新時代の企業責任とワークスタイル | |
兵庫県理事 清 原 桂 子 |
ただいまご紹介いただきました、兵庫県の理事をしております清原でございます。先ほど皆さんの先輩お二人のお話を私も聞かせていただきました。そしていま、「今日この場に来させていただいて本当によかったな」と思っています。お招きいただき、ありがとうございます。私には、28才の社会人と23才の大学院生の二人の息子がおります。ちょうど皆さんと同じ年格好ですね。今日はそんな若い、これからの人たちに、母親・女性・学者または行政など様々な視点から視た「新時代の企業責任とワークスタイル」についてお話しさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いします。 |
清原桂子のお弁当大作戦!? |
その前に少しだけ自己紹介を兼ねて、私が行政に携わるまでをお話させていただきます。いま思えば、私は結構行き当たりばったりな生き方をしてきたように思います。大学院に進学を決めたときは、「しばらく勉強に身を入れるぞ!結婚なんて当分しない!」と意気込んでいました。がっ!入学したその日に、大学院の先輩だった今の夫に一目惚れ。それからは、彼からプロポーズしてもらうためにどうするか、と思案。彼が一人暮らしをしているという情報を手に入れましたので、「まずは食べ物から!?」と、母に頼み込んで毎日お弁当を二つ作ってもらい、さりげなく、「二人分お弁当持ってきたけど食べる?」。ワンパターンな外食をしていた彼は、とっても喜んで、作戦は大成功! 当然ですが、結婚してから「えっ!あのお弁当は君が作ってくれたんじゃなかったの!」と言われましたが、その質問は想定範囲内ですから「当たり前じゃないの。私は『二人分持ってきたけど食べる?』とは言ったけど『作ってきたから食べる?』なんて言ってない。運んで持ってきたのは、私だから、ウソではな〜い。」なんて涼しい顔で切り返して、それから2人で一緒にてんやわんやしながら料理を学んでいくことになりました。 もっと勉強をしたかったものですから、「結婚はするけれども子どもはまだまだ先でいい」と考えていました。でも、ただちに妊娠。なんの心の準備もなく、子育てに突入することになりました。 |
子育て奮闘記 |
出産後、子どもを保育所に入れることを考えて、福祉事務所へ手続きに出向きましたが、窓口のおじさんに「学生の分際で子供は産むは、しかもその子を保育所にあずけて大学を続けようなんて、何を考えてんだ。」と頭ごなしに言われて、「えーっ!! 何でそんな言われ方をせにゃならんのだ!」。当時の保育所には雇用証明書がないと入所できませんでした。でも、それはおかしい!同じように保育所に入れず困っていた大学院生仲間と陳情書を作り、当時の厚生省に要望に行きました。しかし結果は変わらず、やむをえず2年間休学。子供が一歳を過ぎて、「やっと楽になってきた」と思った矢先、夫の就職が姫路に決まったのです。私はてっきり東京で就職してくれるものと思い込んでいましたので、昼間は子どもを実家に預け、大学に戻るつもりでした。私の両親は、娘(私)も孫もかわいいので、夫に単身赴任をさせ、私と子どもが実家で暮らすことをすすめました。私も迷いましたが、最終的に、夫とともに姫路に行くことを決心しました。 この中で子育てを経験された方はまだ少ないと思いますが、子育てって本当に大変です。うちの息子たちは、特に2人とも夜泣きして、大変でした。寝不足続きでイライラしているときも、体調がすぐれないときも、遠慮はしてくれません。でも、大変なことの何倍もの喜びも与えてくれます。例えば「歯が生えた」「ハイハイした」「立った」「歩いた」「ママと呼んでくれた」など、数えあげればきりがありません。 夫が単身赴任すれば、ときどき東京に戻って子どもに会って、子育ての美味しいところだけ味わってその大変さがわからないんじゃないか!ということもありますが、何より夫が子育ての喜びの場面、感動の場面に立ち会うことができないんじゃないか、と思いました。子育ての大変さも大きな喜びも、その両方を味わうことが親として最も自然な形だと思ったのです。 ということで姫路に来たのですが、残る在学期間を、夫の給料を交通費に使いはたしつつ、子どもを抱えて東京まで通うという生活になりました。そんな状態の中で二人目を授かりましたが、切迫早産になって2ヶ月入院、その年の試験を受けられず。「来年こそは!」と思いましたが、翌年は下の子が百日咳にかかり、結局その年も試験を受けることが出来ませんでした。そんなこんなで、2人の子を連れて東京まで通って、結局、10年かけて32才のときに大学院を修了しました。 |
