第1次図書贈呈団 「みなさんの真心でモンゴルとの友好の架け橋を」 |
神鋼環境ソリューション労働組合 第1次図書贈呈団団長 井 上 育 也 |
5月29日(土)、私たち第1次図書贈呈団の6名は、ユニオン会員のみなさんのカンパ金などで購入した子供たちへの図書とともにモンゴルへと出発しました。成田経由でモンゴルの首都、ウランバートルに入った一行は、31日に週2便運行の国内線プロペラ機で、広大なモンゴルを1200キロ横断し、オブス県の空港に到着。さらにそこから約120キロ、草原の土道を4時間かけて車で走り目的地であるマルチン郡に到着しました。 マルチン郡の小中学校での図書贈呈式、子供たちや先生とのバレーボール、長縄跳びといったスポーツ交流、遠く離れた日本からの一行に対するマルチン郡をあげての熱烈歓迎の模様や心温かいモンゴルの人々とのふれあい、緑豊かな大自然の様子などモンゴルでの8日間をお伝えしたいと思います。 |
「支援」から「交流」へ… |
私たちユニオンのモンゴルとの交流。そのきっかけは、今から5年前の1999年5月に開催した第1回オープンハウスにさかのぼります。「環境」と「ボランティア」を二大テーマとして、同世代の会員が交流を図る場として取り組み始めたオープンハウス。記念すべき第1回目は、当時、兵庫県環境局長であった小林悦夫氏(現ひょうご環境創造協会副理事長)を講師として招き、「環境問題の昨日、今日、明日〜そしてあなたは」と題した講演を行っていただきました。この講演の中で、兵庫県がモンゴルでの大規模森林火災による復旧と地球規模でのCO2削減のために植林活動を行っていることが紹介され、ユニオンの社会貢献活動としてモンゴルへの支援を行ってはどうかとのアドバイスをいただきました。早速、神戸市内にある民間のボランティア団体を訪れ、モンゴルの現状について勉強するとともに、私たちユニオンとして何が出来るのかについての検討を行いました。その当時のモンゴルでは、首都であるウランバートル市内に数千人の「マンホールチルドレン」と呼ばれるホームレスの子供たちがいて、この子供たちへの支援活動が世界各国から行われていました。わずか500名の労働組合に何が出来るのか。迷いや不安はいろいろとありましたが「まずは行動を起こそう」ということでその年の夏から、民間ボランティア団体であるアジア・アフリカ環境協力センターの行っている中古衣料品などの送付を中心に活動を開始しました。会員のみなさんから提供いただいた中古衣料品を3年間にわたり段ボール箱で数百個分送り、この団体が主催するボランティアツアーへもみなさんの代表として参加するなど、積極的な活動を展開してきました。しかし、昨年12月に開催された第1回総会において、「援助物資を送るなどの一方的な支援ではなく、『無理をせず心の通った交流を長く続けていく』という観点で、従来から交流のある日本・モンゴル民族博物館(兵庫県但東町)および在ウランバートル日本大使館関係者との連けいを図りながら、地方の小中学校等に対する図書贈呈を中心に進めていくこと」が確認され、今回の派遣となったものです。 |
いざモンゴルへ出発! |
前置きが長くなりましたが、5月29日(土)、大阪空港に集合した贈呈団の6名は、小角副委員長などに見送られ、成田経由でモンゴルの首都、ウランバートルへ出発することになりました。不安と希望を胸に、両手には、贈呈用として日本で購入した図書、組み立て式の本棚、お土産用の日本酒、ミニコンサート用のリコーダー、タンバリン、カスタネット等の楽器をもってモンゴル航空のチェックインカウンターへと進みましたが、機内持ち込み以外の荷物が、なんと重量オーバーです。超過料金十数万円を払える余裕もなく、なんとか機内持ち込みとし、搭乗手続きを行うことが出来ました。 機内に入り、重量オーバーの教訓を胸に、6名はシートベルトをしっかりと締め、ウランバートルへ直行!と思いきや、離陸後、シートベルト着用のサインが消えるとともに、ソウルのインチョン国際空港に立ち寄るとのアナウンスが流れました。理由も告げられないままインチョン国際空港の端に給油をすることもなく、約1時間たたずむことになりました。謡曲と空手に加え、英語も堪能な山口さんが、フライトアテンダントさんに聞いても理由はわかりませんでした。 |
団長 井上育也くん |
副団長 松原義昭くん |
バレーボール担当 冷水真吾くん |
謡曲・空手担当 山口浩之くん |
日本文化紹介担当 黒田剛志くん |
リコーダー(音楽)担当 棚橋 誠くん |
小角副委員長らに見送られ元気に出発した派遣団のメンバーたち |
