「労働運動」から視た
「働く」ということについて
「働く」ことの多様性を包み込んでいくのが
労働組合の役割である
JAMナブコ労働組合
執行委員長     
 柳 田   忠


エライことを引き受けてしまった…

 みなさん、こんにちは。ナブコ労働組合の柳田です。しかし今日はエライことになってしまいました。私は自分の言ったことややったことを、あまり後悔するタイプではないのですが、今日の私は後悔のかたまりです。先日、ある会議で関谷さんと一緒になった時に、「柳田さん、今度うちの若手たちに『働く』ということについて話してくれませんか」と頼まれ、つい安請け合いをしたのですが、あとからよくよく企画の主旨を聞くと、テーマが『「労働運動」から視た「働く」ということについて』とは何て難しいテーマなんだろうか。「エライことを引き受けてしまった。」と後悔したのですが、しかし、いまここに立っている限りは、みなさんの期待に添えるかどうか不安ですが精一杯努めさせて頂きます。


君にとって一番大切なものは何だ?

 では、まず最初にこちらから質問させてもらおう。「今、あなたにとって一番大切なものは何ですか?」。誰から答えてもらおうかな。じゃ最前列の一番右に座っている君から。(最前列に座っていた6名からは「ぼくは結婚したばかりなので一番大切なのは妻です」、「仕事です」、「健康です」、「ぼくも最近結婚したのですが、一番大切なものは妻ではなく薄くなってきた髪の毛です」(一同大爆笑)など様々答えが返ってきた。)
  この質問は、私が毎年ナブコの新入社員研修のときにしているものです。今のみなさんと同じような答えが返ってきます。ある人は「家族」と言い、またある人は「仕事」という。その他にも「お金」、「健康」、「出世」、「友人」、「愛」といろいろな答えが返ってきます。そして、そのことについて夜更けまで話し合ってもらいます。自分の考えをぶつけてもらいます。いろいろ有る、いや、いろいろ有って良いと思う。ただひとつ思うのは、どれをとっても大切なものだが、どれひとつとして「これがすべてだ。これだけが有れば良いんだ」というものは無いと思う。すべてに優先されるものは無いんじゃないかな。いろんなことが互いに絡みあって重なり合って成り立っているんじゃないかな。そのひとつが仕事だと思います。



自分の一時間あたりの賃金を知ってるか

 次に「仕事」について考えてみましょう。みなさんは自分の価値というのが分かっていますか。例えば、自分の1時間あたりの賃金を知っていますか。(…一同無言)
  年収を協約上の年間総労働時間で割った答えがそれです。実際には法定内および法定外福利厚生費などを勘案する必要があるのでこれほど単純にはいかないが、ここでは単純にしておこう。平均の月例賃金を30万円と仮定する。これが年間12ヶ月分と一時金の5ヶ月分で計17ヶ月分。この年収を年間総労働時間で割ると約2,700円になりますね。みなさん方の職場にも正社員ではないパートの方が働いていると思います。パートの賃金はいくらぐらいだと思いますか。兵庫県下だと、だいたい時給800円程度です。自分の仕事とパートの方の仕事を比較したら、特定の専門的な仕事は別としてパートの方のほうがよっぽど一所懸命働いているのではないでしょうか。私には正社員はその待遇にあぐらをかき自己の価値を上げる努力を怠っているように見えます。ハローワークへ行って働き口を探してみてください。40才も越えれば特殊な技能、技術が無ければ月給16万円あったら良い方です。職種も限られています。それが現実なんです。