いざ行政の場へ |
その後大阪の大学で講師をしながら、兵庫県の様々な審議会の委員などもさせていただきました。1992年、県立女性センターの設立にあたり、民間から比較的若手の所長をいれたいという県の意向を受けて、大学から行政にトラバーユ。子育て期の真っ最中でもあり、大学のほうが時間的に自由になりますので、お話を受けたときは悩みましたが、それまで審議会などで、もっとこうすべきだといろいろ発言していながら、じゃ自分でやってください、といわれて引き受けない、というのでは女がすたるかな、ということで決断しました。 学会では、「最もお役所仕事のやりかたから遠い存在」と認知されていましたので、同僚・恩師たちがビックリして、がちがちの行政のなかで、すぐイヤになってやめるんじゃないか、半年もつか、1年もつかと、「清原桂子 ふ・あ・ん(ファンではなく、不安)クラブ」が結成されたくらいです。 初代女性センター所長として、いちから予算を組んでやっとの思いで事業を立ち上げ、「さあこれから」というときに阪神・淡路大震災に直面しました。その後、生活復興局長、労働部長、復興総括部長、県民生活部長などをさせていただき、いま理事という仕事をしています。 皆さんの会社の前身である神鋼パンテツクさんとは、労働部長時代や環境を所管する県民生活部長時代に関わりをもたせてもらっています。簡単に理事の仕事を説明しますと、知事の下には二人の副知事がいて庁内の6つの部をタテで割って3つずつ担当します。その下に2人の理事がいて、「技術」担当理事はハード面を、「参画と協働」担当理事はソフト面をというそれぞれの切り口で、6つの部をヨコで割って仕事をします。私は「参画と協働」担当の理事です。 |
民間企業と県庁との交流 |
今年の県職員採用は162名でした。この内128名が新規採用、残り34名が経験者採用です。近年は経験者採用の枠を広げています。かつては500人からの新規採用をしていました。 この128名の新規採用者を県内の企業、例えば神戸製鋼所さん、川崎重工さん、ホテルオークラさん、風月堂さん、オリバーソースさんといった兵庫県を代表する21社に一週間預かっていただき、体験研修をお願いするという事業を今年から開始しました。つい先日、各社の代表者と知事との間で、次世代の人材育成についての協定書を取り交わしたところです。次世代へ向けて、企業と行政とが一緒に人材育成を行うという趣旨で、その第一ステップとしてまずは行政から民間企業へ人を送り、民間企業を体験してもらうという試みです。 様々な人と人との関係を、セクターの壁を超えて結んでいかないと今の時代を切り拓いていくことは、もはやできなくなっています。その視点から、県は企業とのコラボレーション(協働)をあらゆる場面において模索し創造してゆくつもりです。 「働く」ということについて考えたとき、これは企業も行政も地域社会も全て同じですが、今怒涛のように音をたてて社会のパラダイムが動こうとしています。その中で「広い目で見たときのこれからの働き方、そして私たち一人ひとりはどうすればいいのか」についてお話したいと思います。 |
新たな試みとして始まった県職員のNPOでの体験学習『ボラターン研修』(2005年8月11日神戸新聞より) |
「働く」ことの中身の転換 −農業社会からサラリーマン社会へ |
まず「働く」ということですが、いつの間にかこの「働く」ということが、会社、役所などに雇われて給料をもらって生計を立てる、統計用語でいう「雇用者」ですが、「働く」=「雇用者」と頭の中でピッと思い浮かべてしまうようになりました。しかし、このような働き方が多数派になった時代というのは、ごくごく最近なのです。つい百数十年前まで、だいたい明治時代の始めにはわが国の総人口3,300万人の内3,000万人以上は第一次産業、つまり農林漁業で生計を立てていました。残り300万人の過半数は家族で商売を営む自営業でした。 そう考えると、全人口の約95%は、家族中の老いも若きも男も女もみんな家業で働いていました。もちろん定年などはなく、死ぬまでみんなが働くことがあたり前の働き方であり、あたり前の社会でした。 