第1次図書贈呈団
「みなさんの真心でモンゴルとの友好の架け橋を」
  神鋼環境ソリューション労働組合   
第1次図書贈呈団団長   
井 上 育 也


 5月29日(土)、私たち第1次図書贈呈団の6名は、ユニオン会員のみなさんのカンパ金などで購入した子供たちへの図書とともにモンゴルへと出発しました。成田経由でモンゴルの首都、ウランバートルに入った一行は、31日に週2便運行の国内線プロペラ機で、広大なモンゴルを1200キロ横断し、オブス県の空港に到着。さらにそこから約120キロ、草原の土道を4時間かけて車で走り目的地であるマルチン郡に到着しました。
 マルチン郡の小中学校での図書贈呈式、子供たちや先生とのバレーボール、長縄跳びといったスポーツ交流、遠く離れた日本からの一行に対するマルチン郡をあげての熱烈歓迎の模様や心温かいモンゴルの人々とのふれあい、緑豊かな大自然の様子などモンゴルでの8日間をお伝えしたいと思います。



「支援」から「交流」へ…
図書贈呈に至った経緯


 私たちユニオンのモンゴルとの交流。そのきっかけは、今から5年前の1999年5月に開催した第1回オープンハウスにさかのぼります。「環境」と「ボランティア」を二大テーマとして、同世代の会員が交流を図る場として取り組み始めたオープンハウス。記念すべき第1回目は、当時、兵庫県環境局長であった小林悦夫氏(現ひょうご環境創造協会副理事長)を講師として招き、「環境問題の昨日、今日、明日〜そしてあなたは」と題した講演を行っていただきました。この講演の中で、兵庫県がモンゴルでの大規模森林火災による復旧と地球規模でのCO削減のために植林活動を行っていることが紹介され、ユニオンの社会貢献活動としてモンゴルへの支援を行ってはどうかとのアドバイスをいただきました。早速、神戸市内にある民間のボランティア団体を訪れ、モンゴルの現状について勉強するとともに、私たちユニオンとして何が出来るのかについての検討を行いました。その当時のモンゴルでは、首都であるウランバートル市内に数千人の「マンホールチルドレン」と呼ばれるホームレスの子供たちがいて、この子供たちへの支援活動が世界各国から行われていました。わずか500名の労働組合に何が出来るのか。迷いや不安はいろいろとありましたが「まずは行動を起こそう」ということでその年の夏から、民間ボランティア団体であるアジア・アフリカ環境協力センターの行っている中古衣料品などの送付を中心に活動を開始しました。会員のみなさんから提供いただいた中古衣料品を3年間にわたり段ボール箱で数百個分送り、この団体が主催するボランティアツアーへもみなさんの代表として参加するなど、積極的な活動を展開してきました。しかし、昨年12月に開催された第1回総会において、「援助物資を送るなどの一方的な支援ではなく、『無理をせず心の通った交流を長く続けていく』という観点で、従来から交流のある日本・モンゴル民族博物館(兵庫県但東町)および在ウランバートル日本大使館関係者との連けいを図りながら、地方の小中学校等に対する図書贈呈を中心に進めていくこと」が確認され、今回の派遣となったものです。


いざモンゴルへ出発!


 前置きが長くなりましたが、5月29日(土)、大阪空港に集合した贈呈団の6名は、小角副委員長などに見送られ、成田経由でモンゴルの首都、ウランバートルへ出発することになりました。不安と希望を胸に、両手には、贈呈用として日本で購入した図書、組み立て式の本棚、お土産用の日本酒、ミニコンサート用のリコーダー、タンバリン、カスタネット等の楽器をもってモンゴル航空のチェックインカウンターへと進みましたが、機内持ち込み以外の荷物が、なんと重量オーバーです。超過料金十数万円を払える余裕もなく、なんとか機内持ち込みとし、搭乗手続きを行うことが出来ました。
 機内に入り、重量オーバーの教訓を胸に、6名はシートベルトをしっかりと締め、ウランバートルへ直行!と思いきや、離陸後、シートベルト着用のサインが消えるとともに、ソウルのインチョン国際空港に立ち寄るとのアナウンスが流れました。理由も告げられないままインチョン国際空港の端に給油をすることもなく、約1時間たたずむことになりました。謡曲と空手に加え、英語も堪能な山口さんが、フライトアテンダントさんに聞いても理由はわかりませんでした。


団長
井上育也くん

副団長
松原義昭くん

バレーボール担当
冷水真吾くん

謡曲・空手担当
山口浩之くん

日本文化紹介担当
黒田剛志くん

リコーダー(音楽)担当
棚橋 誠くん


小角副委員長らに見送られ元気に出発した派遣団のメンバーたち


デムベレルさんとの再会


 ちょっとしたハプニングで定刻約3時間遅れとなったものの、緑のカーペットを一面に敷き詰めたようなモンゴルの大草原を上空から眺めながら一行はウランバートル空港に降り立ちました。時間はすでに20時30分となっていましたが、緯度が高いこともあり、まだ日は落ちていませんでした。入国審査、税関手続きをすませ、入国ロビーへと進み、そこでは今回の図書贈呈のモンゴル側窓口となってくれたデムベレルさんが出迎えてくれました。「こんにちは」と固い握手をかわし、1年半ぶりの再会に何とも言えない気分になりました。


