「誰かのために・・・
"心に響くことば"と
ボランティア体験報告」
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日本基幹産業労働組合連合会 兵庫県本部
事務局長 山 崎 吉 博


「ご安全に!」は魔法の言葉


 みなさん、ご安全に! ご紹介いただきました、基幹労連兵庫県本部で専従の事務局長をしている山崎です。私は、出身が神戸製鋼所労働組合の神鋼労組であり、神鋼環境ソリューション労組の大野委員長と年齢が同じで付き合いも長い関係から、今回、私がこれまで経験してきたことや、先日参加してきた連合主催の東北震災ボランティアの内容について、是非、新入社員のみなさんに紹介して欲しいという依頼を受け、この場に立って話をしています。どうかみなさん、最後までよろしくお願いします。と言っても、皆さんもお昼からの研修でお疲れでしょうし、大した話でもないかも知れません。話を聞いている途中で意識がとんでも結構ですので、リラックスして聞いてくださいねっ。
 さて、先ほど私は"ご安全に!"と挨拶をしましたが、みなさんにはまだ馴染みがない言葉だと思います。この言葉は、ドイツ語の"Gluc Kauf(グリック アウフ)「ご無事で!」"という言葉がルーツになっています。この挨拶は、昔からドイツの鉱山では常識であったようで、一度鉱山に入ったら日常世間の感覚を断ち切って安全に徹するために、「こんにちは」といった言葉を一切使わないで、「ご無事で!」を使っていたそうです。こうした習慣が日本の炭鉱でも広がり、「ご無事で!」が「ご安全に!」となったものです。そして、鉄鋼業界に代表されるものづくりの会社で普通の挨拶言葉として定着してきたもので、現在は、基幹労連でも使われるようになりました。
 この「ご安全に!」という挨拶は非常に便利で、昼夜交代勤務で稼働している製鉄所でも、「おはよう」や「こんにちは」ではなく、一日中、時間に関係なく「ご安全に!」ですし、老若男女、先輩も後輩もベテランも新人も関係なく、元気よく「ご安全に!」という一言でコミュニケーションをとることができます。神戸製鋼所の主力製鉄所のある加古川の街では、繁華街の飲食店でも「ご安全に!」の挨拶が通用するほどです。
 ですから、最初は違和感を感じるかもしれませんが、みなさんも早くこの言葉に慣れて「ご安全に!」を使いこなし、安全の文化を継承して欲しいと思います。
 本日は、私が人生で経験してきたことを通じて学んだことをご紹介させていただき、みなさんに何かを感じて帰ってもらいたいと思います。ということで、まずは私自身のことについて少し話をさせてもらい、会社のこと、組合活動のこと、そして最後に東北のボランティア活動について話を進めるようにします。
 私の経歴については、お手元のレジメに記載しているプロフィールに詳しく書いてもらっています。特技のところに「献血における血の早出し」とありますが、これは普通10分程度かかる400ccの献血が大抵2分ほどで済んでしまい、担当する看護師さんも驚くのです。
 別に看護師さんを驚かせるために献血をしているわけではなく、私は自分ができる身近なボランティアとして、定期的な献血とろうきんが社会貢献活動として企画している定期預金をずっと続けています。


ろうきんの企画定期『サポートV』
 定期預金の金利の一部を、被災障がい者救援や復興を支援する『ゆめ風基金』や、親を亡くした遺児の就学費用として支援する『あしなが育英会』寄付するもの




 ボランティアと言うと、何か難しいことと構えてしまいがちですが、実は、負担なく自分のできることを見つけ、それを続けていくだけで誰かのためになることができるのです。みなさんも何かひとつでも自分ができることを見つけて、やり始めて欲しいと思います。
 もう一つ、経歴に書いている特技が「誰にでも声をかけられること」ですが、これは社会人として生きていく上で非常に役に立っています。まずは、すぐに顔を覚えてもらえるし、どこに行っても友達や協力してもらえる方が見つかります。本当は、私のことが苦手や嫌いな人も居るでしょうが、こちらからドンドン声をかけて、知り合いになり、いつの間にか友達になっています。ここでも、「ご安全に!」という言葉は便利で、魔法のように心のバリアを取り去ってくれるので重宝しています。きっと、このような性格だから、現在の労働組合の仕事も続けることができたのだと思います。



