子どもたちからの贈り物






MBS報道局北近畿地区駐在カメラマン
三 多 隆 志


はじめに

 ただいまご紹介いただきました三多です。本日は、これまで私自身が取り組んできたカメラマンとしての仕事やボランティアの話などについて映像を交えながらお話ししたいと思います。よろしくお願いします。
 まず、「私」という人間を知っていただくために少しお話ししたいと思います。私は1953年浜村温泉という鳥取県にある温泉の街に生まれました。赤ん坊の頃から温泉につかり、周囲からもさぞかし良い男になるだろうといわれていましたが、見てのとおりでございます。
 高校卒業を控えて、大学に進学するか就職するかという時、人生の大きな転機を迎えることになりました。当時、成田空港建設に大きな波紋が広がり、反対運動が起きていました。その様子をテレビで見た私はイデオロギーに関係なく、成田空港建設によって農地を強制的に収用されることに対して「どうして、弱い立場の人から無理やり農地を取り上げるようなことをするんだ」と強い憤りを感じ、居ても立っても居られない気持ちから家出同然で寝台夜行列車に飛び乗り東京へ出て成田へと向かいました。約一ヶ月間、成田で反対派の農家の人たちと集会に出たり、農業の手伝いなどをしたのですが、家のことや学校のことが気になり鳥取へ帰ることにしました。家に着くと母親に泣かれ、学校も退学寸前までになっていて、両親や親戚が八方手を尽くし何とか卒業だけは認めて貰えることになりました。同級生の中には、私よりも問題意識を強く持ち、最後まで自分の意志を貫いた人もいたのですが、私は彼らとは行動を共にすることは出来ませんでした。しかし、このことを通して人の大切さを強く思うようになり、その後の私の生き方の原点になったのかも知れません。

カメラマンとしての第一歩

 このようにして高校を卒業することになりましたが、高校時代から山登りが好きで、写真に興味があったため、東京写真大学(現東京工芸大学)の短大部に進学することにしました。百聞は一見にしかずという言葉がありますが、言葉や文章では十分に伝わらないことも多く、ビジュアルで訴えることにより世の中の出来事を伝達できるのではと感じ、その道を選択したのです。
 在学中から博多に本社がある西日本新聞社東京支社でカメラマン見習いとして働くことになりました。そこで報道写真の基本を勉強し、写真を撮る技術もさることながら人々に自分の思いをどう伝えるかという大切さも学んだような気がします。
 その後、カメラマンとしてプロ野球の連日の取材などで仕事に追われる日々が続き、とうとう無理がたたって体調を崩してしまい実家に帰ることとなりました。
 実家に帰ってから映像関係の仕事を探しましたがなかなか良い仕事に巡り会わず、3年ほどたった時に、写真の道を離れテレビ業界へ転進しました。ムービーの基礎を一から実践で学び、その後一大決心し自ら会社を設立しました。設立した当時は地方の報道マンが非常に少ないということもあり、ある在阪テレビ局から京都府北部と兵庫県北部の北近畿地区を任されることになりました。


あるテレビ番組で子どもを対象とした
ヨットスクール取材中の30代前半の三多氏

餘部鉄橋列車墜落事故

 報道カメラマンとして自立したそんな頃、年も押し迫った1986年12月末、兵庫県香住町にある餘部(あまるべ)鉄橋で列車が強風により転落するという事故が起こり、合計13人もの死傷者を出すという痛ましい事故に出くわすことになりました。その事故の犠牲者となった遺族のもとへ取材に行くことになったのですが、被害者の方々と同じ町内に住む私はこの被害者取材に腰が引けていました。様々な報道関係者が被害者の心情を顧みず土足で踏み込むような取材姿勢に憤りを感じ、客観的に事実を取材し報道するという立場と、取材される側の気持ちとの板挟みとなり、随分悩んだ末に「このような形で、これ以上の取材は続けることはできない」とテレビ局との契約をうち切りました。
 その後、鳥取を中心に写真やビデオなどの仕事を続けていましたが、ある時報道駐在員の補充を検討していた毎日放送局(MBS)から声が掛かり、これまでのいきさつや私なりの思いなどを説明した上で、今までとは違った形の取材ができそうな感じがしたため、引き受けることとなり、現在に至っています。