機上からは広大なモンゴルの草原が

デムベレルさんと奥さんのオユーンさん、お嬢さんのバイラーさん

 デムベレルさんは、モンゴルの日本大使館に勤務され、上級秘書官として活躍されながら、日本とモンゴルの親善協会の事務局を兼務されています。デムベレルさんとの出会いは、2002年11月に兵庫県の但東町にある日本・モンゴル民族博物館で開催された「但東フェスティバル」で金津館長から紹介いただきました。当時、但東町には、モンゴルから10数名の短期留学生を受け入れており、その引率の責任者として訪日されていました。
 デムベレルさんは、16歳から日本語を勉強し、モンゴルから日本への国費留学の第一期生として来日。以来、日本とモンゴルの橋渡しに尽力され、現在では仕事の傍らに「蒙日」の辞書を編纂されるほどの大の「日本通」です。ウランバートル市内のご自宅には日本製品がたくさんあり、テレビからはNHKのBS放送が流れていました。お嬢さんのバイラーは昨年まで、日本に留学した経験もあり、時よりモンゴル語の会話があるものの、私たちとの会話は当然、日本語であり、デムベレルさんのご自宅にいると「ここはどこ」と疑いたくなるほどでした。私が一昨年に訪問したときにお世話になった息子さんのバイサは、今も日本に留学しています。
 このデムベレルさんのご協力により、私たちは、ウランバートルから西へ約1,100kmにあるマルチン郡の小中学校へ図書贈呈を行うことができました。


ウランバートルからオブス県へは国内線プロペラ機で

マルチン郡をめざし草原のハイウェーをロシア製のミニバンで


図書贈呈式


 6月1日、図書贈呈式はマルチン郡の小中学校の講堂で行われました。前夜は、モンゴルでは歓迎を意味する雨と、6月では珍しい雪に見舞われ、現地の人々からは、「私たちと一緒に自然も皆さんを歓迎しています」との言葉をいただきました。図書贈呈の模様については、謡曲・空手担当の山口さんのレポートをご覧ください。

謡曲・空手担当 山口浩之
 図書贈呈式が行われた6月1日は、モンゴルでは「子供の日」として祝日となっており、学校は休みでしたが、贈呈式はこの「子供の日」に行われる8年制学校の生徒による文化発表会(合唱・民族舞踊・詩の朗読・カラオケ等)の冒頭の催しとして、マルチン郡の講堂で行われました。
 私たち図書贈呈団が日本より来蒙することは、この文化発表会の開催とともにマルチン郡の掲示板に掲示されており、開始時間には会場は子供からご老人まで約200名が集まり、立ち見は勿論のこと、会場に入りきれない人も出るほどの大盛況となりました。
 このように観客の皆さんの期待が高まる中で、私たち図書贈呈団一行は、モンゴル語の書籍150冊、日本語の図鑑など17冊、約50点の楽器類、本棚等々を入れた段ボール箱とともに入場しました。私は入場前、「折角日本から来たのに、学校休日のため図書贈呈式に観客が殆どいなかったら寂しいな」と考えていましたが、想像以上の会場の熱気にすっかり圧倒されてしまいました。
 入場後、贈呈用の本棚を組み立て、舞台の前に陳列し、贈呈団一同が舞台正面に着席し、贈呈式が始まりました。


舞台には贈呈団のメンバーと郡・学校関係者が

組み立て式の本棚に並べられた図書とリコーダーやピアニカ

会場になった群の講堂には子供からお年寄りまで超満員の人たちが

 冒頭、マルチン郡のバットゥモロウ郡長より、「子供たちだけではなく僻地での教育に取り組む教職員に対しても将来の投資につながる図書を贈呈していただき、マルチン郡及び子供を持つ親を代表して心から感謝します」と挨拶があり、対して図書贈呈団団長の井上事務局長から「今回は、第1次図書贈呈団として私たち6名がやって来ました。これからも、図書贈呈を通じ、みなさんと交流を深めていきたい。僅かなことしかできませんが、みなさんとの交流が、友好的に末長く続くことを心から願っています。」と挨拶を行いました。
 そして、贈呈目録の授与と花束の贈呈、次いで、贈呈団メンバー一人ひとりによるモンゴル語による自己紹介が行われました。この挨拶文は、内モンゴルから日本の大学へ留学しているスーホさんに事前にモンゴル語に翻訳してもらいました。翻訳といっても読むことも書くことも出来ませんので、カタカナに翻訳してもらいました。モンゴル語の発音は非常に難しく、くすくすと笑い声も聞こえる中、デムベレルさんが再通訳し、はじめて観客の皆さんから暖かい拍手をいただきました。
 引き続き、生徒による歌や詩の朗読が行われ、図書贈呈団による日本文化紹介の一部として、私は謡曲を披露する機会をいただきました。私は、学生時代に謡曲を習い始め、最近でこそ人前で披露することはありませんでしたが、モンゴルの僻地で、かつ200名を超える観客のみなさんの前で歌えたことは、この先の人生でそうそう経験出来るのもではなく、心地よい快感と何とも言えない達成感を味わうことができました。
 謡曲は、日本でも十分に理解出来る人が少ない中、初めて耳にするモンゴルの方にとっては仕方がないことですが、メロディーの抑揚が特殊なので、観客の皆さんも拍手のタイミングが分からず、歌っている途中に拍手が発生するなどハプニングもありましたが、楽しい時間を過ごすことができ、モンゴルの雄大な自然と、暖かいもてなしは、私にとって忘れられない良い思い出となりました。