デムベレルさんとの再会 |
ちょっとしたハプニングで定刻約3時間遅れとなったものの、緑のカーペットを一面に敷き詰めたようなモンゴルの大草原を上空から眺めながら一行はウランバートル空港に降り立ちました。時間はすでに20時30分となっていましたが、緯度が高いこともあり、まだ日は落ちていませんでした。入国審査、税関手続きをすませ、入国ロビーへと進み、そこでは今回の図書贈呈のモンゴル側窓口となってくれたデムベレルさんが出迎えてくれました。「こんにちは」と固い握手をかわし、1年半ぶりの再会に何とも言えない気分になりました。
デムベレルさんは、モンゴルの日本大使館に勤務され、上級秘書官として活躍されながら、日本とモンゴルの親善協会の事務局を兼務されています。デムベレルさんとの出会いは、2002年11月に兵庫県の但東町にある日本・モンゴル民族博物館で開催された「但東フェスティバル」で金津館長から紹介いただきました。当時、但東町には、モンゴルから10数名の短期留学生を受け入れており、その引率の責任者として訪日されていました。 デムベレルさんは、16歳から日本語を勉強し、モンゴルから日本への国費留学の第一期生として来日。以来、日本とモンゴルの橋渡しに尽力され、現在では仕事の傍らに「蒙日」の辞書を編纂されるほどの大の「日本通」です。ウランバートル市内のご自宅には日本製品がたくさんあり、テレビからはNHKのBS放送が流れていました。お嬢さんのバイラーは昨年まで、日本に留学した経験もあり、時よりモンゴル語の会話があるものの、私たちとの会話は当然、日本語であり、デムベレルさんのご自宅にいると「ここはどこ」と疑いたくなるほどでした。私が一昨年に訪問したときにお世話になった息子さんのバイサは、今も日本に留学しています。 このデムベレルさんのご協力により、私たちは、ウランバートルから西へ約1,100kmにあるマルチン郡の小中学校へ図書贈呈を行うことができました。 |
ウランバートルからオブス県へは国内線プロペラ機で |
マルチン郡をめざし草原のハイウェーをロシア製のミニバンで |
図書贈呈式 |
6月1日、図書贈呈式はマルチン郡の小中学校の講堂で行われました。前夜は、モンゴルでは歓迎を意味する雨と、6月では珍しい雪に見舞われ、現地の人々からは、「私たちと一緒に自然も皆さんを歓迎しています」との言葉をいただきました。図書贈呈の模様については、謡曲・空手担当の山口さんのレポートをご覧ください。 |
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交流そしてふれあい |
図書贈呈に加え、様々な交流を行ってきましたのでその模様を棚橋さんのレポートから紹介します。 |
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日本紹介と熱烈歓迎を受けた |
マルチン郡の小中学校の子供たちとの交流行事の一つとして、日本の四季、文化、日常生活等に加え、当社の企業活動について紙芝居風にまとめ、説明しました。初めて見る風景に身を乗り出して、聞き入ってくれました。黒田さんのレポートをご覧下さい。 |
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強烈なスパイクが炸裂、 |
交流のもう一つの目玉であった「バレーボール」を行ってきました。当社9人制バレーボール部員で全国大会出場経験のある冷水くん指導のもと、初めてボールにさわる子供から、先生との交流戦まで、バレーボールを通じて交流を深めました。その模様は、冷水さんのレポートをご覧下さい。 |
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バトフレルくんとの再会 |
モンゴルでは、多くの人との交流や出会いがありました。今回、副団長の松原さんは、1999年8月、当時のパンテクユニオンとして初めてモンゴルを訪問したメンバーの一人です。その時に、知り合ったバトフレルくんと再会することが出来ました。5年ぶりの再会に松原さんの感慨ひとしおならぬ思いをご覧下さい。 |
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マルチン郡での再会 |