初めての海外は
「修学旅行」の同行取材

 みなさんは私のプロフィールを見て、若い頃からかなり海外へ行っているようなイメージをもっているかと思いますが、実は海外に初めて行ったのは40歳の時でした。今年、50歳になりますから10年前のことです。きっかけは中学校の恩師から連絡があり、「学校の修学旅行で初めて韓国に行くことになったので旅行記録のカメラマンとして同行して欲しい」との話があり、同行したのが最初でした。昔から海外に興味はありましたが、なにぶん仕事に追われ海外に行くきっかけがなかったので、これはと思い同行することにしました。これが初めての海外旅行となりました。

(ひとくちメモ)
−餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故−
 1986年12月28日午後1時24分、日本でもトップクラスの高さを誇る餘部鉄橋(41.5m)を通過中のお座敷列車(回送列車7両編成)が折からの突風にあおられ、鉄橋より転落。真下にあったカニ缶詰加工工場を直撃し、工場で働いていた主婦ら5人と最後尾にいた車掌と社内販売員の計7名が死亡、6人が重傷を負った。風速25mを示す警報装置が作動していたにもかかわらず、規定通り列車を停止させなかった人為ミスによるものともいわれている。

ミャンマーでの初めての出来事

 次に訪問した国は7年前になりますが、ミャンマーでした。なぜミャンマーを選んだのかと言いますと、「ビルマの竪琴」という小説を読み、映画を何回も見ることによりビルマ(現ミャンマー)という国に興味を持ったからです。その時は観光気分で一人ツアーに参加しました。
 空港に到着し、入国審査を終え荷物を取りに行くと、私の荷物にだけ「×」印がついていました。なぜ私の荷物だけがバツ印なのかというと、取材用のビデオカメラ1台が入っていたためでした。そのためにすべての荷物の検査を受けることになりました。単に観光で来たというのに何故、そこまでチェックされなくてはならないかというと、ミャンマーという国は民主化運動の指導者であるアウンサンスーチー女史と対峙する軍事政権下にあって、外国人に対し非常に厳しい入国審査を行っており、アジアの中でも北朝鮮に次いで厳しい審査がある国ということが後になってわかりました。
 入国審査に大きく時間を取られ、ようやく集合場所の空港ロビー向かうと、すでにバスはホテルに向かって発車した後でした。その理由はバスに乗る予定の人数を数えるときに、幼児を1名とカウントしてしまい、私をカウントし忘れて出発してしまったという大変なことが起きていたのです。そうこうしている間に、現地の子どもが私の荷物を勝手に抱え、ある車の方へ向かっていったのです。「止まれ!」と叫んだもののその子どもは止まることなく、車に荷物を積み込んでしまい、私はその車まで行きました。よく見るとその車はタクシーのようで運転手が「乗れ!」と言い、私は恐怖に駆られながら乗り込むと、さらに、助手席にもう一人人相の悪そうな男が乗り込んできました。恐る恐るホテルの名前を言うとタクシーは発車したのですが、少し走ったところで止まり、また一人怖そうな男性が乗り込んで来ました。私は異国の地であることや、治安があまり良くないというイメージもあり、生きた心地がしませんでした。そして薄暗い市街地を暫く走り、突然暗い夜道の中で車は停車し、私は「これまでか」と思い家族のことなどが頭の中をよぎりましたが、最後に乗り込んできた男性が途中で降りただけで、その後は目的地のホテルまで何事もなく到着しました。冷や汗をかきながら私はホテルに着き、そのタクシーの運転手に事情を聞くことにしました。答えはミャンマーではタクシーには必ず助手が同乗し、二人で仕事を行っていると聞きました。それでは、途中で乗って来た男性は何者だったのかと聞くと、実は空港で働く人であり、帰る時間が遅くなったため、たまたま相乗り客として乗車したと言うことを聞きました。ホッとしたのと同時に全身から力が抜ける感じでした。私の人生の中で一番怖い体験だったと感じています。みなさんはタイという国が「微笑みの国」と呼ばれていることを聞いたことがあるかと思いますが、ミャンマーのタクシーの運転手さんなど、この体験で出会った人たちの優しさと笑顔に、私にとってこの国が本当の「微笑みの国」ではないかと思い、ますます興味が湧いてきました。