人を育てることを怠ってはダメだ

 近年企業は、激化する国際競争の中で生き残るために専門職は別として正規採用を抑え、パート・派遣・外部委託など様々な形態で安い賃金を採用する傾向にあります。更に、それでも対応出来ない場合は生産を海外へシフトしています。このままで行くと日本国内に雇用が無いといった誠に暗い未来が訪れるのではないでしょうか。誰もがそんな未来は望んではいません。では、そうならないためにはどうすれば良いのでしょう。私は個人個人がもっともっと自分の労働価値を高めることが必要だと思います。昔は社会に出てからの教育というのは会社が行うものでした。つまり、教育を会社に「してください」とおねだりしているだけでした。私も「何で会社の仕事のために自分の時間使って、自分の金使ってせなあかんねん」と思ってました。それが、ここにきて「間違いであった」と痛感させられました。ある専門業務のために会社は外部から人を引っ張ってきました。私は何故わざわざ外からなんだ、内にいるだろうと思い社内で適当な人材を探しました。でも居なかった。出来そうな者が見あたらなかった。外部の力を借りるしかなかった。そんな現実をみて情けなく思った。
  従来、会社は定期採用者を一から教育した。でも今はそんな時間の余裕も費用もない、また必要もない。何故なら、わざわざ教育しなくても育てなくても必要な人材は、中途採用、外部委託などで対応できるからです。
 しかしその一方で個々人は、自らのスキルアップのために努力してきたか、自分を磨いてきたか、労働の価値を上げるために何かしてきたかと問われると残念ながら「努力を怠った」と言わざるを得ないと思う。本来、レベルアップとは自分自身のためのもの、努力して身につけた技術・技能・知識をフルに使って仕事する。その仕事が、会社の中では「あいつがいてくれたから納期に間に合わすことができた」、「あいつがいてくれたから新製品を開発することが出来た」、「あいつがいてくれたから新規のお客さんを掴むことができた」と自分の働きを認めてもらうことになり、社外では何らかの形で社会の役にたつ。それが働き甲斐なんです。個人個人が能力のレベルアップをし、付加価値を高める、そこから生み出される製品に付加価値を転嫁する。その製品は他社に負けることのない高品質を持ちながら競争力のある価格で市場に出される。そこから利益が生まれる。一人ひとりの頑張りが集まって全体として成果が出る。そして労働組合は経営に対し正当な利益の配分を求めることが出来る。全体の労働価値を高く買わせることが出来るのです。企業が適正な利益を上げ、それに見合った適正な賃金・一時金を支払うことで個人の可処分所得が増え個人消費が旺盛となり国内景気を下支えして国の財政が潤う。それが繋がって我々労働者の将来に不安のない社会を築き上げることが出来ると考えます。こんな大きな物語も、各職場で各人がしっかりとした高い技術・技能・知識に裏付けされた付加価値の高い自社製品を生み出すことから始まると思っています。
  「働くことの目的はこれだ」という正解は無いように思う。みんなそれぞれ大切なものが違うように価値観が多様なのだから。でも、それで良いと思います。
  しかし、これから「働く」ということは今までとは違う。いくら汗をかいても結果を出さなければ、成果を上げなければ働いたことにはならない。「動く」と「働く」は違います。もっと真剣に「働く」の中身を考えなくてはならない時期にきたように思います。