特に女性の働き方は、「ずうっと昔から専業主婦が一般的な存在で、最近になって働き始めた」といったイメージをお持ちかもしれませんが、これは大きな間違いで、女性の暮らしを長い歴史のスパンで見ると、圧倒的に長い時代、女たちも男たちと同じく働き続けてきました。専業主婦(家事専業者)が働く女性(労働力人口)よりも多くなったことは、わが国の歴史上一度もありません。常に働く女性の方が専業主婦よりも多かったのです。いちばん家事専業者数が労働力人口に近づいた年、1975(昭和50)年においても、労働力人口の方が一割以上多かったのです。 このような働き方と社会が、縄文・弥生の太古の昔からついこのあいだまで延々と続いてきたのです。ではいつ頃から変化があらわれてきたのでしょうか。世界史のレベルでいいますと18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命の時代です。第一次産業である農林漁業中心の社会から工業中心の社会へとシフトし始めた時代です。それまでは家族中で農業をしていましたが、この時期石炭掘りの仕事や工場へと働きに出る者(雇用者)が増えていきました。 そして雇用者同士が結婚し子どもを育てることになる。農業であれば生まれた子どもを田んぼのあぜ道など父母の目の届くところで遊ばせ働き続けることが可能でしたが、工場労働者となるとそれはできませんので、女性が家庭に入り家事育児に専念するという、専業主婦が誕生しました。ここから女性たちの生き方・働き方が変わっていくことになります。日本の場合ですと、19世紀終わり頃から20世紀初頭(明治時代後半から大正時代)がそれにあたります。 わが国の歴史を見ると、全人口に占める第一次産業従事者は明治初頭で9割、半ばで8割、そして1950年(昭和25年)には5割まで減少しました。1960年で3割、1970年で2割、1980年で1割。1995(平成7)年には、とうとう1割を割り込み6%。つい150年前まで9割を超えていたにもかかわらず現在では数%しかありません。その大転換期は、「大正時代」と「戦後の高度経済成長期」の2つでした。 特に戦後の高度経済成長期には、農村の次男・三男だけでなく長男までもが農業者をやめて雇用者となっていきました。そのようにして、サラリーマンの夫と専業主婦という夫婦のあり方が広がっていったのです。 また社会的にも、サラリーマンの夫と専業主婦の妻というスタイルが、憧れの存在となりました。農村部に生まれた娘たちは、「私は、おかあちゃんのように農家へなんて嫁ぎたくない。サラリーマンの妻になりたい」と専業主婦にあこがれ、田舎から都会へと人口の移動が加速していったのです。 人口流入の受け皿をつくるため、1955(昭和30)年日本住宅公団が設立され、翌1956年には関西で初めての団地が堺市の金岡に出現しました。この堺の金岡団地に住むことは、当時最もトレンディーなことでした。当時の若い女性たちの理想は、「サラリーマンの夫と団地に住んで、専業主婦になること」でした。 若い男性たちの理想も、「自分は妻を働かせはしない。自分の母親のように朝から晩まで休む暇なく畑仕事をしなければならないような働き詰めの生活はさせたくない。お味噌汁を作って自分の帰りだけを待っていてくれる妻をもちたい」でした。女性と男性の理想が一致したわけです。これには、当時(1950年代後半から60年代)続々と創刊された女性週刊誌も一役買いました。グラビアの構図は、団地の窓から可愛い赤ちゃんを抱いて「あなた、いってらっしゃい」とにこやかに手を振る妻、それに応えて「いってくるよ」と手を振るサラリーマンの夫、その妻のうしろには真新しい真っ白な電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビが並んでいるというものでした。これが世にいう「三種の神器」です。この「三種の神器」はまたたく間に行き渡り、次いで現れたのが、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」です。この3Cもすごい勢いで普及していきました。 |
女性の働き方 |
大正時代に生まれた「専業主婦」ですが、若い夫婦だけに夫の給料だけで生計を立てることは難しく、当時ほとんどの専業主婦は内職をしていました。わが国で内職が広がったときと専業主婦が生まれたときは、期を一にしています。当時の内職は動力ミシンを踏む縫製が主流でした。 戦後の高度経済成長期は、動力ミシンを踏む代わりにパートタイマーとして外に出て働き、家計を助けるという女性の働き方が広がっていきました。受け入れ先の企業にとっても、低賃金でしかも景気調節弁として利用できるパートタイマーの存在は便利なものでしたし、女性の側にも子どもが学校から帰ってくるまでに帰ってこれるという利点がありましたので、ここに両者のニーズが一致し拡大していったのです。いま、全女性雇用者の4分の1が、パートタイマーです。 |