1997年ヤンゴンでのNID(ワクチン一斉投与日)で
自ら子どもにワクチンを投与する細川JCV代表
翌年のNIDでワクチンを投与する三多氏

(ひとくちメモ)
−ミャンマーについて−
 ミャンマーの首都はヤンゴン、面積は約68万km2、人口約4640万人という国であり、日本では小説「ビルマの竪琴」で有名である。インドや中国といった大国と隣接し、隣国のタイとは長年戦いを繰り返していた。現在においても国を取り巻く政治状況は不安定で、国内の経済状況も非常に厳しい環境にある。それに対し、人々は素朴で非常に親切で、豊かな自然や国中に点在する仏教遺跡など魅力ある国といえる。

世界の子どもたちにワクチンを
−JCVとの出会い−

 6年前になりますが、地元の新聞記事に目が止まりました。その日の夕方隣町で、ミャンマーなど途上国の子どものためにワクチンを送る活動をしているNGOの講演会が開かれるという内容でした。ミャンマーへの旅以来個人的にNGOの活動に関心を持っていた私は早速講演会に出かけました。そのNGOは「世界の子どもたちにワクチンを 日本委員会(JCV)」で代表者は元首相細川護煕氏の奥さんである細川佳代子さんでした。私は細川代表からいろいろと話を聞く中で非常に心に残る話がありました。それは、「ボランティアとは無理をしないことであり、普段の生活の中において、心(気持ち)や体(ふれあい)などほんの少し余裕があるときに行うものであり、ボランティアだからといって絶対にこうしなければいけないっていうことはない」と言われたことです。それまで私はボランティア活動を行うためには心身ともに綺麗でなければいけないと堅く考えていたものが解きほぐされたように感じました。いろんな話をしている中で、私にも何かできることはないかと尋ねてみると、「広報ビデオを制作したいが、制作費がなくて困っている。みなさんからの募金をもとにボランティア活動を行っている団体としては、十分な財源はなく、安価で制作する方法はありませんか」との相談を持ちかけられました。私は、自分の力で出来ることであればと決意し「ではやりましょう」と返事をしました。これがきっかけとなり、ミャンマーでのワクチン投与の取材が始まりました。

(ひとくちメモ)
−「世界の子どもたちにワクチンを」日本委員会−
(JCV; Japan Committee Vaccines for the World's Children )
 日本委員会は、1993年に京都で開催された「子どもワクチン世界会議」で「子どもワクチン京都宣言」が採択されたのを機に発足したNGO(民間支援団体)で、集まった募金を途上国政府や国連機関に委ねる団体ではなく、途上国の感染症の現状を確実に把握し、どの地域でどのくらい必要か、これまでの支援がどのように役立っているのか、支援が現地にとって適切なのか、日本の民間からの支援物資はどのように受け入れられているのかなど、募金が効果的に使われるよう調査して届けている。国内では細川佳代子氏が代表として募金活動を通じて、日本社会のボランティア活動の推進を行っている。2002年にはNPO(非営利活動)法人を取得している。