「ソフトボールの柳田」が労組役員に

 私は縁あってナブコ労働組合の執行委員長をさせて頂いております。早いもので組合専従20年を数えます。組合に関わり始めた頃はこんなに長く組合役員をやることになるとは夢にも思いませんでした。
  私は昭和40年に当時の日本エヤーブレーキに入社し、それから暫くは現地工事の仕事に従事していました。神戸製鋼所さんの連続鋳造設備や熱延設備、また新日鐵大分さんの熱延設備などに関わらせて頂きました。あのころは本当に大変だった。けれども充実していた楽しかった。
  次に西神工場(油圧機器製造部門)へ呼び戻され工場内勤務となりました。その当時、我が社では、職場対抗のソフトボール大会が盛んでした。私の職場はといいますと、ソフトボール大会となると他職場から鼻で笑われるような情けない存在でした。私は元来の負けず嫌いですから勝ちたかった。いや勝つことは無理でも一矢報いたかった。そして私は同僚たちに向かって「悔しくないのか。一回戦だけでも勝とうやないか。見返してやろうやないか。」と発破をかけ何とか9人集めました。次は練習です。早朝、人目に付かない工場の陰で練習しました。練習といってもバントと走塁、この2つだけを必死でやりました。
  下手くその付け焼き刃ですから、最もバットに当て易い攻撃、これがバントだったんです。このバントも思うように出来ずイライラしました。「ええ格好のバントなんか要らん。ボールの正面に顔もっていけ。それで顔の前にバット出せ。運良かったらバントできる」なんて風でした。バントが出来るようになったら次は走塁です。何せバントしか出来ないチームですから、点を取るにはランナーは打者がバントして球を転がしている間に、2塁ではなく3塁までいくような戦術しかないと思ったんです。くる日もくる日も早朝から人目に付かないところでバントと走塁の練習。同僚たちも口には出さなかったけど嫌やったやろうなと思います。そして迎えた本番当日、一回戦の相手は野球部員を5人揃えた絵に描いたような強豪チーム。こちらはというと一番から九番まで全員バント。腹抱えて笑われました。しかしバントの成功率は予想通り高かった。何故ならソフトボールの塁間というのは短く必死で走ればセーフになることが多いのです。そしてランナーが出れば打者はサインプレーでまたバント。ランナーは2塁を蹴飛ばし一気に3塁へ。相手チームも負けじと大きいのを打ち返す。ゲームは追いつ追われつのシーソーゲーム。大接戦の末、一回戦を突破したのでした。勝ったことでみな自信が持てました。そして「次も勝ちたい」という意欲が湧いて来ました。それからは自発的な熱のこもった練習となり、なんと勝ち続けて優勝してしまいました。信じられなかった、あれは奇跡でした。このことが私の体感した「みんなが同じ目標に向かって力を合わせたら必ず実現できる」の最初でした。
  この“へんてこ”なチームのことが社内報に載ることになり、チームを率いた私がインタビューを受けました。当時、私も若かったので格好の良いことを幾つかぶち上げました。
  これが、きっかけで「柳田」という名前が社内中に知れ渡ったのでした。当時の組合執行委員というのは人気投票的な要素も有りまして、全工場で知名度が無いと当選は無理でした。私は「バントの柳田」で有名になっていましたので、「やってみないか」とお誘い受け立候補した訳です。あれから何年経つのでしょう。本当に人の「縁」とか「人生」とかいうものは何処に転がっていて、何処に繋がっていくのか判らないものだとつくづく思います。


中国を視て・さわって・感じて来い

 我々ナブコ労働組合も、みなさん方の神鋼環境ソリューション労組と同じく、教育、特に若手の教育は非常に重要なことであると位置付けています。この2年間で40名の若手執行委員および職場委員を中国を中心とした経済発展著しい地域へ海外研修に行かせました。
  「今、日本企業は厳しい国際競争の中で戦っている。中国では日本の10分の1の賃金で、ほぼ同じモノを造る。将来は日本国内の産業にとって大きな驚異となる。」というようなことは、テレビや雑誌などでよく見聞きするので殆どの人は知っていると思います。しかし知っているだけでは駄目なんです。もっと強く、深く、我が身で感じないと。そのためには、やはり現場を視ることが一番だと考えています。自分でその文化に触れること、また、いろいろな企業を視ること、例えば中国なら国営企業・外資との合弁企業・外資企業の3種類あります。
  いろいろ視て欲しい。行って、視て、触ってきて欲しい。そして始めて深く強く感じることがあるはず。そこから「自分達はこれから何をすべきなのか、今自分には何が出来るのか」を考え始めるきっかけになるはずです。

若手役員を中心とした中国視察団

  では何故このような取り組みをしているかと言いますと、私は常々このような教育は会社が行うべきことだと主張して来ました。例えば、若い者5〜6人をテーマを与えず2年ほど放浪させてみる。当然、語学も身に付くであろうし何より自分が体験することで、今、世界市場で何が求められているのかが座学ではなく体で感じることができる。そんな生きた教育を要求してきました。そして会社が動かないなら、まず組合からと決心し行動を起こしたのです。でも研修に行かせた職場委員には悪いと思う。何故なら会社からの海外研修なら、渡航支度金、パスポート取得費、出張手当など面倒みて貰えるが、組合からだとそんなものは一切ない。パスポートすら自費で取って貰い、慰労休暇を遣って行って貰っています。本当に済まないと思う。でも、このことが、これからの本人のために必ず役に立つと思い行かせています。研修には特にレポートは求めていません。感想は職場の朝礼などで自発的に述べているようです。参加者は「自分たちはこのままじゃ駄目だ。今はまだ良い、でもこのままでは将来負ける。もっとしっかりしよう。」と感想を言っているらしい。特に聞かなくても自然と耳に入ってきます。
  また、職場委員会で報告させると、行く「前」と「後」では話す内容が変わっている。成長が見てとれる。本当に良い勉強をしてきたなと感じます。
  年間20人の海外研修ですから旅費だけでも相当なものとなります。「どのようにしてこの費用を捻出すればよいか」を考え続けました。
  ナブコは山形・東京・神戸とに大きな拠点があります。月に一度の職場委員会には各拠点から5〜6名の委員が出席します。遠隔地からの出張となると賃金補償も含めるとかなりの額となります。そこで各拠点を結ぶテレビ会議システムを導入することを考えました。初期投資は必要ですが数年で取り戻せると踏んだのです。組合員の理解と賛同を得て、システム導入の実現とテレビ会議を会議成立要件とする規約変更の実現を図ることができました。このような工夫をしてなんとか費用を捻出しています。今ようやく教育に取り組むことが出来るようになりました。今からお話ししますが、当社は数年前に大きな危機に直面しました。あの危機を全員の力を合わせ乗り越え、今やっと次の世代の将来のための教育を始めることが出来ました。

