バングラデシュの同行取材を終えて






神戸新聞社 社会部記者
森 本  尚 樹


はじめに

 みなさんはじめまして、ただいま紹介いただきました森本と申します。本日はよろしくお願いします。わたしは、1997年に神戸新聞社に入社しました。特に新聞記者を目指していたというわけではありません。大学は文学部で、就職活動をする際、おのずとマスコミ関係に足が向きました。熱心に本を読んでいたので、文章を書く仕事に憧れはありました。でも報道という分野に特にこだわりはなく、結果的に新聞記者になっていた、という感じです。
 初めて配属されたのは、本社社会部でした。新聞記者はまず警察を担当し、事件取材のイロハを覚えることから始まります。私は神戸市の東側半分の警察署4署を担当することになったのですが、この年は事件が多く、大変な年でした。私の入社前の3月に須磨区竜が台で女児2人が何者かにナイフで刺されたり、鈍器で殴られたりして、1人が亡くなるという事件がありました。5月上旬には中央区宮本通でバラバラ殺人事件があり、この時は入社以来初めてもらった連休のさなかに起こり、問答無用で呼び出されたのでよく覚えています。5月下旬には須磨区友が丘で「淳君事件」があり、これは3ヶ月間、取材の第一線に投入されました。この年はさらに10月に新神戸オリエンタルホテルで山口組の若頭が市民を巻き添えにして射殺されるという事件があり、非常に多忙な1年でした。
 2年目は但馬総局浜坂支局に転勤となりました。美方郡浜坂町は兵庫県の最北西に位置する漁業の町で、事件取材に明け暮れた1年目とはうって変わって、のどかな日々が訪れました。今回お話するバングラデシュの旅でお世話になった「子どもNGO・懐(ふところ)」の高森拓也さんや、MBSカメラマンの三多隆志さんと出会ったのも、この時期でした。私は出身が兵庫県三田市で、大学時代を東京で過ごしました。浜坂町に異動が決まったときは、あまりに田舎なので正直悲しかったのですが、行ってみると見るもの全てが新鮮で、結果的には満足しています。2001年に社会部に復帰し、現在は遊軍記者として主に医療問題を担当しています。
 本日、お話しする内容は、「懐」の高森さんがバングラデシュの硫酸被害者の施設を訪問すると聞き、昨年末の12月25日から9日間同行しました。私は高森さんが企画した旅に、過去2回同行したことがあったので、今回も声をかけていただいたわけです。高森さんはしょっちゅう旅に出ており、昨年夏にバングラを訪れた際、支援を求める現地の要望に応え、今回の旅を企画したのでした。バングラデシュという国は日本のメディアに取り上げられる機会も少なく、高森さんは私たちマスメディアの参加を強く望みました。実のところ、私の会社では、年末は年始連載の準備や阪神大震災の節目である「1・17」を前に相当忙しいのですが、粘り強い事前調整の末、9日間に亘る休暇を勝ち取り、参加が実現したわけです。ちなみに「懐」の旅に参加する際、私は「休暇利用、費用自腹」の原則を貫いています。これはポリシーではなく、要するに不景気ということです。
出発前ミーティング中の子どもNGO・懐のみなさん
(中央が高森さん)