ボランティアへの目覚め

 私にとって、本当に何かしてあげたい、何かできることはないかと感じたのは今から8年前に起きた「阪神・淡路大震災」です。当時、被災地周辺の交通網は遮断されており、取材ということで鳥取から飛行機で関西国際空港へ飛び、大阪南港からチャーターした漁船で神戸までたどり着きました。辺りは想像もつかなかったほどひどい状況であり、大きな衝撃を受けました。私は本来の仕事であるカメラマンということを忘れ、カメラを回すことが出来ないというかカメラを回す前に何かやることがあるのではないかという衝動に駆られたのです。しかし、報道することは状況を伝えるというものであり、仕事として割り切り、被災地の取材を1週間ほど続けました。 
 地元に帰ってから、家族を失った人たちや家を失い避難所生活を続ける人たちなどを思い出すと取材する側とされる側のギャップの大きさに心が痛みました。やはり私には、餘部鉄橋列車転落事故の取材時から兆候はあったかと思いますが、心の痛む取材はやりたくないと感じ、カメラを回すぐらいなら何か自分で出来ることはなかったのかと振り返ります。
 「報道カメラマンだからできること」、「報道カメラマンだからこそしない方いいこと」があり、このことがカメラマンである私自身の一生の課題であると感じています。

モンゴルとの出会い

 私とモンゴルの出会いは、パンテツクユニオンのみなさんも交流のある兵庫県但東町での取材がきっかけです。但東町がモンゴルから女子留学生2名を3ヶ月間招待したことで、少女の体験の様子を取材に行くこととなりましたが、その間の密着取材が私とモンゴルとの出会いとなったのです。実は私自身、以前からモンゴルにも興味がありました。広大な自然、満天の星空など、とても素晴らしい国なんだろうと想像していたからです。
 取材から3ヶ月が経過し、留学生の帰国の日が来ました。その当時、モンゴルへの便は北京経由しかなく、ホームステイ先の方からも子どもたちだけでの北京空港での乗り換えが心配だという声がありました。そんなに心配なら誰かついて行ってあげればいいのにと思った瞬間、「私がついて行ってあげて、その道中と帰国の様子を取材しよう」と決めました。
 但東町での3ヶ月間という短いホームステイではありましたが、関西国際空港では涙、涙のお別れとなり飛行機に乗ることになりました。しかし、飛び立ったのもつかの間、北京の空港が大雪に見舞われ着陸できないとの機内放送があり、急遽、関西国際空港に引き返すことになりました。関西国際空港に舞い戻り、見送りに来ていた人たちに連絡を入れると「モンゴルに着いたの」と聞かれ「いや、関空にいます。次のフライトがいつになるかわかりません。関空まで引き返してきて下さい」と事情を話し、但東町への帰路についていた人たちに関空へUターンしてもらいました。ついさっき、号泣してお別れした直後に再び出会えることとなり、嬉しいような、恥ずかしいような、というおもしろいエピソードとなりました。結局その日はフライトが出来ず、次の日に無事出発することが出来ました。
 やはり予想していたとおり、北京の空港に到着しウランバートル行きに乗り換えようとした時に問題が起きました。彼女たちが中国のビザを持っていないことで押し問答となったのです。困ったことになかなか話が通じず、しのごのしている内に助け船が出されました。実はモンゴルの人は中国ビザを持たなくてもいいことを親切な人が教えてくれたのです。結局、入国審査の人がそのことを知らなかったばかりに、30分も飛行機を止めることとなり、波乱含みのモンゴル行きとなりました。モンゴルに到着したのは夕刻でしたが、冬ということもあり辺りはすでに真っ暗でした。初めてのモンゴルでの滞在といいたいところですが、実際には20数時間だけの滞在となり、翌々日の朝の8時には日本にとんぼ返りとなりました。帰国後、「いったい何をしに行ったんだろう。たしかに首都ウランバートルにはいたのだが?」と思い、ますますモンゴルに対する気持ちが高まり、翌年の夏に再び訪問することにしました。