テレビ会議で開催される各種会議

みんなの力で10億円の利益を
出そうやないか

 当社は2002年には2年連続の赤字、2年連続の無配という状況に陥りました。東証一部上場企業が2年連続の赤字・無配とは、どんな状態であったと思いますか。
  経営からは、賃金カット、福利厚生の一部凍結など12項目にわたる労働条件の引き下げが期間を2年として提示されました。そして我々は「雇用を守る」、ただそのためだけに苦渋の選択として全てを受け入れることとしました。但し、具体的な数値目標を立てることと、当初2年間の提案期間を1年で目標達成したなら、期間短縮することを公約するよう経営側に詰め寄りました。経営は応えてくれました。経常利益10億円出せたなら、全ての労働条件引き下げを解除すると約束してくれました。それから私たちの闘いが始まったのです。

みんなが胸につけた
ワッペンのデザイン
 まず最初に、執行委員は委員研究調査費を6ヶ月分供出しました。そのお金でワッペンを作りました。このワッペンは、これからの1年間、組合員全員が、この辛い思いを、この屈辱を忘れないために胸につけるもので、デザインも組合員から募りました。出来上がったワッペンは指で「10」を形づくったものでした。10億円のことです。経常利益10億円達成を組合員全員の共通目標としました。
  各職場を廻り理解と協力を求めました。いろいろな意見や要望が寄せられました。その中には、ある部署での経費節減目標に対して「たった500万円の経費節減のために、なんでここまで辛い思いをしなければならないのか」といった声もありました。私は心を鬼にしてこう言いました。「たった500万円! なんで『たった』なんだ。じゃ訊くが、ここの事業所の利益率はいくらだ。赤字じゃないか! 500万円の利益を上げるには、いくらの売上げが必要だ! 利益率が1%でも5億円の売上げが必要だ。今この状態で、その5億円の売り上げるためには、営業はどれだけ、工場はどれだけ頑張らなければならないと思うのか!」、「確かに夏期電力振替休日を導入すれば休日家族と一緒に居られない。それはわかる、わかるけれども今この危機を乗り切るためには考えられることは何でもやろう。やれることは何でもやろう。そこに落ちている500万円を拾おう」と。また、経費節減案を組合のチャンネルで各職場から出して頂きました。ありきたりの問題提起に留まらず、その提案用紙には問題提起とその解決策、そして費用効果まで記入して貰った。文句を云うだけなら誰にでも出来るから、そうはしたくなかった。そんな難しいものでしたが全部で800件(事業所毎の問題提起のため重複案件は1件にまとめる)を超える提案が集まりました。ありがたかった。みんなの真剣味が伝わってきて嬉しかった。
  また、このワッペン運動に共感した管理職の方々から「我々も参加したい、そのワッペンを分けて欲しい。」と申し入れを受けました。これもうれしかった。本当にうれしかった。しかし私は断りました。何故なら我々のやっていることとは、例えば、昨日までなら1回拭いて捨てていたウエス1枚を、使い方を工夫することで3回拭けるようにするといった本当に小さな小さなことの積み重ね、1円2円の積み重ねなんです。管理職なら100万円、200万円の節減策を考えてくれ、もっとレベルの高いところを視てくれ、もっともっと大きな節減策を出してくれ。それが出来る立場だろう。そう期待したからです。でもありがたかった。本当にうれしかった。立場は違えども同じものを目指していた、気持ちは一緒だった。1年後、経費節減も実を結び目標にはあと一歩であったが、経常利益9.7億円を達成しました。そして経営は公約どおり労働条件の引き下げを1年で解除してくれました。
  最短の1年で解除できたことは勿論ですが、私が何よりうれしかったことは、みんなが本気になって、力を合わせて困難に立ち向かえたこと。そして成果を出せたこと。そしてそのことが自信に繋がったことです。「本気になってやれば出来るんだ」と意識改革ができたことです。各人の職場で、また各人の生活の中で「やれば出来る」。これは近頃の世間では、いや、類に洩れず当社でも忘れられてきたように感じます。
  他にも労使間での経費節減提案は続きました。当時、大証と東証の両方に上場していましたが、大証の商いが少なかったため東証への1本化を提案し了承されました。また、三宮駅近くに本社ビルを借りていましたが神戸事業所内(西神中央)へ本社機能を移転することによる賃貸料の節約を提案し実現しました。事案によっては時間を要するものもありましたが組合からの提案・要望を会社は、きちっと受け止め検討してくれました。これは、「労使共通の目標を達成する」というコンセンサスがあったからだと思います。