デンスマー校長先生に贈呈品の目録が手渡される

贈呈式を見守る参加者のみなさん

モンゴル語で自己紹介とあいさつを

参加者の熱い視線を受け空手の披露も


交流そしてふれあい


 図書贈呈に加え、様々な交流を行ってきましたのでその模様を棚橋さんのレポートから紹介します。

音楽担当 棚橋 誠
 モンゴル・マルチン郡への現地訪問から帰国して、はや2ヶ月近くが経過し、その時の写真やメモを見返すと、その時々の様々な生々しい出来事や、マルチン郡長や子供たち、そのご家族のみなさんの笑顔、そして6人の連係プレーが今でも走馬灯のように鮮明に思い出されます。日程的には1週間でありましたが、めまぐるしいものでした。中でも際だったエピソードを紹介します。

●幻のミニコンサート
 訪問にあたり、マルチン郡の子供たちとの交流として音楽会を企画していました。私は音楽担当として、言葉はお互い伝わらなくとも、心が通い合うことの出来る音楽・演奏であれば、互いが親しみ合うきっかけになると考えたからです。選曲は「しあわせなら手をたたこう」としました。簡単でリズムがとりやすいものを選びました。
 楽器は、日本の100円ショップで購入したリコーダー、タンバリン、カスタネット、トライアングルとヤマハ製のピアニカを持参し、それぞれに担当を決め、出発までに練習を重ねました。しかし、マルチン郡の子供たちとの交流を予定していた日はちょうどモンゴル国の子供の日にあたり、マルチン郡内でも幾つかの催し物を用意されていたこと、予想以上の熱烈歓迎を受けたことから、現地スケジュールは調整がつかず、結局私たちの華麗な実演指導と大演奏会による拍手喝采・スタンディングオベーションは、私の思いの中だけに留まることとなりました。
 それでも現地で一つだけうれしかったことは、前日にマルチン郡の幼稚園の先生方と即席でしたが、演奏会ができたことです。ミニコンサートで使用する予定だった楽譜をろうそくの灯りをもとに、先生と一緒に見ながら、即席のコンサートを行いました。雨音の中で、めいめいがリコーダー、ピアニカを手にとって、奏でることが出来ました。
 また、図書贈呈にあわせ、楽器贈呈の際には子供たちみんなが無垢に喜んでくれたことが印象的でした。次回のモンゴル図書贈呈団では実現し得なかった演奏会に是非再チャレンジしていただきたいと思います。


幼稚園の先生たちと即席コンサートを

プレゼントしたピアニカを早速手にとり演奏する子供たち

●オブス県知事を表敬訪問
 事前にアポイントを取っていなかったものの、オブス県のトゴー県知事は多忙の中、私たちの突然の訪問に対しても暖かく迎えていただきました。これまでオブス県には、日本政府や日本のNGO/NPOからの学校や病院といった施設建設に関する援助を行われてきたものの、図書贈呈は、これまでに例がなく、また、日本の企業内労働組合がボランティアの一環として取り組んでいることに対し、賛美の言葉をいただきました。
 また、次回訪問時には、事前に連絡をもらえれば県を上げて受け入れたい。あわせて、今回限りではなく、これからも継続的に末永く続くような取り組みの要請を受けるとともに私たちの活動について理解を得られたことは、今後の活動に大きな成果となったと思います。
 私たちは図書贈呈を通じ、貴重な交流が出来ました。このモンゴル図書贈呈団はチャリティではないということです。チャリティとか「何かしてあげたい」という思いは裏を返せば自負心の現れだと思います。確かに図書等という形で贈呈はしたものの、私たちも暖かく迎えていただいたことで楽しめたし、学べたし、少なからずモンゴルの現状が理解できました。それでよいのだと思います。今回のモンゴル図書贈呈団は次回への足がかりとしては大成功でした。しかし次回に大きく期待するわけではありません。この活動を通じて何かしら思いが芽生えればそれで良いと思います。