モンゴルの実態

 モンゴルについて紹介しますと、首都はウランバートルで人口は約240万人、国土面積は日本の約4倍であり、ウランバートルに総人口の約3分の1が密集しています。1992年に旧ソ連に次いで2番目に民主国家として名乗りを上げたのですが、同年の旧ソ連崩壊とともに自由主義経済で国を再建しようとしていました。社会主義という国は企業にしても国営ですから、労働者が働く場を与えられそれなりの暮らしができていましたが、ひとたび自由主義経済となってからは非常に経済状況が悪化し、失業者が増加しました。現在では、社会情勢は改善しているものの都心部の失業率は依然と高水準となっています。
 その経済悪化の影響は遊牧民にまでおよびました。社会主義時代には国の管理下において羊や山羊など家畜の餌となる牧草などの配給も行われていましたが、自由主義経済となりその配給が止まり、3年前からは干ばつ、雪害の連続により遊牧民の生活の糧となる家畜が牧草を食べることが出来ないまま次つぎと倒れていきました。その結果、家畜を失い生活が出来なくなった牧民たちが、首都ウランバートルへと職を求め集まってくるようになりました。経済状況が悪化している中において、すぐに職が見つかるわけがなく、生活をしていく術をなくしてしまい路頭に迷ってしまう人々が増加していきました。みなさんもご存じのようにマンホールチルドレンと呼ばれる子どもたちは、夏には駅や路上で寝泊まりし、冬はマンホールの中で暮らすようになり、観光客からお金をもらい命をつないでいます。
 翌年モンゴルを訪れた私は、マンホールチルドレンである12才の少年と話をすることが出来ました。「いつからウランバートルにいるの?どうしてここへ来ることになったの?」と聞いてみると、彼は「1999年から。お姉さんが結婚して自分の居場所がなくなったから。」と答えました。彼は子ども心に家族に気をつかったに違いありません。また、河原にテントを張り生活をしている人たちのところへ行き、ある家族に話を聞いて見ました。親戚の二夫婦が同居しており、生活の場を失いここで暮らしているとのことでした。彼らの話では、施設のようなところでの生活を希望していたようですが、「大人の入る余地がない」と断られたのだと語っていました。また、ウランバートル市内には少年院があり、収容されている子どもたちの多くは食べるものに困って窃盗を働き保護されたものです。
 このようにモンゴルでは、情勢の悪化により各家庭の生活に影響を与え、親たちは自分たちの生活もままならない状況にまで追い込まれ、子どもたちを犠牲にしてしまうほどの深刻な実態になっています。
 今、モンゴルでは、大人の失業問題も取り上げなければなりませんが、一番問題にしなくてはいけないことは、犠牲になった子どもたちをモンゴル政府としてどう救済していくのかが鍵となります。しかし現状ではモンゴル政府単独での解決は不可能であり、各国のNGOの支援に頼っている状況にあります。以前に比べてマンホールチルドレンの人数は減少しているようですが、依然として数千人のストリートやマンホールチルドレンが存在していることは事実です。


遊牧民にとって貴重な財産である家畜と餌となる牧草


家族と離れて暮らすことになった経緯を話す12才の少年


厳しい経済情勢は深刻な失業問題も生み出している

(ひとくちメモ)
−モンゴルの雪害(ゾド)−
 ゾドとはモンゴル語で、冬の大雪や寒波、または水不足などで家畜が大量に死亡することを意味している。モンゴルでは、1999年夏の干ばつと猛暑により、牧草が育たず、家畜が越冬に充分な蓄えを得ることが出来ず、同年冬、30年ぶりに各地で大雪と寒波による被害が発生し、約225万頭もの家畜が死亡した。この被害が回復されないうちに、2000年夏、深刻な水不足とそれに伴う干ばつに見舞われ、遊牧民の生活にさらなる影響を及ぼし、今年さらに追い打ちをかけるかのように、雪害(ゾド)により約60万頭もの家畜の死亡が確認されており、被害数はモンゴルでの全家畜の20%にあたる約600万頭にものぼると予想されている。