「子どもNGO・懐(ふところ)」とは

 今回の取材は、バングラデシュの首都ダッカにあるNGO「ASF(Acid Survivors Foundation 硫酸被害者基金)」他を訪問する「子どもNGO・懐」に同行しました。バングラデシュでは、求婚を断った少女や、けんか相手の最愛の娘に硫酸を浴びせかけるという悲惨な犯罪が年間400件も発生しており、ASFではこうした被害者の医療ケアや精神的ケア、自立支援、法律支援などにあたっています。
 高森さんは、ちょっと変わった人です。ご実家が理髪店で、理髪師の免許を持っているのですが、理髪店は弟さんに任せられて、ご自身は英語塾を経営されています。高校を卒業後、東京に出て、モグリ学生として、いろんな大学の講義を聴講されておられたそうです。いろんな職業も経験し、途上国を中心に世界各国を旅するようになり、故郷に戻った後は地元の小中学生を集めて英語教育を始められました。授業のかたわら、旅の経験などを話すようになり、塾には多くの親たちが人間教育の意味も込めて子どもさんを預けるようになったようです。不登校など、問題を抱えている子どももおり、単に英語だけ教えているだけではないところに、この塾の特徴があります。
 「子どもNGO」としての活動も、途上国の窮状を知っている高森さんが、恵まれた日本に生きる子どもたちに国際ボランティアについて関心を持ってもらい、日本では実感しづらい人権について考えてもらおうと、取り組んだものです。実際に子どもを途上国に連れ出す旅を2年に1回程度企画しておられ、過去にはミャンマー、ベトナム、ネパール、モンゴルなどを訪問されています。
 今回は行き先が被害を負った少女たちの施設ということで、「懐」からは女子限定で中高生やOBら8人が参加しました。費用的な問題で、希望しても行けない子もいるのですが、理解あるご両親の肝煎りや、アルバイトなどで貯めたお金を使って、それぞれ意気込みを持って参加しました。中には不登校の高校生もいましたが、この旅を立ち直りのきっかけとさせたいご両親の思いや、変化を求める自身の思いもあって、参加を決意したようです。多くのメンバーは、どことなく単調な日常から脱して、新たな自分を発見するきっかけをつかみたいと、話してくれました。

バングラデシュへ向け飛び立つ参加者のみなさん

今回の訪問で持参する支援物資


バングラデシュの国情

 私たちが訪問したASFの状況をお話しする前に、バングラデシュがどのようなところなのかを簡単に紹介したいと思います。地理的には、インドの都市カルカッタの西側でベンガル湾に臨んでいます。人口は1億4000万人、面積は北海道の1.4倍、首都ダッカは人口密度世界一ともいわれています。