学生野球時代



講師も受講者もスーパークールビズで参加

 さて、まずは私の生い立ちについて話をしたいと思います。私は福岡市に生まれ、元プロ野球選手だった父親の影響からか、子供のころから一所懸命野球に取り組む野球少年でした。
 5年生から始めた少年野球では、ピッチャーをしたかったのですが、コントロールが悪く、ほとんど投げさせてもらえませんでした。中学では3年生になってようやくエースとなり、最後の大会に臨んだ区大会の一回戦で、2−0で勝っている試合を、最終回にフォアボールを連発して、逆転負けを喫してしまいました。僕はまったくストライクが入らない状況から、「交代させてくれないかなぁ」なんて思っていたのですが、監督にまったくその気はなく、試合後に監督は「皆には悪いけど、野球は良くても悪くてもピッチャーで決まるという事を山崎に体験して欲しかったので代えなかった・・・山崎にはいい経験になったと思うので、敗者復活戦から勝ち上がろう」と話してくれました。その後、区大会、市大会を勝ち上がりましたが、県大会では2回戦で敗退し中学の夏が終わりました。
 高校の進学については、中3の夏休み中には十数校から誘われていました。父親は自身の出身校でもあり、甲子園の常連である柳川高校に行かせたがっていたのですが、当時、徐々に実力をつけてきた福岡大学付属大濠高校を選びました。実はこのころ、父親が働いていた親族の会社が不渡りを出しており、父親は何とかしたいという思いから個人的に借金をしてしまったのですが、延命措置にしか過ぎず、年末には倒産しました。借金が残ったため、毎日のように強面の借金取りが家まで取り立てに来ていた時期であり、一時期は進学をあきらめようと思っていたのですが、母親が「何とでもするから好きなことをしなさい」と言ってくれ、大濠高校に進学し、野球を続けることができたのです。


真剣に聞き入る参加者

 高校の運動部、特に野球部というのは、メチャクチャ練習をするのですが、それ以外にも先輩後輩の関係が、ある意味主従関係にも近く、理不尽な事を言われ続けながら大変な日々を過ごしていました。1年生の夏の大会前、メンバー選考の合宿では、1年生からは4名が選抜されましたが、先輩もメンバーに選ばれようと必至で、何とか1年生には負けたくないとの思いからか、イヤガラセをされ、寝る時間もないほど明け方近くまで代わる代わる先輩のマッサージをしたりで、身も心も疲れ果てていました。このころの心の支えは、通学している同級生達からの「頑張って」の言葉であり、その同級生が持ってきてくれる冷凍トマトを、先輩に見つからないように食べることが唯一の楽しみでした。大濠高校では、1年生の時にはベンチに入ることができず、2年生の時にはベンチ入りし、春夏の甲子園出場を果たすのですが、甲子園での投球機会はありませんでした。2年生の秋からはエースとなりましたが、秋季大会は、右手親指の骨折で投げられず、3年生になり、甲子園には関係ない春季大会で優勝しました。その後、九州大会における好投もあり、夏は優勝候補に挙がりましたが、腎う炎という病気になってしまい、スイカとユンケルだけしか口にすることができない中で、夏の大会を迎え、最後はベスト16で力尽きてしまい負けてしまいました。
 大会終了後、幾つもの大学・社会人からお誘いを受けました。その頃には借金取りも来なくなっていたものの、決して裕福ではなかったのですが、両親から「なんとかするから将来のためにも大学に行きなさい」と言われ、一番熱心に誘っていただいた専修大学に進学しようと考えました。高校野球部の監督(早稲田大学出身)にその旨を伝えると「東都の野球部は厳しいぞ・・・1年・2年で潰されてしまったら、野球も就職も出来なくなる」と親切な?アドバイスをいただいた事で急に不安になり、就職だったら関西の方がいいと思い、神戸製鋼所に入社することを、親にも相談せずに勝手に決めてしまいました。後で大学進学を止めて就職することを知った母親は、号泣してしまい、しばらく何も手につかない状態で、この時は本当に一言も相談せずに進路を決めてしまい申し訳なかったと思ったものです。



