「誰かのために・・・ "心に響くことば"と ボランティア体験報告」 |
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日本基幹産業労働組合連合会 兵庫県本部 事務局長 山 崎 吉 博 |
「ご安全に!」は魔法の言葉 |
みなさん、ご安全に! ご紹介いただきました、基幹労連兵庫県本部で専従の事務局長をしている山崎です。私は、出身が神戸製鋼所労働組合の神鋼労組であり、神鋼環境ソリューション労組の大野委員長と年齢が同じで付き合いも長い関係から、今回、私がこれまで経験してきたことや、先日参加してきた連合主催の東北震災ボランティアの内容について、是非、新入社員のみなさんに紹介して欲しいという依頼を受け、この場に立って話をしています。どうかみなさん、最後までよろしくお願いします。と言っても、皆さんもお昼からの研修でお疲れでしょうし、大した話でもないかも知れません。話を聞いている途中で意識がとんでも結構ですので、リラックスして聞いてくださいねっ。 |
※ろうきんの企画定期『サポートV』 |
ボランティアと言うと、何か難しいことと構えてしまいがちですが、実は、負担なく自分のできることを見つけ、それを続けていくだけで誰かのためになることができるのです。みなさんも何かひとつでも自分ができることを見つけて、やり始めて欲しいと思います。 |
学生野球時代 |
さて、まずは私の生い立ちについて話をしたいと思います。私は福岡市に生まれ、元プロ野球選手だった父親の影響からか、子供のころから一所懸命野球に取り組む野球少年でした。
大会終了後、幾つもの大学・社会人からお誘いを受けました。その頃には借金取りも来なくなっていたものの、決して裕福ではなかったのですが、両親から「なんとかするから将来のためにも大学に行きなさい」と言われ、一番熱心に誘っていただいた専修大学に進学しようと考えました。高校野球部の監督(早稲田大学出身)にその旨を伝えると「東都の野球部は厳しいぞ・・・1年・2年で潰されてしまったら、野球も就職も出来なくなる」と親切な?アドバイスをいただいた事で急に不安になり、就職だったら関西の方がいいと思い、神戸製鋼所に入社することを、親にも相談せずに勝手に決めてしまいました。後で大学進学を止めて就職することを知った母親は、号泣してしまい、しばらく何も手につかない状態で、この時は本当に一言も相談せずに進路を決めてしまい申し訳なかったと思ったものです。 |
社会人野球時代 |
入社当時の神戸製鋼所は、"New Kobe 88"という合理化施策のまっただ中で、そんな時でも野球部の枠でピッチャーが3人とキャッチャーが2人入社するという、ある意味、社会人スポーツの良き時代だったのだと思います。 |
不動産事業を経て組合専従者へ |
現役を退いた後は、加古川製鉄所の工程室に配属になりました。入社して以来、野球中心の社会人生活を過ごしてきたことから、最初は何も分からず不安だらけでしたが、野球を通じて知り合いが多かったことや、持ち前の誰とでも仲良くなれるという性格のおかげで、何とかスムーズに野球中心の生活から業務中心の生活に移ることができました。 |
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こうして社業から離れ、組合の活動を業務とする専従者としての生活が始まりました。野球中心で社会人生活がスタートし、不動産業界で仕事のイロハを含めてしごかれて一人前(?)になり、労働組合の仕事が3回目のスタートというか、仕切り直しになった形です。ちょうど今から15年前のことであり、この時は1996年で私は29歳になったばかりの若造でした。それから神戸支部の専従執行委員を5期10年間と、06年からは神鋼連合の事務局次長、08年からは基幹労連兵庫県本部(基幹兵庫)の事務局次長、そして2010年からは基幹兵庫の事務局長として、ずっと労働組合の活動に関わってきました。今から考えると、高校を卒業して神戸製鋼所に入社してからやってきた会社の業務が野球部時代も含めて約10年ですから、それよりも労働組合での業務の方が長いことになります。 |
企業と地域の橋渡しが |
ここで、少し基幹兵庫についてご紹介したいと思います。基幹労連は、日本の主要な基幹産業である金属産業のうち、鉄鋼、造船重機、非鉄のほか、多くの関連業種で働く仲間が結集した産業別労働組合(産別)です。正式名称は「日本基幹産業労働組合連合会」、まさしく日本を支える基幹産業に集う「キーインダストリー集団」として、2003年9月9日に誕生しました。 |
基幹兵庫事務局長就任直後の初仕事 |
少し話が逸れましたが、基幹兵庫の活動についてもう少し紹介したいと思います。神戸に神戸ドックという船の修理などを行う、従業員数が70名(組合員は30名ほど)ほどの中小企業があったのですが、昨年の9月3日に会社更生法を申請し倒産、従業員は10月4日をもって全員解雇という事態が発生しました。基幹労連ではすぐに対策本部を立ち上げ、基幹兵庫が具体的な支援の窓口となり、正月を迎える費用としてカンパを実施し、組合員の生活を支援してきました。並行して、再就職あっせんの活動も進め、数名の方がまだ再就職先が決まってないものの、兵庫県本部の事務局が中心となった活動により、再就職を果たした方々もおられます。また、給料や一時金、退職金といった労働債務についても全額回収し、従業員へ分配することができました。昨年の9月3日というと、私は9月末の基幹兵庫の事務局長に就任を控えた時の出来事であり、初仕事が非常に重たい精神的に疲れる内容だったのですが、全力で取り組んできたことで、全員がハッピーとはならないものの、何とか道筋をつけることができたと思っています。本来なら、倒産、全員解雇など、あってはならないことなのですが、「そんなことは絶対にない」と誰も言い切ることはできず、そんなもしもの時だからこそ労働組合の活動は必要なんだと真剣に感じたこの数ヶ月でした。 |
東日本大震災の災害ボランティア報告 |