いろんなやつが集まっているのが
労働組合なんだ

 当社は昨年10月、帝人製機と合併しナブテスコ株式会社として生まれ変わりました。統合後の売上高は1000億円、経常利益率10%超を達成しましたので、東証一部上場企業として市場から一応の評価を頂けたものと思います。統合効果は、これから益々出てくるものと期待しています。
  私は59歳になりました。これからの組合と会社の発展は、次の世代が担うものと考えています。これから先何十年も「自分達の組合」、「自分達の会社」として世話になっていく人達なのですから。
  私は、労働組合とは多種多様な価値観の集合体であると考えています。そこでは勇気をもって自由な自分の意見が言え、周りはその意見を真摯に聞く耳をもち、お互いが議論を重ねることができる、そして組合はその様々な意見を集約する。決して一方的な考えを押しつける場であってはならないのです。労働組合には、そのような寛容さ、懐の深さが求められます。そのような雰囲気なら自然といろいろな情報や意見が集まってくるはずです。これが無いと労働組合は終わってしまいます。そんな言い易い、聞き易い環境を作ることも組合の役割のひとつです。また自分達の働きの成果を賃金・一時金という形の還元だけではなく、職場環境の改善や教育へと投資するよう経営に対し提案することも、これからの労働組合の役割ではないでしょうか。
  我々は、あの危機を乗り越えた結果として意識改革のきっかけをつくることが出来ました。立派とは言えないかもしれないが、少なからず手本を見せることができたと思っています。これを維持発展させていく、生かしていくことは「これからの組合」であり「これからの経営」の使命です。これからも幾多の困難が降りかかって来るでしょう。しかし諦めないで欲しい。あのとき我々は車の両輪の如く労使一体となり、同じ目標に向かって進んだ。そして乗り越えることが出来た。その原動力は各職場の一人ひとりの頑張りだった。「やれば出来る」。みんなが信じることができた。お互いアプローチの方法は違いますが目標は同じはずです。会社は利益を出さないと存続できない。組合も会社が利益を出さないと労働条件の向上に向けて取り組めない。更に会社の存続が無ければ雇用の確保は叶わないのですから。

  今日は、私の経験に基づく話が中心になりましたが、どうでしたか。何かひとつでも面白いと感じたことがあれば是非今後の参考にしてください。みなさんの活躍を心から期待しています。
(文責:中村隆昭)

● 柳田 忠氏 プロフィール ●
1946年3月21日生 59歳
1965年 日本エヤーブレーキ株式会社入社
1978年 日本エヤーブレーキ労働組合執行委員
1986年 日本エヤーブレーキ労働組合書記長
1992年4月1日   日本エヤーブレーキ労働組合からナブコ労働組合に名称変更
1999年 ナブコ労働組合執行委員長〜現在に至る

〈外部団体役職〉
  JAM中央執行委員、JAM兵庫執行委員長
  連合兵庫副会長
  全労済兵庫県本部代表監事、近畿労金明石地区推進協副会長
  兵庫地方労働委員会委員
  兵庫地方労働審議会委員