社会人野球時代


 入社当時の神戸製鋼所は、"New Kobe 88"という合理化施策のまっただ中で、そんな時でも野球部の枠でピッチャーが3人とキャッチャーが2人入社するという、ある意味、社会人スポーツの良き時代だったのだと思います。
 入社当時は、前年にエースピッチャーがプロ野球に進んだこともあり、1年目から試合で投げていたのですが、夏前には腎う炎の再発で棒に振りました。3年目には復調し、試合に出場する機会が増え始めたのですが、ある時先発するも、初回に4点取られて負けてしまいました。その次の日バッティングピッチャーをしていると悪いことは重なるもので、打球がアゴを直撃し、骨折するという重傷を負いました。口にギブスを装着するので口も開けられないし、当然のようにものを食べることができないので、毎日流動食を流し込むだけの生活でげっそりと痩せてしまいました。1ヶ月後、アゴのギブスが取れて固形物を食べることができた日には、食べたいと想像していたものをお腹一杯になるまで食べ、翌日の朝、体重を計ると4.9キロ増えていたことが思い出されます。
 4年目にしてようやく活躍することができ、チームも登り調子で、都市対抗野球の地方予選を勝ち進み、東京ドームで行われる全国大会までたどり着くことができました。この時は抑え投手としてコンスタントに試合に出場していたことから、東京ドームのマウンドにも立つことができ、自身にとって初めて全国大会のマウンドに立てたことはとてもいい思い出です。
 私の得意な球種は、自分で勝手に命名した『ダイナマイトカーブ』と呼ぶ縦に大きく落ちるカーブと、これまた勝手に命名した『播州の流れ星』と呼ぶ高速スライダーでした。抑えとして防御率が1点台だった時期もありましたが、絶頂期もすぐに終り(笑)、肘を痛め手術をするも現役選手を続けることはできず、6年間の現役を引退しました。同時期に同期入社のピッチャーがドラフト指名を受け、プロ道に進んだことは、「これも運命」と悔いなく現役生活を退くことにつながりました。
 引退後会社の合理化の一環で、当時強かったラグビー部を除くほとんどのクラブ(野球部、バレー部、陸上部・・・)が休部となり、他の社会人チームに移籍した選手もいて、現実に色々な意味で厳しさを噛みしめた時でした。



