさします。同じような資本(キャピタル)を持つ2つの企業で、一方は非常に業績が良いのに他方は業績が悪いという現象が起こる。その原因を経済学的に分析すると、そのちがいは、業績の良い企業は社員ひとりひとりが社内外に、特に社外に様々な領域の多くの人間関係を持っていることでした。これがソーシャル・キャピタルです。阪神・淡路大震災のとき、県職員の中で最も活躍した職員は、県庁外に独自の多くの人脈を持つ職員でした。震災後の状況は、皆さん良くご存じのように交通網も情報網も遮断されていました。そんな中、日頃から信頼に裏打ちされた人間関係をもっていた職員たちは、電話一本で、コンビニに勤める知り合いが、その倉庫に積まれた水を、必要としている人々へ送り届けてくれましたし、電話一本で自治会の会長さんが地域の意見をまとめてくれたりもしました。
 震災前の長田地区は、ケミカルシューズに関わる零細部品メーカーが多数存在し、生活・仕事を含めた共同体を形成し信頼に基づくネットワークを構築していました。契約行為も口約束で通じるほど信頼関係は堅固なものでした。取引相手が信頼のない場合だと、「裏切られたらどうしよう」、「こんなときどうしよう、あんなときどうしよう」と、とことん契約内容を詰めておく必要が生じます。信頼がないと、契約コストは非常に高価なものになってしまうのです。

5)CSR(企業の社会的責任)
 今そしてこれからの時代、企業の社会的責任は3つあるといわれます。1つめは、「企業の製品やサービスを通じて社会的責任を担う、社会に貢献する。」ことです。製造過程において公害をたれ流していた、かつての企業のように、活動そのものが社会に害を及ぼすなどは論外です。2つめは、「CS(Customer's satisfaction)とES(Employee's satisfaction)」と言われるときのESです。CSは顧客満足のことで、これは製品やサービスを通じお客様に満足を感じて頂けることを意味します。そしてESとは従業員満足のことで、企業に勤める従業員が家庭を持ち、地域に生き、なお仕事を持って生き生きと暮らしていくことができるよう、従業員の人生をサポートすることを通じて社会に貢献するというものです。3つめは「地域への貢献」です。いまこの部分が企業だけでなく大学へも強く問われ始めています。
 例えば、三ツ星ベルトさんですが、震災復興において「地域に生きる三ツ星ベルト」として様々な取り組みをされ、大きく名を上げられました。このような企業の社会的責任、貢献がどのような形で果たしていけるのか、また実現していけるのかが、企業のサバイバルと密接に連動していくと考えられています。最近、CSRそのものが社是として掲げられ、CSR部が社長直結の組織として運営されている企業が増えてきています。



働く者は

 このように企業のサバイバルは、かつて経験したことのないほど時代が激しく変動しグローバル化する中で、しかもいままで以上のスピードが要求される中で行われています。そのような状況下で働く私たちはどうすればいいのでしょうか。

1)ワークシェアリングからワークライフバランスへ
 ワークシェアリングは、1982年のワッセナーの合意によって政労使が取り組みをスタートさせたオランダが有名です。仕事を分かち合うことによる、失業者の減少を目的としたものです。オランダでは、当時12%を超えていた失業率を、10年ちょっとで3%を切るところまで改善しました。もちろん、仕事を分けた分だけ労働時間が減り、その分収入も減ります。でも、それまでなら働いていたその余った時間を、家庭や地域へと向けて、より人間的な暮らしをすることができるようになった面もありました。
 そこからさらに進めたものが、ワークライフバランスという概念です。これは、仕事・地域・家庭での生活のバランスをとることを意味します。このワークライフバランスという側面から考えると、従来型の画一的な労働時間の設定ではなく、フレックスタイム制や裁量労働制という制度導入も考えられます。しかしながら、これら時間に自由度を待たせることができる制度は、労働者にとって天国にも地獄にもなる制度であることを忘れてはならないと思います。忙しいときは長時間、一段落したら数時間というように自分で時間設定できますので労働者にとって有用なものでもありますが、逆に企業にとっても忙しいときは出社させ長時間働かせるが、暇になると自宅待機というような、企業の勝手だけがまかり通ることになる可能性も含んでいます。
 これらの制度は、その調整を行う労働組合の果たすべき役割が大変大きな制度です。

