平成15年
「神戸国際労働交流事業団
(中国)に参加して」







研究所ブロック ユニオン委員
金 谷  優


はじめに

 研究所ブロック・ユニオン委員の金谷です。昨年の10月17日から22日の6日間、「平成15年神戸国際労働交流事業団(中国)」の一員として、中国を訪問しました。本日はその内容について報告させていただきます。
 参加者は連合神戸地域協議会ならびに神戸労働福祉協議会加盟組合の代表10人で、北京、天津、大連の3都市を訪問しました。今回の訪問の目的は、3つありました。まず1番目の目的は、昨年が神戸市と天津市の友好都市提携30周年の節目であったことから、「神戸・天津の友好都市30周年」の神戸市友好訪問団の一員として、天津市を訪問し、記念式典および交流会に参加することです。2番目は、経済発展の著しい中国の労働事情についての調査を行うことです。3番目は、今回訪問する北京・天津・大連の歴史的・経済的な関わりや市民との交流により、国際的な視野を広げることを目的としています。
 一方で私自身の目的としては、「これからの市場(マーケット)はアジアだ!」とよく耳にする中で、そのアジアの中でもひときわ興味深い国と言えば、やはり国土も人口も桁外れな中国であり、今後、益々発展が期待できる北京・天津・大連といった各主要都市を訪問し、自分の目でその実情を実感するとともに現地の人と接することで中国の文化に触れ、国際的な視野を広げたいと考えていました。


神戸市の姉妹都市と
友好都市について

 今回の訪中の目的として神戸市と天津市の「友好都市30周年」を記念してとお話ししましたが、この友好都市について説明したいと思います。現在、神戸市が姉妹都市、友好都市もしくは親善協力都市を結んでいる都市は次のとおりです。天津市だけは友好都市となっており、これはなぜかと聞いてみると、両国人民の末代までの「友好」を発展させることを目的として友好都市関係を結んだためと聞きました。また、一説には中国人はプライドが高く、姉妹だと、どちらかが上でどちらか下になってしまうため、「友好都市」としたとも聞きました。


天津市との友好都市提携について

 次に神戸市と天津市が、友好都市提携を結ぶまでの道のりについて、説明したいと思います。
 日本と中国の関係は、ご存じの方も多いと思いますが、日中戦争等の影響で1972年の日中国交樹立までは、良好ではありませんでした。1971年に当時の宮崎神戸市長が、日中国交の早期回復を訴え、国交回復後は中国の都市と提携したいとの意向を表明しました。翌年、宮崎神戸市長が中国を訪問した際に、当時の中国首相であった周恩来氏と会見し、提携の希望を述べました。その周恩来首相の合意の下、天津市と提携を結ぶ運びとなりました。
 それでは、なぜ天津市であったかということですが、これは周恩来首相の出身地だったからです。1973年には、神戸市友好訪中代表団が天津市を訪問し、打合せを行なっています。このとき、都市提携にあたり、何を目的とするかということの話し合いが行われ、両国の人民の末代までの友好を発展させることを目的とすることで友好都市関係が結ばれました。残念ながら、この時には、宮崎元市長は亡くなられていましたが、その念願がかなえられました。
 神戸市と天津市は、日中間の最初の友好都市であるのですが、これは中国の都市が世界の都市との提携を結ぶ第1号ということで、周恩来首相が特に力を入れたとも聞きました。友好都市提携後は、天津港近代化への協力をするために、神戸港から訪問団を派遣したり、教育交流として、神戸外大と天津外国語学院の教員交流も図られています。また、ジャイアントパンダや孫悟空のモデルとなったキンシコウなどが神戸市の王子動物園に寄贈されています。
 最近の交流では、経済交流として、ビジネスチャンスフェア、例えばインポートフェアなどへの出展、青年や小学生スポーツ交流、天津市からの研修生受け入れ等を行なっています。このように天津市と神戸市では、各種レベルの交流が行なわれており、交流の節目である5年毎に双方で記念事業を開催すると共に代表団の相互派遣が行われています。このような訳で、友好都市提携30周年を記念した式典・交流行事が開催されました。