オブス県知事を表敬訪問

草原を走るミニバンの中で


日本紹介と熱烈歓迎を受けた
モンゴルの食事について


 マルチン郡の小中学校の子供たちとの交流行事の一つとして、日本の四季、文化、日常生活等に加え、当社の企業活動について紙芝居風にまとめ、説明しました。初めて見る風景に身を乗り出して、聞き入ってくれました。黒田さんのレポートをご覧下さい。

日本文化紹介担当 黒田剛志
●アジア極東の島国「日本」紹介
 日本紹介ということで、モンゴルと日本の地理関係、東京と神戸、富士山、海、春夏秋冬、食べ物、相撲、空手、当社製品の紹介をしました。
 当初は、「マルチン郡で環境セミナーをしよう!」という計画でしたが、どういうふうに現地の小学生に環境問題を説明すればいいんだろうとずいぶん考えました。第1次図書贈呈団の結団式を兼ね訪問した日本モンゴル民族博物館の金津館長から、私たちが伺うマルチン郡では日本人そのものが珍しく、電気もガスも水道がない地域であり、まだ環境問題という意識が少ないのではないかとの助言もあり、「まず私たちの日本を紹介しよう!」ということになりました。
 日本を代表するものという観点から、外国の方が書いた日本紹介などを調べましたが、自分自身、意外と日本について知らないことが多いということに気付きました。四季折々の風景や美しい自然、評価の高い日本製の製品群、独自の歴史の中で培われた文化など、あんなこともある、こんなこともある、と紹介したいものがいっぱい出てきました。私自身、昨今の社会や経済の情勢は明るい話がなく、不正や犯罪のニュースばかりでうんざりしていましたが、自分の国に自信をもっていいんだと認識できた取組みでもありました。
 紙芝居風にまとめた資料をめくりながら、デムベレルさんに通訳をしていただき、日本紹介をしていきました。十分な説明が出来なかったかと思いますが、マルチン郡の皆さんに、大変興味深く、熱心に聞いていただきました。特に年配の方がものめずらしそうな目をされていたのがとても印象的でした。


手作りの紙芝居で日本の紹介を

●熱烈歓迎、羊肉とウォッカと幼稚園でのミニキャンプ
 オブス県やマルチン郡では、いろんな方から招待を受け、どちらの家庭でも熱烈な歓迎を受けました。「持っているもので、もてなす」というのが基本的な考え方であり、現地の人にとってのとびきりのご馳走をいただきました。私の田舎でも人が来ると食べきれないほどの料理やお酒を用意する風習がありますが、それと少し似通ったところがあるように思いました。
 日本を発つ前に色んな人から「食べ物は大丈夫か、好き嫌いないか」と聞かされており、不安でいっぱいでしたが、実際口にしてみると割と大丈夫というより、個人差はあるようですが、おいしくいただきました。具体的にどのような食生活を送っていたのかを紹介します。
 ウランバートルからプロペラ機でオブス県のオラーンゴム空港に着きました。ここで出迎えてくれたのが、デムベレルさんの甥に当たるバッチルさんです。空港から車で10分程度のご自宅でお昼をいただくことになりました。
 まず、前菜としてキュウリ、ハムソーセージのスライスにトマトが添えられたものと羊のミルクをいただきました。続いてメインディッシュとして出てきたのが、ボウルいっぱいに骨付き羊肉をゆでたもの、正真正銘のモンゴル料理で、おもわず「すげぇ〜」と声が出ました。ボウルというよりは「たらい桶」の方が適切な表現かもしれません。ナイフでひとくちサイズに切りながら口に運んでいきますが、ケチャップをつけると食べやすくなりました。
 食事の箸休めといえばいいのか、酢の効いたピクルスの漬物とデムベレルさんがウランバートルで購入したキムチをいただきました。このキムチは、私たちが毎日、羊肉を食べるのがつらいだろうという配慮からでした。飲物は韓国製のビールとウォッカをいただきました。私は少し苦手でしたが、モンゴルといえば誰もが想像される「ウォッカ」がおちょこにつがれ、次から次へとまわしのみが行われます。幸い6名いましたので「難」も六分の一でしたが、ウォッカがのど元をとおるたびに口から火が出るような思いになりました。ウォッカの話は後段でふれたいと思います。
 極めつけは、羊肉のハンバーグ定食でした。平皿の半分ぐらいライスが盛られ、手のひらほどの羊肉ハンバーグとボイルされたジャガイモとニンジンが盛りつけられていました。ハンバーグ以外は韓国、中国からの輸入品で、年々、モンゴルの地方都市にも普及しているそうです。
 マルチン郡滞在中は、朝・昼・晩の食事に加え、1日に2世帯ずつ招待を受けましたので、1日5食の生活を送ることになり、身も心も成長することが出来ました。