近代化と高度経済成長の持つ もうひとつの顔 |
また、大正時代と戦後の高度経済成長期という2つの時代は、子育てをめぐる問題が顕在化していった時代でもあります。大正時代には、多数派は農業でしたが、専業主婦となり内職で動力ミシンを踏み家計を助けるという女性たちの生き方、働き方が少しずつ広がっていきました。 農業ならば、子どもが小さい間は田んぼのあぜ道など目の届くところにおいて、ときどきおっぱいをやりながら農作業をし、少し大きくなれば子ども同士の集団で遊ぶ。また、農業社会というのは地縁血縁社会ですので、親類縁者やそれ以上の付き合いのあるご近所さんなど、多くの大人たちの目で子どもたちは見守られ育てられていました。 しかし、大正期の近代化の中での子育ては、家の中という閉ざされた空間で、生みの母がひとりぼっちでする子育て。家計を助けるため動力ミシンを使って内職をする母たちは、危なくないように、動き回るわが子を柱にくくりつけざるをえませんでした。 このような環境のなかで、子どもたちに言葉の遅れや、情緒の不安定、無表情などの問題が指摘されてくるようになります。この状況に強い憂いと危機感を持った児童文学者の鈴木三重吉らが中心となって、グループ「赤い鳥」を立ちあげました。 「赤い鳥」のメンバーたちは、子どもたちに絵本を読み聞かせ、いっしょに歌を歌い、こうした問題に対応していこうとしました。作詞:西條八十、作曲:山田耕筰の名コンビで今でも歌い継がれる多くの童謡がつくられたのは、大正時代のこの時期です。また、メンバーのひとりであった芥川龍之介は、親が子に読み聞かせるようにと童話「蜘蛛の糸」を書き下ろしました。これが、日本の近代化が進んだ大正時代のもうひとつの顔です。 |
子育てをして初めて知った 「子育て」の大変さ |
戦後の高度経済成長期は、児童虐待が顕在化していった時代でもありました。夫不在の密室の中のひとりぼっちの子育て。くる日もくる日も母と子だけの生活がもたらす閉塞感。核家族化による祖父母の不在。都市化がすすむなかでの地域のつながりの希薄化。 私も大学院を休学して、専業主婦として子育てに専念しました。くる日もくる日も母と子だけの生活。私は専攻が教育学でしたので、修士課程では教授の代わりに母親学級(現在は両親学級)で講師もしました。本当に申し訳ないことですが、あのとき私の話を聞いてくださったお母さん方には何ひとつお役に立てることは言えていなかった。それがわかったのは、実際に私が子育てを経験してからでした。 教科書には、「子供が泣くには理由があります。」と書いてあります。お腹がすいているのか? おむつが濡れているのか? だっこして欲しいのか?「それは母であればわかる」と書いてありました。でも、とんでもない、そんなことわからないんです。おっぱいもあげたし、おむつも替えた、だっこもしてる。考えられることは全てやった、でも泣き止まない! どうして、あんたはいつまでもいつまでも泣くの!と涙がこぼれました。教育学を専攻し母親学級で講義した私にとっても、教科書に書いてあることと現実とは、かけ離れたものでした。 母がわが子にしてあげられる最大のプレゼントは、乳幼児期から小学校期にかけて、子どもにできる限りたくさんの人間関係を用意してあげること、と言われています。子どもを取りまく多くの友だちであり、祖父母、親類、知人、近所の人々です。多くの人間関係のなかで育った子どもは、思春期になったとき、「ちがいを認め合う」許容度が高くなると、言われます。思春期に問題を抱える子のなかには、親以外の大人を誰も知らない、という場合も少なくありません。 同じ時期、子育て期が終わった妻たちのなかで、アルコール依存症が問題となっていきました。あれだけ手をかけて精一杯の愛情を注いだわが子は勝手に離れていく、夫は日本の高度経済成長を支える企業戦士として朝から晩まで働き詰めでいない、この前の夫婦の会話がいつだったのか、何だったのかさえも思い出せない、やっとの思いで手に入れたマイホームには、もはや守るべきものは何ひとつないと気づいたときの途方もない空しさ。