あふれんばかりの人だかり

 宗教はイスラム教が9割近く、残りはヒンズー教、仏教となっています。例えば、1日5回の礼拝の時間には町中に放送が行き渡るなど、イスラム国の雰囲気はあるのですが、この国のイスラム教は「ソフト・ムスリム」といわれ、イランなどの厳格な国民宗教とは違って、かなり大ざっぱでした。現地のガイドに聞くと、5回の礼拝を守る人はほとんどいないといいますし、国の役人にも異教徒が多数います。私たちは年末に訪れたのですが、町にはクリスマスの名残りの電飾や装飾が残っていました。酒類の販売は禁止され、アルコール中毒者がいないことが、治安の良さにつながっています。ただ、旅行者としては、お酒が欲しいところで、これはヤミ市のようなところで売っていました。価格は日本と同じくらいで、ビールが1本200円ぐらいしました。
 この「ソフト・ムスリム」の宗教は、同国の国民性にも大きく影響しているようです。強い者が弱い者を助け、持てる者が持たない者を助けるというイスラムの教えのため、国民の間では「困ったときには与えられる」という感覚があり、それがこの国の海外支援依存体質に繋がっているのだと、現地の日本人は口をそろえます。そういう微妙な問題はありますが、国連の基準では「最貧国」といわれるあの国の人たちが笑顔を絶やさないのは、困ってもだれか助けてくれるという安心感に支えられているようで、「先のことは考えずに今を楽しんで生きている」という感じが大変しました。
 また、「最貧国」とは一体、どんなに貧しいところかと思っていましたが、街には新鮮な魚介類、野菜、鶏肉があふれていました。ニューマーケットと呼ばれる首都最大の市場に行きましたが、つねに商品は山積みで、人々も活気に満ち溢れていました。ここで私は農業・漁業の重要さを認識したのですが、つまりデルタ地帯の沃土と大河に恵まれたこの国は、平年並みの生産高、漁獲高で国民を食わせる余力が十分あるということなのでしょう。それらが豊富にあるため、所得の低い庶民もそれを買うことができ、低いレベルではあっても経済は一応回っている、という状況でした。毎日、川を行き来する船が農村部から大量の作物の運んでくるわけです。進歩を求めずに、ひたすら「国民が食べていく」ということだけを求めれば、政府もなく、公共投資もなくても、このままやっていけそうな気がしました。
 庶民の足は「リキシャ」といって、自転車の後ろに人を乗せるところがあり、日本の人力車からその名前が由来しているともいわれています。国内で27万台が登録されており、まさに町中にあふれていました。運転者は半ズボンにサンダル履きというスタイルで、最大では客2人とかなり重い荷物を載せて、ペダルをこぎます。料金は1キロ5タカ(10円)が目安ですが、多くの人は2、300メートルごとにリキシャを乗り継いで、足代わりに使っています。何度か乗りましたが、座席は分厚いクッションになっていて、乗り心地はかなり良かったです。運転手は1台のリキシャを3交代で使い、1日の日当として約100タカ(200円)を受け取るそうです。道路には信号がほとんどなく、ここに自動車と自動三輪車、リキシャ、人が入り乱れて、常にクラクションが鳴りやむことはありません。私たちは夜中の12時前にダッカに入りましたが、町には夜中とは思えないくらい人であふれていました。
 町は、道路の舗装なども不十分で、建物の多くも老朽化していました。排気ガスが立ちこめてほこりも多く、環境が良いとは決していえませんでした。建設中のビルも多かったのですが、足場を竹で組み、レンガをひたすら積み上げるといった工法で、地震などの災害では真っ先に崩れてしまいそうな感じでした。一方で、近年は日本・欧米系の企業の進出も目覚しいといい、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ピザハット、ロッテリアなどのチェーン店ができてにぎわっていました。また車のディーラーもトヨタや日産を含めて一通りありました。町を走る車も、圧倒的に日本車が多く、車体に日本語の商標や電話番号が残ったままの中古の業務用ワゴンなども結構走っていました。

生活の源ブリガンガ川

庶民の足、リキシャ

 人々は非常に人懐っこい様子で、外国人が珍しいらしく、私たちのところに必ず集まってきました。別に危害を与えるわけでもなく、ただ取り囲んでは好奇心に目を輝かせているといった状態です。特に写真撮影などで大きなカメラを扱っていると、うっとうしいくらいに集まってきました。町では外国人の姿はほとんど見かけなかったので、江戸時代の日本人が西洋人を見るような感覚なのかも知れません。
 あと町の風景で気になったのは、街角のあちこちに紅茶屋や花屋など、生活にやすらぎとゆとりを求める人たちのための商売が成立していたことです。そういう部分は、所得が少なくても窮々としない、大らかさと豊かさを感じました。逆にホテルの近くにあったスラム街では、写真を撮っていると「撮るなら2タカ(4円)出せ」と、大騒ぎをされました。あれはプライバシーや肖像権を主張しているわけではなく、写真を撮る外国人からカネを取れるということを、経験から学んでいたためでしょう。かつては大らかだった人たちに、外国人がそういう学習をさせてしまったということは、非常に考えさせられるものがありました。
 このほか、町の中で印象に残ったのは、公安警察の存在でした。旅では、集団とは別行動で町の写真を撮りに行く機会があったのですが、写真を撮っていると、私服の警察官に呼び止められることが何度かありました。そのときはガイドと一緒だったので、適当なことを言って逃げましたが、ガイドによると最近も、日本人のジャーナリストが留置場に入れられ、日本大使館が身柄を引き取るといったケースがあったということでした。
乾期には良好な農耕地に→ 
  ←街中にはあふれるほどの食材が