2)エンパワーメントからキャパシティービルディングへ
 エンパワーメントとは、力をつけるということです。これは、1990年代以降様々な領域で指摘されるようになった考え方ですが、今日ではそれを一歩進めて、自分が力をつけるというところにとどまらず、結果を生み出す力をつけることが大切であると言われています。結果を生み出す力、それがキャパシティービルディングです。

3)働きがい、生きがいへ
 これからの社会は、会社だけにとどまらず、もっと広い意味のしごとを通して得られる「社会に貢献する手応え」と「人間関係(仲間)」が重要度を増してきます。あの震災の後、兵庫県は48,000戸の災害復興公営住宅をつくり、被災者の方々に入居していただきました。ボタンひとつでお湯の出る最新式のものでした。私も度々訪問させていただきましたが、入居されている高齢者の方々は、「いままで木造の古い住宅に住んではいたけれど、近所の人たちと一緒に暮らしている実感があった。馴染みの商店街でお芋のテンプラ1枚60円で買って、おしゃべりして暮らしていた。いま立派な高層住宅に住んで、毎日毎日ボランティアの人や役所の人が様子をききに来てくれる、それはうれしいけれど、私たちは何もかもやって欲しいなんて思ってない。むしろ何かしたい。きょうもあしたもあさっても何もすることがない。何の予定も書き込まれていない真っ白のカレンダーがつらい」と言われました。
 私たちも、鋼鉄の重い扉でなく、引き戸のドアができないかと強く思いましたが、消防法の関係でできませんでした。手の力の弱まっているお年寄りが、あの重い鉄の扉を開け閉めすることは大変負担です。その結果部屋に閉じこもってしまいがちです。消防法をクリアする、軽くて丈夫な引き戸をぜひとも開発してくださいと、技術者の方々にお願いしたいです。
 私たちは、お年寄りの方々に何か張り合いのもてることをと思い、2,000人の方に一日2,000円程度の交通費分をお支払いして、災害復興で両親が忙しく寂しい思いをしている子どもたちに、「お手玉」や「めんこ」などの昔の遊びを教えていただく仕事をお願いしました。これも当初財政当局から、前例がないと反対されましたが……。
 でも、「このお手玉を縫うためにきのうの晩、夜中2時までかかったのよ。でも子どもたちの笑顔が楽しみで、頑張ったのよ」と話される顔は、ほんとに皆さん輝いておられました。私たちは、生きがいが、社会のために自分が役立っているという実感、広い意味の「しごと」と、そのしごとを通して得られる人間関係=仲間たちから得られることを、学びました。




私たち一人ひとりは

 これからの私たち1人ひとりにとって大切なことは、企業で働いていようと、行政で働いていようと、同じであるように思います。前例のない時代ですから、「前例にとらわれない」、「固定的な意識にとらわれない」、「タテ割りにとらわれない」は絶対不可欠な条件です。また仲間集団だけでなく、その集団を超えたところで広げていく「信頼に裏打ちされた人間関係」=ソーシャルキャピタルが、次の時代を切り拓いていくのではないでしょうか。
 このように社会や環境が大きく変化する中で、では私たち一人ひとりは、どのように「働く」ということを考え行動しなければならないのか。最後に6つの点をみなさんにお話したいと思います。

1.「自らが生活者であること」
 かつての高度経済成長期にはあたり前であった、「家事・育児は妻にまかせて、朝から晩まで働きバチのごとく働く」というワークスタイルの社員が生み出す製品やサービスは、これからの社会では通用しません。環境問題を例にあげると、分別収集という言葉は聞いたことはあるが、全て妻まかせで、自分でやったことは一度もない社員や行政職員が、分別収集・環境問題をどうするかなどと考えたところで何が出てくるでしょうか。また、子育てを妻まかせにしている者から、子育て世代にアピールする、的を得た商品・サービスまたは施策などが出てくるはずもありません。そのような意味において、自らが生活者であることは、これからの企業・行政に働くものにとって、必要条件です。