不動産事業を経て組合専従者へ


 現役を退いた後は、加古川製鉄所の工程室に配属になりました。入社して以来、野球中心の社会人生活を過ごしてきたことから、最初は何も分からず不安だらけでしたが、野球を通じて知り合いが多かったことや、持ち前の誰とでも仲良くなれるという性格のおかげで、何とかスムーズに野球中心の生活から業務中心の生活に移ることができました。
 1年後には神戸本社の総務部に配属になり、その後、総合地域開発本部に配属され、神戸製鋼所が資産として保有していた遊休地を住宅地として再開発し、マンションを建設して販売するという業務に就きました。最初は六甲アイランドのマンションを販売していましたが、震災後には大久保駅前の大規模開発に携わるようになりました。これは神戸製鋼所の大久保工場の跡地に、『オーズタウン』と命名した街をつくり、1,500戸のマンションを建て、駅前の商業施設として映画館やボウリング場を併設するマイカルやビブレなどの店を開くというもので、神戸製鋼所とグループ会社の不動産部門の神鋼興産(現神鋼不動産)によるビッグプロジェクトでした。私は現地にあるマンションの販売センターに勤務し、マンションを売りまくっていたのです。当時、販売センターには神戸製鋼所の社員だけでなく、モデルルームということでパートの方や派遣の方など、多くの女性が働いていました。その女性のみなさんを束ねていくことが結構大変で、センター長もまとめきれないこともあり、私は持ち前の誰とでも仲良くなれる特技を活かし、最後には「裏のセンター長」と呼ばれるまでに、この職場になじんでいました。
 マンション販売は、有期の事業という性格上、マンションが完売すれば、いつかはまた別の現場に移ることが分かっていたのですが、そんな時に上司から「山崎君、労働組合の神戸支部で専従の役員の話があるんだけど?」とのお話がありました。どうしたら良いか悩んで野球部の先輩や前の部署の上司に相談したところ、相談に乗ってくれた皆さんから「組合の役員は誰にでもできる仕事ではなく、これまでの業務への取り組みや、野球を含め自分がやってきたことを会社がきちんと見ており、評価してくれている証だから頑張りなさい。」と励ましてもらいました。そんな経緯で、それまで何の組合経験もないままに、神戸支部専従の執行委員をやることになったのです。しかし、後で話を聞くと、実は相談を持ちかけた野球部の先輩が「山崎は明るいし、誰とでも仲良くなれるから組合の活動に向いている。」と推薦していたようで、その先輩にしてみれば「予想通り、相談に来よった・・・」と、ほくそ笑んでいたに違いありません。どんなことで人生が変わっていくのか、本当に誰にも分かりませんね。



身ぶり手ぶりを交え白熱する講演


 こうして社業から離れ、組合の活動を業務とする専従者としての生活が始まりました。野球中心で社会人生活がスタートし、不動産業界で仕事のイロハを含めてしごかれて一人前(?)になり、労働組合の仕事が3回目のスタートというか、仕切り直しになった形です。ちょうど今から15年前のことであり、この時は1996年で私は29歳になったばかりの若造でした。それから神戸支部の専従執行委員を5期10年間と、06年からは神鋼連合の事務局次長、08年からは基幹労連兵庫県本部(基幹兵庫)の事務局次長、そして2010年からは基幹兵庫の事務局長として、ずっと労働組合の活動に関わってきました。今から考えると、高校を卒業して神戸製鋼所に入社してからやってきた会社の業務が野球部時代も含めて約10年ですから、それよりも労働組合での業務の方が長いことになります。
 組合の役員をやる前は、会社のことをあまり考えたことがなかったのですが、今は何か飲むのだったらペットボトルではなくてアルミ缶のものを無意識に選んでいるし、街を歩いていて建設現場に『KOBELCO』のクレーンやショベルが稼働している姿を見ると無性に嬉しくなっている自分がいます。また、神鋼労組、神鋼連合、そして基幹兵庫と関わる組織が大きくなり、自分の立場が変わってくると、責任が重くなると同時に自分の世界も広がってきたように思います。そういう意味では、周りの多くの方々に支えられ、今の自分があるのだと気付かされます。