NGO「ASF(Acid Survivors Foundation硫酸被害者基金)」を 訪問して

 訪問した施設は3階建てで、1階は普段過ごす居室や応接室、炊事場や食堂、2階はスタッフの作業部屋、3階は入院・治療施設になっていました。表通りから入り、少し奥まった場所にひっそりと建っていて、周囲は塀で囲まれていました。この施設はNGOが管理していますが、硫酸暴力問題や各種の国内問題が国外のメディアに伝われば、人権政策の立ち遅れを指摘される可能性があるため、取材に関しては政府も神経をとがらせている様子でした。実は今回の旅では、MBS(毎日放送)の記者とカメラマンも同行していたのですが、彼らは数回の折衝の末ジャーナリストビザが認められ、現地取材には政府・情報省の役人が同行するという決まりにもなっていました。だから、ASFにも役人が同行し、取材は監視下で行われました。「ジャーナリストビザの申請は面倒くさい」ということだったので、私は一般のビザで入国し、あくまで「懐」の一員ということで取材をしていました。
 ちなみに政府による監視は、それほど厳しいものではなく、MBSの記者らによると、特にビデオテープの検閲等もなく、取材に対するクレームもなかったということでした。私も一般人を偽りながら、かなりジャーナリストっぽい行動をしていたのですが、特に怪しまれることはなかったようです。ただ、出国の際にカメラバッグを開けられ、いろいろ質問されたときは困りました。
 ASFが取り組んでいる硫酸暴力問題ですが、バングラデシュでは、硫酸は、衣料品の染色やバッテリー液として一般的に用いられ、比較的簡単に入手できる状態が続いていました。1970年代以前に広まったともいわれ、ビンやコップに入れたものを投げつけるといった被害が、毎年400〜500件発生しています。被害者は硫酸で皮膚がただれ、目や耳、口が溶けてしまう場合もあります。医療には限界があり、被害者は一生、心身に傷を負って生きていかなければなりません。
 施設には23人のスタッフが寝泊りしていますが、多くはかつて被害に遭った10代の少女でした。14歳の女の子は、結婚先の家に「持参金が少ない」と言いがかりをつけられ、硫酸を掛けられたそうです。また12歳の少女は親同士のけんかに巻き込まれ、標的として硫酸を掛けられたそうです。彼女らから被害について直接話を聞くことはできなかったのですが、ASF代表のモニラ・ラーマン代表によると、被害に遭った少女のほとんどは、不当な逆恨みや紛争の巻き添えによるものだということです。多いのは結婚をめぐるトラブルで、バングラデシュの農村部では、男女の結婚は家同士で決めるのが圧倒的多数ということです。しかも12、3歳で嫁に出すこともあるため、中には「もっと勉強したい」とか「まだ結婚したくない」という希望を持つ少女も当然います。そうして結婚を断った場合、男性側の逆恨みに遭うというケースが多いということです。また、農村では家同士の土地の境界線争いなどで紛争が起こることがよくあるそうです。争いがもつれた場合、相手がもっとも可愛がっている娘などに硫酸を浴びせるというケースも多いということです。当然、被害に遭った少女はわけもわかりません。

被害者数の推移を説明する
ASFのラーマン代表

硫酸暴力の防止を訴えるポスター
近年、被害者が立ち上がり、広く知られるようになった

 横行する硫酸暴力は近年海外でも報じられるようになり、バングラデシュ政府も重い腰をあげ、この犯罪者に懲役30年の刑を科しているのですが、それでも犯罪は各地で起こっています。また硫酸の購入には免許がいるようになりましたが、ヤミ市などで簡単に手に入る状況は変わっていないということです。犯人は多くの場合、すぐに逮捕されるということですが、硫酸を掛けられた者の被害は、それによって現状回復があるわけもなく、損害賠償などの請求も、手続きや訴訟費用の関係で十分に行われていないということです。国家による補償もなく、被害者のケアをNGOに押し付けているという状況でした。
 こうした犯罪が起こる原因はよく分かっていません。大人のけんかで、当事者同士が加害者と被害者になるのであれば、単に加害の方法としての悪質性が議論されることになりますが、少女や女性が結婚を拒んだ逆恨みで被害に遭うということや、紛争時の標的に女性が狙われるということは、バングラデシュの社会問題として議論されるべきです。世界各国に独自の文化があり、先進国の観点だけで「人権」をうんぬんすることはできませんが、少なくともバングラ農村部の女性の自由は極度に制限されていることは事実で、少女への硫酸暴力は社会における女性への扱い、つまり女性は家の中にいて夫に仕えながら慎ましく生きなければならないという偏見が根底にあると思います。また紛争で標的にされるということも、つまりは女性が弱者であることの裏返しです。