「空の巣症候群」といわれますが、そんなとき何気なく一口呑んでみた料理酒が気晴らしとなり、やがて深みに。現在アルコール依存症患者の1割以上が女性でありなお激増しています。 一方、夫はというと、現役時代は企業戦士として朝から晩まで働き、趣味もなく、休日にすることもなく、地域に友もなく、子育てにも関与せず、そして定年後は日がな一日家にいて、粗大ゴミ、産業廃棄物、ぬれ落ち葉族と言われる。60才代で妻と死別した夫の平均余命は1.5〜2年という統計もあります。一方、60才代で夫と死別した妻の平均余命は何ら変わりません。つまり、妻は夫が死のうが生きようが、全く関係なく生きるところまで生き続ける。これが高度経済成長期のもうひとつの顔です。 |
サラリーマン社会から次なる時代へ |
現在の自殺者数は、一昨年で34,000人、昨年は32,000人です。そのうち7割が男性、しかも働き盛り層に限定すると8割以上が男性です。交通事故による死者が、7,500人弱ですので、毎年毎年30,000人を超える人が自ら命を絶つ、ということは大変なことです。 働き盛りのときは過労死、または過労自殺まで精神的に追い詰められ、定年後は地域に友もなく、趣味もなく、することもなく、妻に先立たれると1.5〜2年でその生涯を終える。男性は男性で、問題を抱えています。 こうした状況のなかで、社会はいま「次なる新しい働き方、生き方」を模索し始めています。これまでのような「夫は企業戦士として朝から晩まで働けばいい」、「妻は専業主婦として、銃後の妻として支えればいい」という役割分担は、高度経済成長期には効率的に機能した面もありますが、もはや時代とあわなくなっています。 女性も働けばいいといった単純なものではありません。働く女性のなかには、家庭と仕事に介護も加えて、二重三重の負担となっているケースも少なくありません。家事・育児や介護を女性だけが担っている限り、男性と同じスタートラインには立てません。女性にだけ時間的制約があるため補助的な仕事しかできず、従って収入も男性に比べ低くなってしまいます。女性の平均賃金は現在、男性の67%で世界最低レベルです。 このような問題が顕在化し指摘され始めたのが、1980年代から1990年代以降の中低経済成長期です。高度経済成長期の終身雇用、右肩上がりの年功序列型賃金制度だけではもたなくなってきた時期です。いまフラット&ワイド型賃金の導入が言われています。簡単に言いますと、「フラット:若くても、年とっても年齢に関係なく、今働いた分だけの賃金」、「ワイド:同じ年齢、同じ経験年数でも成果により賃金差を幅広く(ワイドに)する」といったモデルです。 また個人の働き方も多様化しています。様々なスキル・知識を身につけた専門職(エキスパート)であっても、管理職(マネージャー)とならない限り賃金が上がらない現行のシステムが行き詰まっていることは確かですし、そのことは県庁組織においても課題です。 いろいろな働き方が既に出てきています。働くことの多様化、賃金体系のフラット&ワイド化が言われる中で、私たちのこれからの働き方はどうあるべきか、が今問われています。 |
人口減少問題が問うこと |
戦後の高度経済成長期を経て、平均寿命と出生率の2つが大きく変わりました。現在の平均寿命は男79才、女86才です。つい80年前では男45才、女47才が平均寿命でした。男女とも50才に足りません。朝から晩まで農林漁業で働き詰めに働いて、子どもを7〜8人もうけ、末っ子がまだ幼いうちに上の子たちに後を託しその生涯を閉じるというのが、ほとんどの日本人の一般的な人生でした。このようなライフコースが、ついこのあいだまであたり前でした。それが、ここ数十年で激変したのです。 次に出生率ですが、同じく80年前のそれは4.75でした。現在は1.289です。出生率は2.08で人口が維持できます。このままでは世代がひとつ代わるごとに人口が3分の1ずつ減るといわれています。わが国の総人口は今1億2,700万人ですが、このまま推移すると、今世紀半ばには1億人を下回り、今世紀末には4,000〜6,000万人にまで減少すると想定されています。100年を待たずに人口が3分の1〜2分の1にまで減少する社会をどう感じますか? さらに4,000〜6,000万人の状態が維持できるのならまだしも、そこから数百年で、このままでは日本の人口はゼロになるということです。 |
これからの社会をどうしていくのか |