支援のありかた

 このような国を超えた支援というものに対して私はJICA(国際協力事業団)、海外青年協力隊などが非常に大事な役割を持っていると思います。そんな中でも最も役割が大きいのはODA(政府開発援助)ではないかと思っています。支援物資にしてもいらないものを押しつけたり、高性能の機器を設置しても技術者がいないばかりに故障したときにはメンテナンスできないなど、結局大きな費用を使っても活かされていないことが実情としてあります。単にハコものを押しつけるのではなく、JICAのような「ひと対ひと」という人道的な支援が必要だと感じています。特にモンゴルの場合は、まず「食べる」ということが出来ない人たちが多い中で、困っている人たちに安心して生活してもらえるように、様々な方策を用い、手を差し延べることが必要だと感じています。
 また、ミャンマーでは、子どもたちが感染症にかからないようにJCVがワクチンを送り続けています。またモンゴルではNGOから食料や家畜の飼料、そして衣類など支援物資の提供を受け命をつないでいます。しかしながら、一方では子どもたちが義務教育期間を最後まで学校へ通うことが難しい環境にあることも現実であります。私自身の今後のテーマとして、「子どもたちは宝物」ということを世界の共通認識とし、義務教育期間中は必ず学校へ通えるような仕掛けづくりをしなければ現状の問題は解決しないのではないかと考えています。
 次に、これからの支援のあり方ですが、NGOにも様々な団体がありますが、それぞれ活動の進め方に違いがあります。募金や支援物資を募り、取りまとめたものを政府や機関を通じて送付しています。しかしこのようにして送付した募金や支援物資が、どのように配分されているのかについては不透明な部分が多く見受けられます。やはり支援する側としては、援助したものがいったいどのような形で、困っている人たちに渡されているのかを確認する必要があり、その不透明な部分を払拭するには「人から人へ」、「手から手へ」という手渡しを行うことが一番いい方法だと感じています。是非みなさんも、機会を見つけて自分自身で支援金や支援物資を手渡し、協力してくれた人たちに真実を伝達していただくよう心がけていただきたいと思います。

テレビ取材で訪れたベトナム、ホーチミン市(1998年)

ベトくん、ドクくんが暮らすツヅー病院

ベトナム戦争時の枯葉剤の影響が今もなお子どもたちに

(ひとくちメモ)
−ODAとは−
 ODA(Official Development Assistance 政府開発援助)とは日本政府から途上国の政府を通じて行う援助を指し、経済開発や福祉の向上を通じて、国民の生活向上に役立てることを目的とした機関である。モンゴルの雪害に対する緊急援助として日本政府は昨年、被災民救済のために約10億円もの緊急無償援助を実施、さらに2年連続の今冬の雪害においては深刻さを鑑み、新たに3億円の支援を行うことを決定している。