悲しみを乗り越え
被害の状況を話してくれた女性




背中に硫酸を浴びた男性→

 神戸は国際都市であるため、国際ボランティアに取り組む人も多いのですが、途上国支援に取り組むNGO関係者が口をそろえるのが、女性の人権問題や社会参加の問題です。途上国での女性の地位の低さは、例えば胎児・乳幼児の死亡率に表れるなど、非常に深刻なものだそうです。WHOも女性の健康開発には力を入れており、その延長線上には女性の地位の向上を見すえています。日本でも女性の社会進出や、女性が子を産み育てやすい環境作りが進んでいますが、まだ不十分な部分を感じます。
 ASFの少女らとは、2日にわたって交流し、2日目は遊覧船を借り切って川下りをしました。「懐」のメンバーも積極的に交流を楽しみ、一緒に歌を歌ったり、踊ったりしました。天気もよく、川岸の風景ものどかでした。顔にあのような傷を負っている彼女らですから、当初は野外での交流に参加してくれるかどうか、不安もあったのですが、ほとんどの少女が素顔のまま出てきてくれたので、「懐」のスタッフも胸をなでおろしていました。別れ際、彼女らの1人は今回の交流を「人生で最高の思い出」と語ってくれました。高森さんが「懐」のメンバーに「日本から来た私たちは、日本に戻れば友達がいるけど、あの子たちには、あの施設以外に友達はいない。そのことを考えて、また交流に行こうな」と声をかけていたのが印象的でした。

ASFの少女たちとの記念写真

心と体の傷は癒えないものの、
笑顔で応対してくれた施設のみなさん

民族衣装サリーに身を包んで川下りで交流

 ASFの少女らは、終始笑顔を見せ、私たちを歓迎してくれました。ラーマン代表は「彼女らは被害によって生まれ変わったのだと確信している。いわば、砂漠の向こうに湖が見えている状態で、希望を持ってチャンスを待っている」と話していました。実際、ASFではコンピューターなどの職業訓練なども行い、自立に向けての準備も進めていました。
 ただ、彼女らが希望を取り戻すまでには、やはり相当の努力と時間がかかるようでした。ラーマン代表は「最初、ここに運び込まれた少女らは、ショックに打ちひしがれ、死ぬことを考える子も多い。ほとんどの子は自分のことよりも、自分を育ててくれた親に申し訳ないと言い続ける」と話していました。入院中の被害者の姿にも接しましたが、親の愛に恵まれて大学に入学したばかりに被害に遭ったという女性は、私たちの前でも終始泣いていました。肩の皮膚をあごに移す手術を受けたばかりのようでしたが、傷跡はいまだに露骨でした。また、別の患者は結婚先から実家に帰省していた際、たまたまトラブルに巻き込まれて硫酸を浴びたのだそうです。結婚先からは翌日に離婚を言い渡されたということでした。


ストリートチルドレンの
保護施設ュSCKS

 次に訪問したのは、ストリートチルドレンの保護施設 SCKS です。こちらでは、親の離婚や水害による遺児を収容しています。収容されているのはごく一部で、都会には約40万人ものストリートチルドレンがいるともいわれています。水害などの災害で両親を亡くしたり、両親が離婚して居場所がなくなった子どもが都会に集まって来るのだそうです。SCKS では、こうした子どもたち収容し、基本的な教育や職業訓練などを行った後、就職先を見つけるまでの支援を行っていました。5つのセンターを持ち、1カ所につき、120から150人の子どもの面倒を見ているそうです。10〜18歳の子どもがいるのですが、10歳くらいから仕事を見つけて働きに出る子どもも多いと聞きました。