企業と地域の橋渡しが
労働組合の仕事のひとつ


 ここで、少し基幹兵庫についてご紹介したいと思います。基幹労連は、日本の主要な基幹産業である金属産業のうち、鉄鋼、造船重機、非鉄のほか、多くの関連業種で働く仲間が結集した産業別労働組合(産別)です。正式名称は「日本基幹産業労働組合連合会」、まさしく日本を支える基幹産業に集う「キーインダストリー集団」として、2003年9月9日に誕生しました。
 北は北海道から南は九州まで、全国にわたり構成組織数約730組合(単組・支部)、約25万人で組織される産別です。42都道府県には県本部または県センターを置き、兵庫県本部は108組合で構成された約4万5千人の構成人員を誇る最大の県本部なのです。次に規模が大きいのは愛知県本部ですが、それでも2万数千人と半分程度の人数であることを考えると、兵庫県が基幹労連という産別の中でいかに重要な位置づけか理解できるかと思います。兵庫県には鉄鋼業では新日鉄の広畑、神戸製鋼所の神戸・加古川をはじめとするグループ各社(もちろんSKSさんもその一員ですよ)、造船機械の三菱重工の神船に高砂、川重神戸や明石、IHI相生、三菱マテリアルの三田・・・と大手の企業が名を連ね、そのグループ企業、関係会社も含め、非常に大きな影響力を持っている地域といえるでしょう。
 その兵庫県本部の委員長は、神鋼労組加古川支部の住山委員長であり、事務局長の私も神鋼労組神戸支部出身で、神鋼労組神戸支部・高砂支部や神鋼鋼線工業労組の委員長も県本部の役員として協力していただいており、もちろん大野委員長も会計監査の役を受け持っていただいているという、神鋼グループというか神鋼連合のみなさんに支えられています。
 少し前の神戸製鋼所という会社は、総会屋への利益供与の問題や、加古川の排ガスデータ改ざんなどの煤塵問題、そして組織内議員への不適当な支出などといった諸問題で、みなさんの先輩方には、いろいろとご心配とご迷惑をかけていた時代があります。
 企業というのはそこに存在し、生産活動をすることで、雇用の創出と納税という形で社会に貢献していますが、その反面、地域環境にとっては負荷を与える存在であることも事実です。そのような意味では、企業は営利活動だけでなく、地域に対する社会貢献という観点からも何らかの形で恩返しをしていく必要があると思っています。そこに住み、生活をしている住民のみなさんに受け入れられ、地域と共生するような企業が、先々まで繁栄をすることが許されるのではないかと思います。少なくとも神戸製鋼所グループはそのような企業グループを目指して欲しいし、労働組合という立場からも地域との橋渡しができればと思っています。



基幹兵庫事務局長就任直後の初仕事


 少し話が逸れましたが、基幹兵庫の活動についてもう少し紹介したいと思います。神戸に神戸ドックという船の修理などを行う、従業員数が70名(組合員は30名ほど)ほどの中小企業があったのですが、昨年の9月3日に会社更生法を申請し倒産、従業員は10月4日をもって全員解雇という事態が発生しました。基幹労連ではすぐに対策本部を立ち上げ、基幹兵庫が具体的な支援の窓口となり、正月を迎える費用としてカンパを実施し、組合員の生活を支援してきました。並行して、再就職あっせんの活動も進め、数名の方がまだ再就職先が決まってないものの、兵庫県本部の事務局が中心となった活動により、再就職を果たした方々もおられます。また、給料や一時金、退職金といった労働債務についても全額回収し、従業員へ分配することができました。昨年の9月3日というと、私は9月末の基幹兵庫の事務局長に就任を控えた時の出来事であり、初仕事が非常に重たい精神的に疲れる内容だったのですが、全力で取り組んできたことで、全員がハッピーとはならないものの、何とか道筋をつけることができたと思っています。本来なら、倒産、全員解雇など、あってはならないことなのですが、「そんなことは絶対にない」と誰も言い切ることはできず、そんなもしもの時だからこそ労働組合の活動は必要なんだと真剣に感じたこの数ヶ月でした。



東日本大震災の災害ボランティア報告


 さてここからは、東日本大震災の被災地へボランティアに行ってきた話をさせてもらいたいと思います。今回は連合(日本労働組合総連合会)、つまり基幹労連や自動車総連、電機連合などの民間企業の産別、そして自治労といった公務員の労働組合が結集する日本の労働組合のナショナルセンターから基幹労連を通じて募集があり、参加してきました。
 私は、連合救援ボランティアとして初めて被災地に入る第1陣として岩手県の釜石市を中心に活動してきました。3月31日から移動日を含めて9日間という長丁場だったのですが、目にするものがこれまで見たことのない言葉にできないような、只々、凄いとしか言いようのない中での活動であり、無我夢中の作業で"衝撃と感動の"9日間が過ぎて行ったような気がします。連合では、この第1陣以降、数カ月の間に約2万5千人規模のボランティアを被災地に送り込む計画です。ひょっとしたら、若いみなさんたちにもそのような機会が訪れるかもしれませんね。
 3月末といえば、まだ大きな余震もあり、行方不明者もまだまだ数が増えていくような大変な時期だっただけに、最初は最大規模の県本部の事務局長が、事務の仕事を放り出して参加しても良いものかと随分悩みましたが、本部の偉いおじさんが「誰も何もしないで、安全なところでグチャグチャ言っていても何も変わらないよ。危なかったら危ない、ダメだったらダメと、誰かが行動を起こしてこそ、次につながる何かになるんではないかな?」と言ってくれたことで、心の中のモヤモヤがすっきりし、「俺が行かねば、俺がやらねば、誰にも広がらない。」と決意したのです。外野からは、いろいろと雑音も聞こえてきましたが、結果的に無理をしてでも参加をして良かったと思っています。
 ここからは写真を使って説明します。