食は「文化」そのものです

行き先々で大盛りの羊肉料理が

遠来のお客をもてなすために羊が1頭解体されました

 モンゴルでの住居は、昔ながらの「ゲル」が主流であり、首都のウランバートル中心部でこそ「ゲル」はありませんが、少し離れると、遊牧民のみなさんはゲルに住んでいました。マルチン郡でも状況は同じで、ほとんどの方はゲルに住んでおり、中には一戸建ての平屋を持っている方もいて、冬場は、鋼製ストーブで暖を取りながら「ゲル」で、夏は涼しい戸建てでと使い分けているようでした。
 私たち一行6名が一緒にゲルに泊まれないため、幼稚園に寝泊りをしました。ちょうど、私たちが訪問する前に夏休みに入ったそうで、子供たちはいませんでした。そこでは、小さい机と小さいいすに座り、朝、昼、晩と幼稚園で食事のお世話になりました。
 幼稚園は、8年生学校から歩いて10分程度の少し離れた小高い丘の上にあり、造りは日本とほぼ同じでした。白壁の2階建てで、いかにも幼稚園という風体で、一階には、板張りの教室と調理室があり、ロシア製のアコーデオンやリコーダーがありました。私たちが寝泊まりをした2階はカーペット張りで、部屋の隅には、子供用の道具箱があり、壁には、日本の50音にあたる文字や干支、足し算、引き算などが掲示してありました。数十年前にフィードバックしたような気分になりました。
 マルチン郡に到着した5月31日には、初日ということもあってか、私たちのために、わざわざ羊を1頭解体してくれました。そして、痛みやすいところからということで、内臓系を中心に肝臓や腸、ミノなどが振舞われました。コリコリとした食感で、珍味を食べているような感じでした。ただ羊肉独特のなんともいえない匂いがあり、デムベレルさんの計らいで持参したキムチが大活躍しました。
 幼稚園をはじめ、招待してもらったお宅を訪問するたびにウォッカが出てきました。アルコール度40度で、口に入れただけで胃に焼けるような感覚が走ります。零下30度、40度であれば、体の芯まで温めるために重宝するかと思いますが、一人一杯、あるいは回しのみ、と各家庭によって違いがありましたが、普段から飲まない私にとっては、このウォッカが最大の難敵で、頻繁に撃沈していました。
 特に、8年生学校のノルサンボー前校長先生宅では、大宴会となり、冷水くんの指揮の下、「飲んで、飲んで」のコールに続き、みんなで一気飲みの応酬となりました。この「飲んで、飲んで」が気に入ったようで、翌日、この囃しを運転手のネムスルンやデンスマー校長先生がずっと口ずさんでおり、悪い言葉を教えてしまったと少し後悔しています。激しい飲み会の翌朝は、現地の人も二日酔いのときに食べるという、小麦粉のおかゆをいただき、この温かい心遣いに二日酔いも癒されました。
 言葉は通じないけれど「ようこそ、遠い国からきてくれた!」、と大歓迎をうけているのが肌で感じることができました。こういうのはいいですね、大好きです。食生活の習慣が異なり、多少、戸惑うこともありましたが、気遣いや心遣いなど、いいと感じるものは人間みんないっしょだな、とひしひしと感じました。日本にいると、誰ともしゃべらなくても一日過ごせてしまい、他人なんかどうでもいいと思うことがしばしばですが、もっともっと自分から心開いて人の輪のなかにはいっていけば、もっと可能性が広がると感じた次第です。
 ウランバートルでは、ホテルではなく、デムベレルさんのご自宅に居候しました。朝晩は奥さんのオユーンさんの手料理をいただきました。6人分の料理でも大変なのに、異国からきた私たちに気遣いをいただき、なるべくモンゴル風ではなく和風に近い食べやすい食事を作っていただきました。私たちが無事任務を終えることができたのも、この手料理のおかげと思います。この場を借りてお礼申し上げたいと思います。
 私にとって、初めての海外旅行が今回の図書贈呈団でしたが、たいへんエキサイティングな経験をさせていただきました。機会があれば、是非もう一度、行ってみたい、今回会った人ともう一度会えたらすごくうれしいと、そんな気持ちに素直になれる旅でした。ありがとうございました。


ウォッカを飲んで民族衣装デールを着ると
身も心も100%モンゴリアン

1人との出会いを大切にコミュニケーションを


強烈なスパイクが炸裂、
バレーボール交流


 交流のもう一つの目玉であった「バレーボール」を行ってきました。当社9人制バレーボール部員で全国大会出場経験のある冷水くん指導のもと、初めてボールにさわる子供から、先生との交流戦まで、バレーボールを通じて交流を深めました。その模様は、冷水さんのレポートをご覧下さい。