 ← ↑ 裁縫や木工を習う子どもたち

 訪問した際は、裁縫を習っている子どもたちや椅子を作っている授業を見ました。裁縫では歩合制で1日80円くらい報酬を受け、少女らが足踏みミシンで服を縫っていました。また一般の授業は施設内でも行われていましたが、教室不足のため、停泊中の船の甲板を使って行われていました。船が出航するときは、別の船に移って授業を続けるのだそうです。バングラデシュは、国土が北海道の1.4倍と非常に小さく、一方で人口が非常に多いため、なかなか土地を確保できないようです。






停泊中の船上も教室→


AMDA が支援する農村

 バングラデシュでの平均寿命は男性が約59歳、女性が約58歳程度です。女性の平均寿命が短いのは出産時に死亡する割合が高いためと聞きました。AMDA(アジア医師連絡協議会)は岡山市に本拠がある医療NGOで、世界30カ国で医療・保健支援を中心とした活動を展開しています。バングラデシュには1998年の大洪水をきっかけに進出し、首都ダッカに近いガザリアという市の農村地帯の支援に取り組んでいました。産婦人科医が常駐する保健センターを設置しているほか、各農家に資金を貸し付け、品種改良や家畜の購入、新たなビジネスの開始などに使ってもらう「マイクロクレジット事業」にも取り組んでいます。このクレジット事業の貸付金の集金に回る際、保健・衛生指導を通じて、住民生活の向上を図っています。
AMDA の事務所と代表の添川さん

 バングラデシュでは、保健・衛生の観念が低く、例えば、NGOなりODAがトイレの設備を作っても、本来の衛生管理といった目的を十分理解させていないため、単なる箱ものの建設に終わってしまいます。「だから指導では衛生・保健がなぜ必要かを理解してもらった上で、何が必要かを村人たちに考えてもらうように誘導します」と、現地の責任者である添川詠子さんは話します。添川さんは「海外の支援に依存しているバングラデシュでは、支援に入るとすぐに『何か作ってほしい』という要望を受けるが、それではこの国のためにならない。だから自立を促すお手伝いをしているのですが、一方で、何かおせっかいをしているような気もしますが、この国の30年後のためを思って取り組んでいます」と話してくれました。
 農村はデルタ地帯に点在しています。雨季は周囲がすべて川となり、船が唯一の交通手段になります。私たちが訪れた12月はほとんど水は引いていましたが、橋がないのでもっぱら船で移動しました。電気が引かれている村もあれば、電気のない村もあり、所得もさまざまのようでした。私が行った村はテレビを持っている裕福な家庭もあり、そうした家はうれしそうに私たちを招き入れては、テレビを自慢するのでした。家は屋根の形が日本の農家にも似ており、村落内を子どもたちが遊び回っていました。水道などはなく、水仕事や料理などはすべて川で行っていました。トイレもなく、住民は木の陰で用を足しているようでしたが、こうした衛生環境では感染症などのリスクは高まり、そうした懸念から、AMDA ではまず、トイレの整備に力を入れているようでした。