子どもたちの可能性

 ここまではモンゴルの悲惨な部分を紹介してきましたが、後半は明るい夢や明るい未来の可能性を持ったモンゴルの子どもたちを紹介します。
 ウランバートルから北へおよそ400kmほど離れたところにエルデネットという町があります。そこには露天掘りの銅鉱山があり、30年ぐらい前に「銅の町」として出来ました。
 銅が出土し、工場が出来て、モンゴル全土から多くの人が働きに出向いて来たのですが、そこで不幸にも、病気などにより死亡した人たちも多く、そのことによって親を失う子どもたちが出てくることになりました。
 このエルデネットという町に「エネレル子どもセンター」という民間の孤児院があります。フレルバートル院長が10年前に設立し、当初は2〜3人の子どもたちから始まったようですが、現在では120〜130人もの3才から18才までの子どもたちが勉学に励みながら生活しています。ここでの食生活ですが、子どもたちが自ら進んで農耕や牧畜などをし、小麦や野菜をつくり自給自足に近い生活をおくっています。また、この農園には20人ぐらいの子どもたちが生活しています。この農園の子どもたちは「エネレル子どもセンター」の子どもたちとは違い、知的障害を持った子どもたちが「向上心を持って生活し、自信を持って全てのことを学ぶ」ということをスローガンに農業での自立を目指して生活をしています。この農園ではキャベツ、人参、トマト、きゅうりや豆類など日本で栽培されている多くの農作物を栽培してきた実績があります。私はここの子どもたちが「この農園でもっと何か出来ることはないのか」との思いから、冬の寒さに強いリンゴの苗木を日本からモンゴルへ持ち込み、子どもたちと一緒になって植えることにしました。日本の果樹研究機関の話では、通常日本のリンゴの木は氷点下20数度までしか耐えられず、モンゴルのようにマイナス30度以下にもなる国で生育するかどうか疑問だと指摘されるなど、農業が素人の私には自信はありませんでした。でもほんの少しの可能性にかけてみることにし、リンゴの木をまず25本植えることにしました。心配は子どもたちの頑張りのおかげで吹っ飛び、見事にリンゴの苗木はマイナス40度という過酷な自然条件に耐え抜き、越冬することができました。その成果には、ここにいる子どもたちが1年を通して本当に頑張り抜いたことを物語っているのではないかと感じています。このリンゴの木には、苗木を贈ってくれた日本の子どもたちへの思いもあり、エネレルの子どもたちは「絶対に枯らさない」を合い言葉に頑張ってきたということも聞いています。この2月にもエルデネットまでリンゴの木を見に行ったのですが、雪害の雪を逆に利用して、リンゴの木をドーム状に雪で覆い、木の根もと辺りには家畜の糞を敷き、自然発熱を利用した天然の暖をとるといった昔から伝えられている生活の知恵を使ってさらに工夫を重ね頑張っていました。今では私たちがエルデネットを訪れると、まず「こんにちは」ではなく「リンゴの木は元気ですか」と聞き、「リンゴの木は元気ですよ」とモンゴルの子どもたちは答え、それが私たちの間での挨拶にまでなっています。
 昨年7月、ここの院長であるフレルバートル氏が病気のため突然他界しました。フレルバートル氏は、本当に優れた院長で子どもたちに対して実の親以上に親身になって思い、「エネレル子どもセンター」を盛り上げてきました。自ら山野に生息する狼や熊、狐の子ども、そして小動物を捕獲し動物園まで設立しています。また子どもたちの交流の場としてとして「民話の村」という施設を計画し建設が始まっています。そしてモンゴルの子どもたちだけではなく、日本の恵まれない子どもたちにまで、やさしい手を差し伸べてくれた素晴らしい方でした。私自身、院長の後を引き継ぐことは出来ませんが、心を引き継ぎ、このような逆境にめげず、こんなに向上心を持って頑張っている子どもたちの可能性にかけていきたいと心から思っています。リンゴの木のように子どもたちの夢に、子どもたちの未来につながる支援をささやかでも私は続けていきたいと感じています。
 大きな支援はなかなか個人では出来ません。みなさんがもし「何かしてあげたい」と思いモンゴルに行くようなことがあれば、「何か支援を」と考える前に、まずは子どもたちと交流していただきたいと思います。例えば「エネレル子どもセンター」に行くとすれば、まずは子どもたちと一生懸命遊んでいただければと思います。それが子どもたちに対する大切な交流となります。また、ウランバートルでの平均月収は日本円で1万円程度ですが、大学の学費は年間約4万円もかかるといわれています。施設でお世話になった場合には、ほんの少しの御礼がたいへん貴重なものとなります。このように無理をせず、自分の出来る範囲での支援でもモンゴルでは大変貴重であると感じると同時に、支援を長く継続していく秘訣ではないかと私自身感じています。