今のままでは、「子育て」と「仕事」の両立支援は難しいままです。両立しやすい社会の実現が急がれますが、それには父親の家事・育児への参加をすすめる必要があります。「男も家事・育児を半分持て!」ということではなく、「子育て」という最も人間らしい営みを男性たちも分け合おうよということです。行政においては、法制度の整備が急ピッチで進んでいます。2003(平成15)年には「次世代育成支援対策推進法」、「少子化社会対策基本法」が施行され、国は結果を毎年フォローしていきますし、2004年12月には「子ども子育て応援プラン」が発表されました。これは、今のような「生みの母ひとりが孤立した家の中で背負う子育て」から、おとうさん、おじいちゃん、おばあちゃんなど家族みんなでやっていたときのように、また、村中の子どもの名前を、村中の大人たちが知っていて地域社会全体で子育てをしていたときのように、いろいろな人たちと一緒に子育てができる社会へと変化させることを目的としたものです。 何故いま、そのようなプランが推し進められているのでしょうか。それはこれからの5年間が20代後半から30代の女性が最も多い最後の5年間にあたるからです。この最後の5年間でわずかでも出生率を上向かせないとわが国は1世紀待たずに人口が3分の1〜2分の1にまで減少することになります。 減少する出生率を上げること、また、少なくなった子供たちを虐待・いじめ・自殺などから守り、たくさんの人間関係の中で育て、「子育て」が喜びと受けとめられる社会をつくっていくことが今急がれます。 |
ユニバーサル社会 〜誰もが社会の担い手に〜 |
人口減少社会においては、いまのように「社会にお世話になる人」「お世話する人」といった2極の構図は成り立ちません。いえ、「もたない」と言った方がいいでしょう。ではどうすればいいのでしょうか? それは、これまで周辺労働力あるいは労働力ではないとしてしか位置づけられてこなかった人たちを、労働力として活用していくことです。そのことは、同時に、しごとを通しての生きがいづくりにもつながっていくでしょう。誰もが社会の担い手となる社会、それがユニバーサル社会です。 2003年6月、参議院において「ユニバーサル社会形成促進に関する決議」が、満場一致で議決され、兵庫県では2004年4月に、全国で初めて「ユニバーサル社会課」を新設しました。 |
−女性の働き方− |
女性の平均賃金は男性の67%、全雇用者に占める女性雇用者の割合は4割ですが、女性管理職は8.9%、因みに米国は45.1%です。農業では、夫が雇用者として働いている場合も多いため、6割を女性が占めているにもかかわらず農協女性役員は0.6%。労働組合では、女性組合員の占める割合は27%ですが、組合女性役員は7%しかいません。女性たちが基幹労働力として決定の場へ参加できる社会をつくることが大切です。 |
−高齢者の働き方− |
65才以上の一人暮らし世帯は20年後には現在の2.2倍の680万世帯になり、75才以上の一人暮らし世帯は現在の3倍にあたる422万世帯となる見込みです。たった20年でこれほどの高齢社会が到来します。 そのような状況下では、いまのように高齢者の方を「一方的に社会から助けてもらう存在」として位置づけることは、支える現役層が激減していくのですから、大変難しくなります。医療が発達し平均寿命も延びていますので、皆さんお元気です。これまで培ってきた知恵・知識・技術・伝えるべき伝統など、様々な分野でその力を活かし続けてもらえるような仕組みづくりが必要です。そのことは、高齢者の方々の生きがいにも必ずつながっていくにちがいありません。 |
−障害者の働き方− |
日本の全人口の5%が障害者の方です。その家族や、授産施設や作業所などで毎日障害者の方と接する方々を含めると、20〜30%になります。今日携帯電話のメールはごくごく一般的なものとして扱われています。この携帯電話メールが、会社の若手開発メンバーから提案されたとき、事業計画を承認する取締役会議では、「こんなものは駄目だ。売れるはずがない」と一蹴されました。大体どこもそうでしょうが、経営会議に出てくるような偉い人は、すでに老眼になっている方が多いですし、しかも、そうした方々にとって小さな携帯電話の上で指を忙しく動かし文字を打つことは至難の技です。しかし若い開発者たちはあきらめず粘って、モデル的に地域をいくつか選びモニタリングすることを認めてもらうまでこぎつけました。始めてみると、爆発的に利用者が増えている地域が出てきました。