町から町への移動は手漕ぎ船

農村の女性を集め、
保健・衛生知識を教えるソガワさん→

BRAC(Bangladesh Rural
Advancement Committee)が
支援する農村

 BRAC とは、世界最大規模ともいわれるNGO団体で、少なくともバングラデシュでは最大です。AMDA も行っている「マイクロクレジット」を最初に始めたのも BRAC で、現在国内8万6000のうち、約6万の村に進出しています。マイクロクレジットを軸に、経済、農業、保健、教育の各分野で活動し、当然、組織は大規模で、職員は7万人を超えているともいわれます。
 この規模は、人材、財力で政府をしのぎ、国内の大学を出た優秀な人材が政府ではなく、処遇も待遇も優れている BRAC を選ぶという状況になっています。BRAC の本部オフィスは大理石で出来た超豪華ビルで、一部では「営利主義のNGO銀行」との揶揄もあるようです。現地のガイドも指摘していましたが、国の発展には行政機能のリーダーシップが必要で、BRACュの肥大化はバングラデシュの発展に影響を与えているのかもしれません。
 少し話が脱線しましたが、特に教育に力を入れている BRAC は、村落ごとに学校を設置し、その数は3万4000校にのぼるといいます。私たちが訪問した学校では、ノートの変わりに黒板にチョークで授業を受ける子どもたちの姿がありました。バングラデシュでは小学校までが義務教育なのですが、農作業などに駆りだされ、やむを得ず途中でドロップアウトしてしまう子どもが多く、このように授業を受けることができる子どもたちは数少なく、教育の重要性、必要性への意識がまだまだ低いのも事実です。そういった子どもに最低限の教育を受ける機会を与えようと、BRACュが乗り出したのだそうです。だから BRAC の学校では、学校に行けなかった子どもが対象で、授業料も文具も無料ということでした。これまでに260万人が卒業し、その91%が中学校に進学したと語る BRAC の担当者は鼻高々でした。
 教育は国の礎といいますが、字が読めなければ知識が伝わらないということを考えても、教育の重要性は言うまでもありません。バングラデシュでは、都会では家の商売の手伝いや工場で働く子ども、農村では農作業の手伝いをする子どもが数多くいますが、それは教育という迂遠な方法によって将来的に利益を得るよりも、今現在の労働力として利益を生んでもらう方が良いと親たちが考え、子どもらも従っているのでしょう。教育の重要性についての啓蒙も含め、子どもが教育を受けられる環境を整えるために、国際的な支援が求められていると感じました。

ノートの代わりに黒板を使って
授業を受ける子どもたち

屈託のない笑顔の子どもたち

JICA の沼田さん

 神鋼環境ソリューションさんからも昨年、JICAに参加されていると聞きましたが、バングラデシュにも同時期に JICA の隊員として赴任されている方がいました。通常、JICA の隊員は理系(技術系)が多いにもかかわらず、彼女は文系で「村落開発普及員」として派遣されています。
 沼田紀子さんは、「懐」がある浜坂町の隣町の香住町役場に勤務されていましたが、青年海外協力隊員に見事合格され、当初、役場を休職してという話もあったようですが、前例がないということで、役場を退職してバングラデシュへ来たそうです。大学時代から「途上国に暮らしたい」という意思を強く持っておられたようで、今回合格した際も役場を辞めるかどうか悩んだそうですが、「人生80年のうちの2年」と割り切り、一歩を踏み出したということです。語学研修の後、8月に任地のタンガイルに入ったそうですが、すでにベンガル語はペラペラでした。各村落を巡回し、地域の要望を聞きながら、必要な行政サービスをコーディネートするのが仕事だそうですが、現実的には支援は住民にとって不可欠なものではないため、「余計なおせっかいをしているだけでは」と自問される時もあるそうです。
 かつて青年海外協力隊としてブラジルに赴任した会社の同僚も言っていましたが、志を持って海外に出たものの、やる仕事がなくてオフィスで時間をつぶしてばかりいる隊員もいると聞きました。沼田さんは積極的に村落を回って仕事を見つけているようでしたが、やはりボランティアというものは何かの枠に入るだけではなく、現地で考え、主体的に判断して行動していかないと意味がないものだと思いました。
バングラディシュでの支援の状況を語る JICA の沼田さん

妊娠女性の援助施設ュCTRDW
(Centre for Training and
Rehabilitation of Destitute Women)