私は、2002年12月の事前打ち合わせのための訪問以来、一年半振りのマルチン郡となったわけですが、贈呈団を代表してのあいさつ、贈呈式と式次第が進行していく中で、200数十名の観客の中から特に熱い視線を感じました。一人目は、小中学校の前校長のノルサンボーさんの奥さんでした。1年半前の訪問時に自宅へ招待を受け、熱烈な歓迎をしていただいた方です。 贈呈式が終わると、一番に私のところへ進んでこられ、言葉こそ聞き取ることは出来ませんが私の手を取って「元気にしてた? 本当に来てくれたんだ。また、家にも来て」とまるで、家族のように一方的に話しかけられました。デムベレルさんに通訳してもらい、後日、ご自宅へ訪問することを伝え一旦別れました。その後の招待を受けた様子は、黒田さんのレポートのとおりです。 モンゴルのゲルでは、日本でいう神棚にあたるところに、写真を飾っています。先祖代々のセピア色のものから、人生のイベント毎に撮影したものを額縁に入れて並べて飾っています。隅っこではありましたが、前回訪問したときに家族のみなさんと撮った集合写真を見たときには、心温かく迎えてくれた気持ちがヒシヒシと伝わってきました。 次に、私の肩をたたいてくれたのが、見覚えのある目を輝かせた男の子でした。彼が手に持っているのは、前回訪問したときに一緒に撮影した写真でした。当時6年生(13歳)の生徒で、彼は、マルチン郡の中でも学校へ通学できない程、離れたところに家があるため、学校に隣接する寄宿舎で生活している子供でした。 寄宿舎では、学年の違う子供約10名がひとつのグループになって共同生活を送っています。彼はそのリーダーとして、小さい子供のお兄ちゃん役となって学校の宿題や色んな世話を行っていました。デムベレルさんを通じて、子供たちに渡した写真を大切に持っていてくれたことに感激しました。 彼とは、もう一度、一緒に写真を撮り、「小さい子供の面倒をよく見てあげてね。一生懸命勉強してね」と言葉をかけ、私の名刺を渡しました。数年後、彼が、どのような道に進むかわかりませんが、もし日本に来ることがあれば、この名刺をツテに再会出来ればとの思いを込めて手渡しました。 |
たくさんの懐かしい再会と新しい出会い |
さいごに |
2002年12月に訪問したときは、真冬で一面が白銀の世界でしたが、今回は息吹芽生え始めた新緑の草原を満喫することが出来ました。見渡す限り続く草原、緑の地平線と遠くの小高い山の頂には万年雪が残った緑豊かな大自然を堪能することが出来ました。 豊かな大自然の一方で、モンゴルでは様々問題が残っています。1992年の民主化以来、地方で遊牧をしながら暮らしていた人々が、ウランバートルへ仕事を求めて出てきたために、人口過密が起こり、職にあふれる人々が路頭に迷い、家庭が崩壊し、マンホールチルドレンという社会的な問題が起こりました。モンゴル政府の施策により、徐々に改善しているものの、問題は根絶していないようです。 地方からウランバートルへ出てくる人の原因の一つとして、数年前に起こった雪害があります。通常、モンゴルの冬は零下30度を超えるほど、厳しいものですが、その年は、例年以上に大雪となり、家畜の餌がなくなり、家族同然の家畜が、凍死するほどのものでした。馬、羊、牛、山羊、ラクダといった家畜から得られる肉、皮革、羊毛を生活の糧にしている遊牧民にとって雪害は致命的なものでした。 過疎や貧富といった原因が複雑にからみあった問題の中で、目を背けることは許されことではありませんが、企業内労働組合の活動として「一方的な支援から末永く続く交流へ」と軌道修正を行う中で、図書贈呈を通じて、豊かな大自然の中で、現地の子供たちや先生との「交流」が、図書贈呈団一人ひとりにとって計り知れないものになったと思います。 遠く離れた異国の人々、文化、自然を自分の目で見て、肌で感じたことすべてを伝えることは出来ませんが、一つの成果として、モンゴルとの友好の架け橋をわたすことが出来ました。この架け橋を、毎年、強固なものとしていき、数年後にはお互いの成長が確かめあえるようにしていきたいと思います。またこのような交流がユニオン会員のみなさんのご理解の下で実施されたことに対してこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
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この子供たちが日本とモンゴルの架け橋をいつか渡る日が |
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まずは商品の整理と陳列から |
いよいよ準備OK。あとはお客さんを待つばかり |
黒山の人だかりと厳しい値切りで熱気ムンムン |