バレーボール担当 冷水真吾
 5月29日。待ちに待った出発の日が来ました。緊張と不安で落ちつかないまま飛行機に乗りどんな旅になるのだろうかといろいろ考えているうちに時間はたちすっかり夜……と言いたいところですが午後8時にもなろうというのに飛行機の窓から見た外は昼間のような明るさ。そしてウランバートル空港についてみると想像以上の寒さ。Tシャツしか持っていってなかった僕は先が思いやられる気分でした。
 首都のウランバートルとはいえ田舎なんだろうなと思っていたのに意外なことにたくさんの日本車が走っていてしかも高級車が多いのに驚かされました。ただ道路の舗装はまだまだでこれが改善されるのには時間がかかるなぁと思いました。


元気一杯に大縄跳び

日本から持参したネットを張り草原でのバレーボール

 オブス県に行き人生初の羊の肉とウォッカ。羊肉の激しい匂いをウォッカで消毒しながら食べている気分でした。お腹はすいているのに食べれない辛さはなかなかのものでした。楽しみにしていた子供たちとの出会い、みんなすごく素直で可愛くて何をしても喜んでくれる、この旅に来て初めて来て良かったと思った瞬間でした。特にカメラに興味があるようで写真を撮ってあげるとすごく喜んでくれました。
 その中でも、小学校高学年くらいの子供が弟や妹を連れてきて服装を奇麗に直して写真を撮ってくれとポーズをとる姿を見た時は、感動的でした。子供たちの瞳は黒く大きく、透き通っており、今にも吸い込まれそうな気がしました。僕もこんな目をしてた頃があったなぁと思い、またこんな目を出来る自分を取り戻したいなと思いました。
 6月1日、図書贈呈式の後、バレーボール担当の僕の出番がやって来ました。バレーはそう簡単に素人に出来るスポーツではないので正直どうやって教えてどうやって楽しんでもらおうかと不安でいっぱいでした。でも村の人達はとにかく元気で子供から大人までボールを取り合いしながら走りまわって、特に子供はパスの仕方を教えると喜んで両手を組んで走りまわっていました。
 ホントにかわいく、教え甲斐がありました。これで僕のバレー部魂に火がついてしまいました。また、モンゴルの人はとにかく負けず嫌いで日本チームvsモンゴルチームの試合をした時にはどんどん白熱していき、僕もいつの間にか手加減することを忘れてちょっと本気を出してしまいました。これがきっかけになって村の人々がバレーを続けてくれたら嬉しいのになぁと思いました。
 この試合の後、子供たちがノートや紙を持って来てサインして欲しいと集まってきました。この時、幼稚園にも行ってないような小さな子供が10cm位の紙切れを持って来てサインしてと来た時は感動するのと同時に複雑な気分になりました。(俺のサインなんかもらってどうするの?)そして思わず名刺をあげてしまった。でもこれがこの村での自分の存在を実感する一つの出来事となりました。
 このバレーボール大会が終わった後、トイレに行こうと外に出たらバレーボール大会には出れなかった小さな子達が外で一生懸命バレーをしようと頑張っているのを見かけました。これにまた心を打たれた僕は、一人ひとりにまた教え出しました。体よりも大きなボールを楽しそうに飛ばして遊んでる子供たちは見ていて飽きる事はありませんでした。こんな子供たちが僕たちの影響を多少なりとも受けて大きくなっていくのをずっと見ていけたらいいなと思いました。
 今回は交流としては本当にいい結果に終わったと思うし、違う世界も見れて勉強にもなりました。日本でこんな人と人の出会いや繋がりを感じることはなかなか難しいので、図書贈呈を通じ、交流を続けていけるといいなと思います。でも、もしまた僕が行ける機会があったら、もっと生活に困っている人や支援を必要としている人にボランティアをするという形でも訪れてみたいと思いました。

子供たちにレシーブの基本を

体育館に移動し先生たちとの親善ゲームが

スポーツを通した笑顔の交流がここにも


バトフレルくんとの再会


 モンゴルでは、多くの人との交流や出会いがありました。今回、副団長の松原さんは、1999年8月、当時のパンテクユニオンとして初めてモンゴルを訪問したメンバーの一人です。その時に、知り合ったバトフレルくんと再会することが出来ました。5年ぶりの再会に松原さんの感慨ひとしおならぬ思いをご覧下さい。