さてここからは、東日本大震災の被災地へボランティアに行ってきた話をさせてもらいたいと思います。今回は連合(日本労働組合総連合会)、つまり基幹労連や自動車総連、電機連合などの民間企業の産別、そして自治労といった公務員の労働組合が結集する日本の労働組合のナショナルセンターから基幹労連を通じて募集があり、参加してきました。 |
映像で見る災害ボランティア |
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東和ボランティアセンター(廃校になった小学校)の教室内です。一部屋16人ほどで雑魚寝状態でした。 左上は2日目の夕食でとんかつ弁当です。なかなかのボリュームがあり、おいしくいただくことができたのですが、翌朝も同じ様な揚げ物がメインの弁当が出たため、以降はさすがにメニューを変更してもらいました。東和町の旧小学校(今年の3月で統廃合による廃校)がベースキャンプとなっており、食事は同町の仕出し屋さんが朝夕配達に来てくれました。 |
ここからは釜石市内の写真です。漁船が陸地に打ち上げられ、悲惨な状況でした。 |
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ひっくり返った車の上に別の車が乗っかって、瓦礫が積み上げられたままとなっていました。活動時の服装は写真のとおりです。帽子、ゴーグル、防じんマスク、ゴム手袋、踏み抜き防止板入りの長靴、ウインドブレーカー(シャカシャカしたやつ)が必需品でした。 |
被災状況@ |
捜索活動状況 |
同じ釜石市内の状況です。ひどいものでした。 | これは瓦礫の撤去ではなく、自衛隊による被災者の捜索活動状況です。少しずつ丁寧に瓦礫を取り除いていました。 |
消石灰散布状況@ |
なぎ倒された電信柱 |
これは消毒のための消石灰散布状況です。今回の活動ではこの消石灰散布をメインに行いました。 | 電信柱もなぎ倒されておりました。津波の威力を目の当たりにしました。 |
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あちこちの家の外壁に赤いスプレーで文字がかかれていました。これは人の捜索に入ったことを示すもので、『×印』は、遺体があったところと聞きました。この写真の家の前で小さな女の子が一日中遊んでいました。そして少し離れたところにお父さんらしき男性が立っており、この女の子を見守っていました。これは私の勝手な想像かも知れませんが・・・、きっとこのご自宅に住んでいて、被災され、お母さんが亡くなられたか行方不明になったんだと思いました・・・。そう思うと悲しくて涙が止まりませんでした・・・。 |
写真奥に見えるのが消防署です。鉄筋コンクリートの2階建てで、この町の避難場所となっており、震災の当日も150人を超える住民が避難されたそうです。しかし、10mを優に超す津波により、避難された方は全員悲しい結果となったとのことです・・・。 |
避難場所となった消防署 |
被災状況A |
消石灰散布状況A |
市街地の状況です。 | 消石灰散布状況です。連日の消石灰散布でバケツを持つ腕がパンパンになりました。 |
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これは被災した住居から家財や思い出の品を取り出しているところです。写真のお母さんに許可をもらい撮影しました。「これからどうやって暮らして行けば・・・」とつぶやきながら被災した我が家を呆然と眺めていました。 |
釜石港の防波堤に大型船が打ち上げられていました。津波により陸地に流され、引き波により海へ戻されしているうちに最後は防波堤に打ち上げられたとのことです。このサイズの船を吊り上げるには最大級のクレーンが必要と思われますが、海上クレーンを使うにも浅瀬ですし、陸上クレーンを設置するエリアもありません。どうやって海へ戻すのか想像がつきませんでした。 |
防波堤に打ち上げられた大型船 |
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写真の様に津波を警戒する看板などが町のあちこちに見られました。港町なので、普段から津波への警戒はしていた様ですが、今回は想定外の津波だった様です。消防署の例がそれです。 |
瓦礫撤去状況 |
屋内被災状況 |
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この日は瓦礫の撤去と泥出し作業でした。津波に呑み込まれた屋内は家電やキッチンが押し倒されて、泥にまみれていました。買ったばかりのテレビも瓦礫と化していました。 |
瓦礫を撤去する重機 |
釜石駅前 |
これは鵜住居地区というところです。釜石市街より被害は大きく、何もかもが津波に流されていました。 | 釜石駅前です。釜石駅前は市街地から1kmも離れていないのですが、川を1本挟んでおり、この川のおかげかわかりませんが、被害は軽微だったようでした。 |
釜石警察署 |
決壊した巨大な防波堤 |
釜石警察署の写真です。津波によりシャッターが押し曲げられていました。 | 海辺の写真です。巨大な防波堤が決壊しておりました。 |
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津波により市街地に打ち上げられた新日鐵釜石の関係会社がキャビアをとるために養殖していたチョウザメです。おいしいと地元では評判のキャビアだったそうです。この震災で全滅したため、釜石のキャビアが食べられなくなったことは残念と地元のみなさんは言われてました。 |
確かにあんなに大規模な震災の後で、素人の自分たちができることは微々たるものなのかもしれませんが、小さな第一歩ですが、この一歩が次の一歩、そして続く人間の一歩につながるということだけは確信しています。 |
おわりに |
今日は、野球の話が多くて、肝心の震災ボランティア活動を紹介する時間があまりなく、みなさんたちには物足りなかったことになってしまい、大変申し訳ないと思っています。 |
以上 |
(文責:川端 健) |
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