何故?と調査してみると、その地域には障害者の施設があったのです。聴覚障害の方などとコミュニケーションをとる手段として、その家族、指導員、知り合いの方たちが、これは便利だと、口コミで広げていたのです。そして今携帯電話にメール機能が当然のごとくついています。そうした面から見ると、障害者の方、その家族の方また支援している方は、膨大な数のユーザー層でもあります。 さらに、IT化が進んだ社会では身体障害というのは、その部分を機器で補うことができれば、例えばインターネットには全く同等に参入することができます。単に「支援してもらう人」という位置づけは、適切ではありません。兵庫県内に授産施設・作業所が450ほどありますが、従来は、そこでつくる製品は、バザーなどで細々と売られていました。それでは、収入は限られます。 私たちは「どうしたらもっと売れるのか」「どうやればもっと収益をあげられるのか」という視点から、市場で流通できる質の向上と、販売ルートをつくることを考えました。いま授産施設や作業所でつくられる商品、例えばクッキーやパウンドケーキなどは一流シェフの指導を受けていますし、包装も一流の包装会社の指導を受けています。また、炭石鹸は環境問題への取り組みのひとつとして、「環境にやさしい」を売りにしてきましたが、手づくりですから、形は少しずつちがってきます。名刺の印刷も、少しずれることもあります。 従来は、「だから、大量の受注は受けられない」と思いこんでいました。でも、そこに商品価値をつければ、「ひとつひとつ違う、だから意味がある」ということになります。SMAPの「世界にひとつだけの花」ですね。炭石鹸をひとつひとつ違う包装紙で、キャンディーのように可愛らしく包装して、「ひとつひとつ違う、たったひとつのもの」を売りにしました。 次に販売方法についても新しい手法を取り入れました。いま楽天さん、フェリシモさんと組んで、インターネットや通販を使った多角的な販売に力を入れています。売上は順調に伸びつつあり、障害者の方が手にする給料は、施設によっては3倍から4倍に増えました。県は、この取り組みの技術指導者の派遣やコーディネーターの人件費に、予算を組んでいます。でも、この試みも当初庁内からは非常に反対を受けました。県が個別企業と手を組むということは前例がなかったためです。徹底的な情報公開をテコに、行政も個別の企業やNPOと手を組む時代に入ったということです。 このように、人口減少社会は、すべての人が社会の担い手となるユニバーサル社会を必然化します。一方的に支援される側の人がいる社会というものは、もはや成立してゆけませんし、また誰もが支援する側になったり支援される側になったりということこそが、全ての人にとって自分が社会に貢献している手応えを得て、生きる居場所をもつことへとつながっていくのではないでしょうか。 |
持続可能な財政制度へ |
人口減少社会がもたらすもう一つの問題は、財政問題です。江戸時代の江戸のまちの人口は100万人でした。住民の数は60万人程度で、武士とその家族がそのほか40万人いましたが、こちらは支配系統が違いますので、いまの東京都庁にあたる町奉行所は住民60万人を見ていたことになります。 いま60万人都市となると行政職員は相当数います。しかし江戸のまちでは、60万人の住民に対し町奉行所の役人は300人程度しかいませんでした。お触れの立て看板を出したり、人別帳を作ったり、行き倒れの人の世話をしたりという行政事務は誰が担っていたかというと、江戸のまちに約2万人いたといわれる大家さんたちでした。大家さんたちは5人ずつ月当番を組んでボランティアで、いまの集会所にあたる「番屋」に詰めて、人々の相談にのったり、事務をしたりしていました。おおやけ(公)という言葉はおおや(大家)からきているとも言われています。 また、昔は道普請というのがあって、道をつくるために地域の人が人手も出していましたし、昭和20年代あたりまでは「地域のことは地域でやる」という習慣がありましたので、家の前の落ち葉などは自分たちで掃除することがあたり前でした。しかし、このような暮らしも、ある時期を境に変わっていきます。 高度経済成長期の国・地方自治体は、企業の高収益に支えられて税収も増えていき、いわゆるハコもの行政といわれる公民館や市民センターといった建物の建設が、急ピッチですすんでいきました。市民も、家の前に落ちている落ち葉さえも市役所に電話するということになっていきます。