副団長 松原義昭
 私は5年前、組合の研修中に委員長から「おまえ、モンゴルへ行ってこい!」という一言から、これまでのモンゴル経験者の先陣を切ってモンゴルへと行きました。当時、モンゴルは先進国からの援助を受け、国の経済、雇用と少しずつは良くなって来つつありましたが、貧富の差は歴然とするほどで、首都ウランバートルにおいても平日の日中にもかかわらず、ウロウロと徘徊する人達が溢れ、この光景を見た私は日本との違いをまざまざと見せつけられました。
 あれから5年、モンゴルはどうなっているのだろうと思いながらの出発となりました。ウランバートル空港に到着し、空港ロビーを見渡しましたが5年前となんら変わりなくあまり発展していないような感じがしました。空港玄関に出迎えの車が待機していました。そこで「あれっ」と思ったのは5年前はロシア製の車が概ね占めていたのに対し、玄関前に止まっている車は、ヒュンダイ(韓国)のバン、他にも日本車などが多数、停車していました。
 車に乗り込み、首都ウランバートルへ近づくにつれ車の台数が増え、車窓からは日本車大型4WDがガンガン通っていました。首都ウランバートルに入ると、交通量の多さに驚きました。5年前は渋滞することなど家畜が横断するときぐらいで、車で渋滞するなど考えられもしませんでした。これまで記憶に残っていたモンゴルとは少し違って見え、市内には商店もたくさん軒を連ね、経済成長が進んできたんだなぁと実感しました。
 そんな背景のある中で、あらかじめ日本を出発する前に、5年前モンゴルでお世話になった当時ウランバートル赤十字の副総裁であったネルグイ女史を通じて、仲良くなった男の子バトフレルくんに会いたい旨を連絡し、5月30日の夜に面会する約束をしました。
 私が想うバトフレルくんの印象は、活発で瞳の綺麗な夢を大きく持った少年という、5年前の記憶で止まっていました。そのままでいて欲しいという気持ちと、16歳になった彼の成長した姿を期待してモンゴル2日目を迎えました。
 近くのホテル前で待ち合わせ夕方4時に再会となりました。ホテルの駐車場でネルグイ氏の姿が見えました。その後ろからこぼれる白い歯、そうバトフレルくんがそこにいました。嬉しさと感動がこみ上げる中、「元気か?」と彼を抱きしめました。抱きしめた彼の身体は5年前と比べ、身長こそ少し大きくなってはいましたが、細いままで日本の16歳の子供と比較してみるとまだ小学生並の体格ぐらいしかなく、想像していた以上の小ささに少し心配になりました。


5年ぶりの再会となったバトフレルくんと


久しぶりの出会いもあっという間に時間が過ぎ去りました

 一行は、そのホテルのレストランでお茶を飲みながら話をすることにしました。みんなで歓談する中で、通訳を通してバトフレルくんの生活状況を聞いてみると、「今は、施設から卒業して市内で両親と兄弟6人の家族8人で生活しています。僕は下から2番目です。」「仕事は市内の市場で薪などの運搬業務をしています。」と以前と変わらぬ笑顔で答えてくれました。そこで私は家族みんなで働いていると、そこそこの生活が出来ているものと思っていました。
 しかし、よくよく話を聞いてみると両親は重い病気にかかっており働けない状態で、兄弟6人の内、彼を含めた2人しか働いていないとのことでした。いくらモンゴルの物価が低いとはいえ、2人の収入で8人が生活していくのは至難のわざとしか言いようがありません。彼の1ヶ月の収入はわずか48,000トゥグルク(約4,800円)といいます。私は冗談のつもりで「ご飯、食べてないやろ。」と聞くと彼は真顔で「はい。」と返事をしてきたのです。私はそのあと何を話していいのかわからず絶句してしまいました。彼の話を聞き、彼の苦労ぶりが目に浮かび、そしてあの「はい。」の一言が頭から離れませんでした。
 レストランを出たあと私は図書贈呈団と離れ、バトフレルくんらとともにネルグイ氏の友人が経営するレストランへ行くことにしました。そこでは、5年前の出会った頃の話などで盛り上がり、楽しかったひとときを終え、23時デムベレル氏宅へ向かいました。別れ際にもう一度会えることと彼に頑張って欲しいことを祈り、固く握手をして別れました。
 今回モンゴルへ来て、5年前と比べかなり近代化され発展してきたモンゴルですが、もう一方では苦しい生活を余儀なくされている人達がたくさんいることを改めて実感しました。バトフレルくんが16歳という若さで家族を養ない頑張っている姿に胸を打たれ、自分の子供たちにもこのことを伝え、逆境に負けないような人間になってもらいたいと感じたと同時に自分も頑張らないといけないと勇気を与えてもらいました。
 少しずつではありますが着実に経済情勢とともに発展しているモンゴル、そのように発展し続ける中で、いつまでも変わって欲しくないのは素晴らしい景色、美味しい空気、美しい夜空、そして人々のやさしい心、そんなモンゴルとの交流がいつまでも継続していくようにしなければならないと感じました。
 モンゴルとの交流を継続していくためにも、第1回図書贈呈団から出た申し送り事項と今回マルチン郡での図書贈呈と交流で感じた「図書利用による子供たちの将来への楽しみと交流で感じた子供たちの素直な心、輝く瞳。そして友好的な村の人々。」このことを明確に次のメンバーに伝えていかなければなりません。「継続は力なり」という言葉がありますように、無理のある仕掛け作りをするのではなく、誰もが無理なくこなせる仕掛け作りをしてこそ、この交流は永く継続出来るものと確信しています。