北京市訪問

 今回の訪問団の日程ですが、10月17日に関空を出発して、まず首都である北京を訪問しました。市内の故宮博物館、天安門広場や郊外の万里の長城、明の十三稜、天壇公園を視察し、19日に天津市にバスで移動し、工場視察や記念式典に出席し、21日に飛行機で最後の訪問都市である大連に移動し、大連市内の工場などを視察し、翌22日に帰国しました。
 最初に訪問したのは天安門広場です。ここでは、観光客を目当てに携帯ストラップや扇子などを抱えた売り子が大勢いました。特に、日本人には10個、20個単位でいくらと声をかけていました。少しでも買うそぶりを見せると更に売り子が加わって、廻りに人だかりができてしまいました。そんな中では、治安が悪いのかと思いましたが、要所で軍人や警察官が目を光らせていました。
 この天安門広場の向い側が、故宮(紫禁城)です。ここは故宮博物館として1987年に世界遺産に登録され、東西720メートル,南北1000メートル,高さ32メートルの城壁に囲まれた城内の面積は72万平方メートルとなっています。部屋の総数は9000もあり、100万点に及ぶ貴重な財宝があると聞きました。故宮は、明の永楽帝が15年間かけて1420年に建てたものです。以降、清の末代の溥儀という皇帝まで約500年間、24人の皇帝が封建統治の中心とした場所です。

9000個もの部屋がある故宮の見取り図

 天安門を通って、故宮の中に入った所では、偶然にも他国の要人が来ていたようで、シークレットポリスのような人がたくさんいました。しかし、中国人はこのような状況でも、気にならないようで、普通通りであることに驚きました。
 みなさんご存知かもしれませんが、ラストエンペラーという映画に出てくる1シーンで、若い溥儀が自転車で通り抜けていった有名な小道も見てきました。スクリーンの中の世界が現実になった瞬間は、何ともいえない気分でした。
 ここを抜けたところにあった小部屋に案内され、高名な書道家とあうことが出来ました。この方は皇帝から印を預かっている?とのことで、直筆の書物が販売されていました。私たち一行の団長は別室に案内され、たいそう値打ちのあるモノを安く購入できたようです。

高名な書道家とのツーショット

故宮 太和殿を背景に参加者の皆さん

 翌日は、北京市郊外の万里の長城に行ってきました。巨大なレンガと石材からなるもので北方遊牧民族の侵入を防ぐために、紀元前221年に秦の始皇帝が城壁として築いたものです。尾根沿いに建設されており、かなり急な勾配でしたが、日本人だけでなく、いろんな国からの観光客でにぎわっていました。心ない落書きなども目につきました。世界の遺跡を傷つけるつまらない行動がこんなに不快な思いとなるのかを痛感しました。
 次に訪問したのは、明の十三陵で、ここは明代の13代皇帝とその皇后達が奉られている巨大な墓陵から成っています。一般公開されているのは定陵、長陵、昭陵という3つだけですが、私が訪れたのは、地下宮殿のある14代皇帝の定陵の墓です。ここで写真を撮ろうと思いましたが、怨念が残っているかもしれないので、写真は良くないといわれ、撮影することができませんでした。
 この後、天壇公園に行きました。天壇公園というのは、明・清の皇帝が五穀豊穣を祈った場所として知られています。中央には祈念殿という建物があり、お年を召した方が散歩しているのが沢山見受けられ、音楽や蹴鞠、お茶、囲碁などをして遊ぶ公園としても有名だと聞きました。

 万里の長城は予想以に急でした↑→



     五穀豊穣を祈った天壇公園(中央が祈念殿)↑→
 


 


天津市訪問

 3日目には天津市に移動し、「古楼商」という商店街に行ってきました。ここの出口を出たところには、ある親子が物乞いをしているのを見ました。一人っ子政策のため、かけがえのない子どもだと思いますが、子供に障害があるようで、母親無しでは歩けない様子でした。その子どもを道に横たえ前にお金を入れるうつわを置き、母親は少し離れたところで見ていました。日本では絶対あり得ない光景がありました。ここは人通りが多く、中国人は普通に歩いているのに、日本人がかわいそうだということで小銭を入れており、何ともいえない気持ちになりました。
 話は変わりますが、天津市に入ると交通渋滞に巻き込まれました。信号が赤にもかかわらず、自転車が横断していました。中国では「勇気」が優先だということで、信号があっても先に「勇気」で進入したものが勝ちだという暗黙の了解があるようです。ちなみに交通事故があった場合でも、生命保険や自動車保険に入っている人が少なく、病院などに連れて行って治療し、その場で示談とするようです。
 また、天津市は意外と開けているのが印象的で、人、車や自転車でごった返しており、音楽堂や超高級ホテルなどがあり、栄えた町並みが随所に設けられていましたが、裏通りをバスで抜けると開発中の場所が広がっていたり、埃まみれで煉瓦造りの家が軒を並べるなどの場所もあり、道無き道をバスが行くという、田舎の光景も見受けられ、天津市内の今と昔を見た感じがしました。古い建物を壊す際に、埃をおさえるための水をかけないため、モヤとも煙ともいえないどんよりとした風景がありました。
近代的な町並みと田園風景が共存する天津市