何でも行政がやってくれる、このような構図は高度経済成長期のモデルで成り立っていますので、いまとなってはもはや継続していくことはできません。民と官がともに、地域のみんなのこと(公)を担う時代へとシフトしていかざるをえません。 兵庫県でも2003(平成15)年に「県民の参画と協働の推進に関する条例」を施行しました。福祉の領域でも、行政が何もかも決め県民は従うだけという従来の措置型から契約・選択型へと動いています。例えば2000(平成12)年に始まった介護保険制度は、その端的な例です。介護保険は自己負担10%、公費45%、保険料45%の割合で自助・公助・共助を組み合わせた仕組みとなっています。その選択を応援する専門家を「ケアマネージャー」と呼んでいます。2003年に始まった「障害者支援費制度」も同じく、障害者やその家族の選択を応援する仕組みとなっています。 |
企業のサバイバル |
グローバル化の社会の中で、企業の生き残りを賭けた闘いは厳しさを増しています。グローバル化社会では、一流企業があっという間に消えたかと思うと、つぶれかかった企業が息を吹き返し、これもまたあっという間に世界の一流企業に登りつめるといったことが起こってきます。 消えた方では、私の学生時代一流企業であった山一証券や日本長期信用銀行があります。あっという間に消滅してしまいました。他方、登り詰めた企業の代表格はインテルやサムスン電子と言えるでしょう。 1)リニアモデルからターゲット・ドリブン型へ 2)企業間コラボレーション 3)ダイバーシティーと嫉妬への断罪 4)ソーシャル・キャピタル(関係性資産) 5)CSR(企業の社会的責任) |
働く者は |
このように企業のサバイバルは、かつて経験したことのないほど時代が激しく変動しグローバル化する中で、しかもいままで以上のスピードが要求される中で行われています。そのような状況下で働く私たちはどうすればいいのでしょうか。
1)ワークシェアリングからワークライフバランスへ 3)働きがい、生きがいへ |
私たち一人ひとりは |
これからの私たち1人ひとりにとって大切なことは、企業で働いていようと、行政で働いていようと、同じであるように思います。前例のない時代ですから、「前例にとらわれない」、「固定的な意識にとらわれない」、「タテ割りにとらわれない」は絶対不可欠な条件です。また仲間集団だけでなく、その集団を超えたところで広げていく「信頼に裏打ちされた人間関係」=ソーシャルキャピタルが、次の時代を切り拓いていくのではないでしょうか。 このように社会や環境が大きく変化する中で、では私たち一人ひとりは、どのように「働く」ということを考え行動しなければならないのか。最後に6つの点をみなさんにお話したいと思います。 1.「自らが生活者であること」 2.「自分がやること」 3.「何回でもやり直せること」 4.「持ち運べる人間関係を持つこと」 5.「何のために、この仕事をするのかを絶えず問い直すこと」 6.「具体的な成果に結びつけること」 |
最後に |
年上の方には、若い人たちの無謀さを受けとめる懐の深さも持っていただきたいと思います。いうなれば、かつての「ご隠居さん」のような役割です。若い人はもっと前向きにアグレッシブに、年配者はもっとウィングを広く見守ってやる。出る杭が打たれそうになったら、やってみたらいいじゃないか、と防波堤になる、そんな人がいれば、若い人たちは、思いきって冒険できるでしょう。 最後に、「今というときを楽しんでください」、「ちがいを楽しんでください」。あまり難しく考えずに。真剣に生きることは当然ですが、決して小さな世界に陥らないで、小さなことにつまづいても、人が自分の意見に賛成してくれなくても、思い詰める必要はありません。最近、企業でも行政でも精神的に追い詰められ心のケアを必要とする人が増えています。もっと気持ちに余裕を持って、自分とちがう他人の意見を楽しんでみてください。「Agree to disagree:自分と意見がちがうことに賛成する。」みんなが自分の意見に賛成してくれず、ちがうからこそ、おもしろいといえます。 もっと広い目で見て、ちがいを楽しむ、今を楽しむ、何回でもやり直せるとハラをくくって、壁があればあるほど「それを乗り越えるプロセスを楽しめるじゃないか」と壁があることを喜ぶ。そんなふうに考えてみませんか。 |
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