 バングラデシュでは、レイプ被害者や離婚したときに子供を妊娠していたといった様々な理由で未婚の母親となった母子を収容するNGOの施設「CTRDW」があります。バングラデシュでは、イスラム教のため中絶が認められておらず、また、避妊や出産についての知識も低く、妊娠に気がついたときにはお腹が大きくなって隣近所にも分かり、隠しようもないというのが実情です。

CTRW のお母さん

 また、先に少し触れましたが、女性の地位が低く、結婚もしていない女性が妊娠したとなると村には住めなくなり、コミュニティーを追われた結果、CTRDW のような援助施設でしか、生きていけなくなります。また離婚された後で妊娠に気付いた母親らも、連れ子では新しい人生を歩むのが困難な社会であるため、この施設を頼ることになります。ここでは出産を終えた母親に対して、必要に応じてカウンセリングや、性教育、家族計画などさまざまな知識を与え、研修センターで自立への訓練を続けます。子どもの多くは里子に出されますが、子どもに愛着がわき、手放したくないという母親は、その後の人生での逆風は覚悟で子を養うことになります。そうした母親のために、CTRDW には託児所の機能もあります。
 どんな理由があるにしろ、生まれてきた子どもたちに罪はなく、つぶらな瞳、屈託のない笑顔を見ていると愛おしくなりました。「懐」の少女たちもお母さんに成り代わって、日本から支援物資として持ち込んだミルクをあげていました。

子どもにミルクをあげる
浜坂町の少女たち

生まれた子どもに罪はない。
元気に育って欲しい


さいごに

 再三触れましたが、バングラデシュでは、NGOや海外から多くの支援が寄せられていました。私が見たバングラデシュの人々は、支援に頼って生きているとは思えないほど明るく、無論その笑顔の陰でさまざまな苦悩はあろうかと思うのですが、日々を自由に豊かに暮らしているように見えました。1杯2タカの紅茶を売る男性、客引きのリキシャの運転手、カメラを向けられてはにかむ市場の商人、外国人に群がるスラムの子どもたち…。それぞれ、日本の私たちが享受しているような文明の恩恵にはあずかっていませんが、限られた環境の中でそれぞれの生を生きているという感じでした。
 日本から支援に入っているNGO関係者の多くから「私たちがやっていることは、本当に意味があるのだろうか」という逡巡を聞きましたが、その迷いは、支援を必要としているにしてはあまりにも明るい彼らの姿を見れば、だれしも感じるように思われました。先進国の経済発展の知恵と恩恵を途上国に持ち込むということは、発展を遂げてきた私たちの社会の論理、つまり「昨日より今日、今日より明日」という進歩の思想を持ち込むということだと思うのですが、逆にバングラでは、その暮らしぶりに「なぜ昨日のままであってはいけないか」という問いをつきつけられたような気がし、私はその明確な答えをとっさに用意できませんでした。「文明によって、長い間健康に快適に生きることができることができる」という答え方もありますが、例えば医療の未発達によって失われる若い命への悲しみは、宗教によって癒され救われているという意味で、克服されているのかもしれません。進歩と発展により、私たちは高度な科学技術にあふれた便利な世の中を暮らしているのですが、一方で競争へと追いまくられ、進歩しなければ現状が維持できないという状況もあり、この社会が幸せかといえば、それも自信がなくなってしまいます。幸せとは何か、考えさせられる旅になりました。
 これは現在行われている国際支援が無意味であるということではなく、それらの活動がヒューマニズムに支えられている限りにおいて、あらゆる支援が実質的に彼らの生活を潤し、彼らの心に届いていると思います。
笑顔が素敵なバングラディシュの人びと

●森本尚樹氏プロフィール
神戸新聞社会部記者。1973年生まれ。兵庫県三田市出身。
早稲田大学第一文学部卒業後、1997年に神戸新聞社入社。社会部、但馬総局浜坂支局をへて、2001年から社会部。遊軍記者として、医療問題を担当している。