神戸市内のNGO「日本モンゴル白樺協会」が設立した
病院を訪問

病院の医師やスタッフの皆さんと


マルチン郡での再会


 私は、2002年12月の事前打ち合わせのための訪問以来、一年半振りのマルチン郡となったわけですが、贈呈団を代表してのあいさつ、贈呈式と式次第が進行していく中で、200数十名の観客の中から特に熱い視線を感じました。一人目は、小中学校の前校長のノルサンボーさんの奥さんでした。1年半前の訪問時に自宅へ招待を受け、熱烈な歓迎をしていただいた方です。
 贈呈式が終わると、一番に私のところへ進んでこられ、言葉こそ聞き取ることは出来ませんが私の手を取って「元気にしてた? 本当に来てくれたんだ。また、家にも来て」とまるで、家族のように一方的に話しかけられました。デムベレルさんに通訳してもらい、後日、ご自宅へ訪問することを伝え一旦別れました。その後の招待を受けた様子は、黒田さんのレポートのとおりです。
 モンゴルのゲルでは、日本でいう神棚にあたるところに、写真を飾っています。先祖代々のセピア色のものから、人生のイベント毎に撮影したものを額縁に入れて並べて飾っています。隅っこではありましたが、前回訪問したときに家族のみなさんと撮った集合写真を見たときには、心温かく迎えてくれた気持ちがヒシヒシと伝わってきました。
 次に、私の肩をたたいてくれたのが、見覚えのある目を輝かせた男の子でした。彼が手に持っているのは、前回訪問したときに一緒に撮影した写真でした。当時6年生(13歳)の生徒で、彼は、マルチン郡の中でも学校へ通学できない程、離れたところに家があるため、学校に隣接する寄宿舎で生活している子供でした。
 寄宿舎では、学年の違う子供約10名がひとつのグループになって共同生活を送っています。彼はそのリーダーとして、小さい子供のお兄ちゃん役となって学校の宿題や色んな世話を行っていました。デムベレルさんを通じて、子供たちに渡した写真を大切に持っていてくれたことに感激しました。
 彼とは、もう一度、一緒に写真を撮り、「小さい子供の面倒をよく見てあげてね。一生懸命勉強してね」と言葉をかけ、私の名刺を渡しました。数年後、彼が、どのような道に進むかわかりませんが、もし日本に来ることがあれば、この名刺をツテに再会出来ればとの思いを込めて手渡しました。


たくさんの懐かしい再会と新しい出会い


さいごに


 2002年12月に訪問したときは、真冬で一面が白銀の世界でしたが、今回は息吹芽生え始めた新緑の草原を満喫することが出来ました。見渡す限り続く草原、緑の地平線と遠くの小高い山の頂には万年雪が残った緑豊かな大自然を堪能することが出来ました。
 豊かな大自然の一方で、モンゴルでは様々問題が残っています。1992年の民主化以来、地方で遊牧をしながら暮らしていた人々が、ウランバートルへ仕事を求めて出てきたために、人口過密が起こり、職にあふれる人々が路頭に迷い、家庭が崩壊し、マンホールチルドレンという社会的な問題が起こりました。モンゴル政府の施策により、徐々に改善しているものの、問題は根絶していないようです。
 地方からウランバートルへ出てくる人の原因の一つとして、数年前に起こった雪害があります。通常、モンゴルの冬は零下30度を超えるほど、厳しいものですが、その年は、例年以上に大雪となり、家畜の餌がなくなり、家族同然の家畜が、凍死するほどのものでした。馬、羊、牛、山羊、ラクダといった家畜から得られる肉、皮革、羊毛を生活の糧にしている遊牧民にとって雪害は致命的なものでした。
 過疎や貧富といった原因が複雑にからみあった問題の中で、目を背けることは許されことではありませんが、企業内労働組合の活動として「一方的な支援から末永く続く交流へ」と軌道修正を行う中で、図書贈呈を通じて、豊かな大自然の中で、現地の子供たちや先生との「交流」が、図書贈呈団一人ひとりにとって計り知れないものになったと思います。
 遠く離れた異国の人々、文化、自然を自分の目で見て、肌で感じたことすべてを伝えることは出来ませんが、一つの成果として、モンゴルとの友好の架け橋をわたすことが出来ました。この架け橋を、毎年、強固なものとしていき、数年後にはお互いの成長が確かめあえるようにしていきたいと思います。またこのような交流がユニオン会員のみなさんのご理解の下で実施されたことに対してこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
以 上


この子供たちが日本とモンゴルの架け橋をいつか渡る日が

今回の図書贈呈を裏方として支えた播磨青年部によるバサー&門前カンパ
 マルチン郡の小中学校へ贈呈した図書購入費用については、播磨製作所の青年部有志による「チャリティーバザー」の売上金と本社、播磨製作所、研究所、支社・支店のみなさんやユニオンOB会である「あいゆう会」のみなさんから寄せられたカンパ金を充当しています。みなさんのご厚意により図書贈呈を行うことが出来たことに対し、心より感謝申し上げます


まずは商品の整理と陳列から

いよいよ準備OK。あとはお客さんを待つばかり

黒山の人だかりと厳しい値切りで熱気ムンムン