フレルバートル院長が子どもたちのために動物園も


子どもたちが動物たちの餌を運び世話もします

日本から送ったリンゴの苗木をみんなで植えました


マイナス40度の厳しい冬を越すために子どもたちの知恵でしっかりとした冬仕度を

モンゴルに露天風呂を

 昨年、私は知り合いに頼みウランバートル市内にエネレルの子どもたちに役立てるための小さな会社を設立することにしました。モンゴルでは野菜、砂糖などは輸入に頼っているのが現状であります。私の小さな夢ですが、子どもたちの学資にするために「リンゴを販売する。またジャムやジュースに加工し販売する」、「北海道で採れるビート(砂糖大根)をモンゴルで栽培して砂糖を作る」、「野菜は中国からの農薬だらけの輸入野菜ではなく、エネレル子どもセンターをはじめ、モンゴル国内で栽培された無農薬野菜を普及する」、そして「蕎麦を栽培してウランバートルに「日本そば屋」を開店させ、子どもたちの就労の場とする」。この4点を目標に是非実現させたいと思っています。
 また、モンゴルでは水がたいへん貴重であり、毎日風呂に入る習慣がありません。そこで「エネレル子どもセンター」に露天風呂をつくろうと考えています。薪で焚くボイラーがあることが確認できたので、この5月には石を積み上げてコンクリートで固め5〜6人が一度に入ることが出来る程度の露天風呂を完成させたいと思っています。みなさんの中にも一度モンゴルに行きたいと思われる方がいましたら、是非一緒に参加し、露天風呂をつくり、一番風呂を楽しみに行こうではありませんか。大草原が広がる中で、満天の星空を見上げながらの露天風呂は最高だと思います。
 しかし一方では、風呂から出る排水に問題があります。みなさんも風呂ではシャンプーや石鹸などで体を洗うことと思います。その水をそのまま排出することは自然を汚すことになり、見過ごすわけにはいきません。綺麗な水に戻してから、大地に返すことが必要となってきます。みなさんの会社は水のプロ集団と聞いており、無理なお願いかもしれませんが、水処理のアイデアをお手伝いしてもらえれば助かります。是非、実現させたいのでよろしくお願いします。


夏になると子どもたち全員で農作業を

日本での寒冷地農業の経験をいかして様々な野菜が育てられています

水や材木を運ぶのもみんな子どもたちの手で

最後に

 みなさんにはミャンマーでの出来事やモンゴルの子どもたちの話などを聞いていただきましたが、今日だけの思い出にしないようにして欲しいのです。私もみなさんのこれからの活動に役立てるようにホームページなども立ち上げ、情報をどんどん公開していきたいと思っています。
 最後に、子どもたちが夢に向かって追いかけていこうとする気持ちに少しでも応えていけるよう努力するとともに、私にこのような素晴らしい夢を贈ってくれた子どもたちに対し感謝したいと思います。これからも子どもたちの可能性を信じ、肩の力を抜いて、心の通う人道的支援を続けていきたいと思っています。本日は長時間にわたりご静聴ありがとうございました。

三多 隆志プロフィール
1953年:

鳥取県生まれ
東京写真大学写真応用科卒(現東京工芸大学)
西日本新聞社嘱託スチールカメラマンを経て、映像制作会社(株)ビデオ・プレス設立・代表取締役
1985〜1988年
(昭和60〜63年):
YTV報道局香住駐在カメラマン
「餘部鉄橋列車転落事故」を取材
1997年(平成9年): (有)シー・エヌ・ジー設立・代表取締役
現在、MBS報道局北近畿地区駐在カメラマン兼務、モンゴル訪問は20回を超える


2002年3月 ワールドカップエクアドルチームの取材に現地を訪問し地元の子どもと

浜坂町の子どもたちが、ウランバートルの子ども病院へ、粉ミルクと哺乳ビンの寄付を。三多氏の呼びかけが大きな輪に広がっています

モンゴル児童基金から表彰のメダルを授与される三多氏


センターの子どもたちを心から愛し育てたありし日のフレルバートル院長
左端は今もセンターをささえるツエルマー夫人

多くの人からの援助で未来を切り拓いている
「エネレル子どもセンター」の子どもたち