2.「自分がやること」
 まず自分が行動をおこすことです。上司・同僚がやってから、または上からの指示を受けてからでは何も進みません。気分が落ち込んだときには、まず笑ってみるというのと同じです。今気分が落ち込んでいるから、この落ち込みがなおったら笑ってみよう、外へ出かけようではなく、そうしたときは、まず「ア、ハ、ハ」と笑ってみる、外に買い物に行く、としたほうが、気分も晴れてきます。同じように、行動を起こすことによって、事態は前にすすみます。

3.「何回でもやり直せること」
 やらない理屈を先に考えるのではなく、まずやってみる。大切なことは、何度でもやり直せる、ということです。うまくいかなかったら、やり直せばいい。仮にうまくいかなくても、こういう風にやったらうまくいかなかったという経験をしただけ、もうけものです。

4.「持ち運べる人間関係を持つこと」
 先ほど県内21社での県職員の研修についてお話ししましたが、ここでつながった人間関係を継続させるために、毎年交流会を重ねていきたいと思っています。今年の入庁者の中から、やがて課長、局長、部長が必ず出てきますし、企業側でも同じことが言えます。部署が替わっても肩書きが変っても持ち運べる人間関係こそが、ソーシャル・キャピタルです。若いときこそ、この人間関係を作り始めるときです。

5.「何のために、この仕事をするのかを絶えず問い直すこと」
 「これをする」ということが至上目的となってしまうと、「何のためにこれをするのか」が後回しになってしまいがちです。絶えず目的を問い直しながら、自分のことばでそのことを伝える力を育んでください。3人称ではなく「I do」「I want」「I feel」という「I」を主語にした「アイ・センテンス」=1人称で話してください。「私」を主語で語らないと、思いを伝えることはできません。

6.「具体的な成果に結びつけること」
 日産のゴーン社長は「5%が計画、残り95%が実行。実行してこそ、その計画は意味を持つ」と言われました。研究開発の場合でも、絶えず事業化を同時に視野において行う、行政においても施策化を意識して基本構想を立てることが重要です。計画だけは立派だったが、実行力がなく実現しなかった、ではこれからは通用しません。キャパシティービルディングですね。



最後に

 年上の方には、若い人たちの無謀さを受けとめる懐の深さも持っていただきたいと思います。いうなれば、かつての「ご隠居さん」のような役割です。若い人はもっと前向きにアグレッシブに、年配者はもっとウィングを広く見守ってやる。出る杭が打たれそうになったら、やってみたらいいじゃないか、と防波堤になる、そんな人がいれば、若い人たちは、思いきって冒険できるでしょう。
 最後に、「今というときを楽しんでください」、「ちがいを楽しんでください」。あまり難しく考えずに。真剣に生きることは当然ですが、決して小さな世界に陥らないで、小さなことにつまづいても、人が自分の意見に賛成してくれなくても、思い詰める必要はありません。最近、企業でも行政でも精神的に追い詰められ心のケアを必要とする人が増えています。もっと気持ちに余裕を持って、自分とちがう他人の意見を楽しんでみてください。「Agree to disagree:自分と意見がちがうことに賛成する。」みんなが自分の意見に賛成してくれず、ちがうからこそ、おもしろいといえます。
 もっと広い目で見て、ちがいを楽しむ、今を楽しむ、何回でもやり直せるとハラをくくって、壁があればあるほど「それを乗り越えるプロセスを楽しめるじゃないか」と壁があることを喜ぶ。そんなふうに考えてみませんか。



プロフィール
関西大学講師を経て、平成4年兵庫県立女性センター初代所長。
その後、生活復興局長、労働部長、復興総括部長、県民生活部長を経て、平成14年より兵庫県理事。
兵庫県自治研修所長兼務。