天津経済特区
村本電子有限公司視察

 次に訪問したのが天津経済自治区開発特区にある村本電子有限公司です。経済特区といっても、田舎にぽつんとあるのが印象的でした。
 今回見学した工場は、神戸市の西区高塚台に本社のある(株)村本工作所の中国工場です。ここは立ち上がって、まだ一ヶ月程度ということで本格操業はしておらず、内部の機械は3ライン程度でした。
 村本工作所は、主に音響、OA機器、プレス機器の製作をしている会社で、取扱い製品としては、カーオーディオ、プリンタ、CD、DVDなどです。村本工作所は、従業員が360人程度、売上高が200億円くらいの企業です。国内3ヶ所、海外に7ヶ所の工場があります。海外進出は1958年ということで随分と古いのですが、その後も人件費が安いなどの事情があり、海外進出を続けているとのことです。中国の発展とともに企業も成長している実態を目の当たりにすることが出来ました。

村本工作所の天津工場


神戸市・天津市友好都市
30周年記念式典及び天津総工会

 次に、神戸市・天津市友好都市30周年記念式典に出席しました。中国の温家宝首相と日本の小泉首相からの電報も披露され、神戸市の矢田市長と天津市の戴(タイ)市長が出席の上、盛大に開催されました。この模様は新聞にも大きく報道されました。
 天津市友好都市30周年記念式典後に開催された戴相龍(タイソウリュウ)天津市長主催の歓迎夕食会では、テレビ取材もあり、出席している方々も財界人、天津市の官僚といった方々で、盛大なものでした。私は慣れない厳粛な場に出席したため、大変緊張してあまり多くの方とお話はできませんでしたが、皆さんが共通していったことは、「神戸市と天津市がこれからも友好関係を保ち、お互いに協力して良い未来を築いていこう!」という言葉でした。中国ではパイチュウという白いお酒を飲むのですが、アルコール度50度程度と大変強く、これを乾杯で一気に飲まなければなりませんでした。これを5杯も飲むと、かなりフラフラになってしまいました。その勢いというわけではありません、戴(タイ)天津市長に握手求めると快く引き受けていただき、今回の目的の1つであった記念式典と交流会については、交流を深めることが出来た有意義な楽しい思い出となりました。

天津日報に掲載された記念式典


天津市長にご挨拶


大連市訪問

 大連市では、大連経済技術開発区を訪問しました。当社のプロセス機器事業部の製品も大連市内の石油化学工場に納入されている聞きましたが、今回は三菱電機の工場を訪問しました。ここでの商品は、インバータやコンデンサなどで、日本や東南アジアへ輸出してるそうです
 特に印象深かったのは、工場内に掲示板があり、従業員の名前を書いた表があり、出勤状況はもちろんのこと、勤務が何ヶ月か、技術レベルなどについて掲示されていました。さらに驚いたことには給与がどの程度かということも書いてありました。日本では、所得などはおおっぴらにしませんが、能力主義というか、そのようなものをまざまざと見せ付けられ、中国はすごいなと感じました。また、一方で日本語講座などが開設されており、日本語をうまく習得することも技能の1つと認知され、これにより給与にプラスされるということです。


最後に

 今回、北京、天津、大連の3都市を訪問し、これから目覚しい発展をする国だなと実感しました。今回の訪中前から中国は発展していくとは聞いていましたが、中国が発展していく理由について考えてみました。
 日本は1964年の東京オリンピックの時期に、高度経済成長を成し遂げ、固定為替制から変動為替制に移行しました。今まで1ドル360円だったものが円高と共に、みるみるうちに経済発展しました。それから40年たった今、中国では今年開催される北京オリンピックを機に現在の固定為替制から変動為替制になる話が進んでいるようで、日本と同じような道を歩んでいるのではないかと思いました。
 私が訪中によって感じたことは、聞くだけの中国と実際行ってみる中国には大変なギャップがあったことです。確かに農村地帯は、私が思い描いていた昔ながらの風景でしたが、市内では高層30階以上のビルが建ち並び、街中は人であふれかえり、めざましい経済発展を遂げている状況が伺えました。数年の内に北京・天津・大連もますます大きな都市になるのではないかと思いました。

朝から晩まで通行量の多い天津市街地道路

 訪中の際、天津市総工会の方も現地の人にも共通することでしたが、何かにつけて何でも質問していました。最初はうるさいくらいに感じていた質問責めも、質問されていく内に、私も負けずに色々なことを聞き返していました。訪中以来、私の中で心変わりしたというか、初心に返った点は、新入社員のときのように「何事に対しても貪欲に聞く。わからないことがあれば恥ずかしがらずに聞く。」ということです。これを忘れずに、仕事に対して実力をつけていきたいと思いました。また、今回の視察で私の今まで持っていた価値観、世界観がガラリと変わりました。自分の小さな殻に閉じこもるのではなく、今後もさまざまな異文化に触れ、自分自身の視野を広げていきたいと思います。
(文責:新保 崇)