映像で見る災害ボランティア



教室を寝室に

 東和ボランティアセンター(廃校になった小学校)の教室内です。一部屋16人ほどで雑魚寝状態でした。
 左上は2日目の夕食でとんかつ弁当です。なかなかのボリュームがあり、おいしくいただくことができたのですが、翌朝も同じ様な揚げ物がメインの弁当が出たため、以降はさすがにメニューを変更してもらいました。東和町の旧小学校(今年の3月で統廃合による廃校)がベースキャンプとなっており、食事は同町の仕出し屋さんが朝夕配達に来てくれました。

 ここからは釜石市内の写真です。漁船が陸地に打ち上げられ、悲惨な状況でした。



漁船が陸地に・・・



瓦礫の上に車が・・・

 ひっくり返った車の上に別の車が乗っかって、瓦礫が積み上げられたままとなっていました。活動時の服装は写真のとおりです。帽子、ゴーグル、防じんマスク、ゴム手袋、踏み抜き防止板入りの長靴、ウインドブレーカー(シャカシャカしたやつ)が必需品でした。


被災状況@

捜索活動状況
 同じ釜石市内の状況です。ひどいものでした。  これは瓦礫の撤去ではなく、自衛隊による被災者の捜索活動状況です。少しずつ丁寧に瓦礫を取り除いていました。


消石灰散布状況@

なぎ倒された電信柱
 これは消毒のための消石灰散布状況です。今回の活動ではこの消石灰散布をメインに行いました。  電信柱もなぎ倒されておりました。津波の威力を目の当たりにしました。


倒壊した家屋

 あちこちの家の外壁に赤いスプレーで文字がかかれていました。これは人の捜索に入ったことを示すもので、『×印』は、遺体があったところと聞きました。この写真の家の前で小さな女の子が一日中遊んでいました。そして少し離れたところにお父さんらしき男性が立っており、この女の子を見守っていました。これは私の勝手な想像かも知れませんが・・・、きっとこのご自宅に住んでいて、被災され、お母さんが亡くなられたか行方不明になったんだと思いました・・・。そう思うと悲しくて涙が止まりませんでした・・・。

 写真奥に見えるのが消防署です。鉄筋コンクリートの2階建てで、この町の避難場所となっており、震災の当日も150人を超える住民が避難されたそうです。しかし、10mを優に超す津波により、避難された方は全員悲しい結果となったとのことです・・・。


避難場所となった消防署


被災状況A

消石灰散布状況A
 市街地の状況です。  消石灰散布状況です。連日の消石灰散布でバケツを持つ腕がパンパンになりました。


被災した我が家を呆然と眺める・・・

 これは被災した住居から家財や思い出の品を取り出しているところです。写真のお母さんに許可をもらい撮影しました。「これからどうやって暮らして行けば・・・」とつぶやきながら被災した我が家を呆然と眺めていました。

 釜石港の防波堤に大型船が打ち上げられていました。津波により陸地に流され、引き波により海へ戻されしているうちに最後は防波堤に打ち上げられたとのことです。このサイズの船を吊り上げるには最大級のクレーンが必要と思われますが、海上クレーンを使うにも浅瀬ですし、陸上クレーンを設置するエリアもありません。どうやって海へ戻すのか想像がつきませんでした。


防波堤に打ち上げられた大型船


避難看板

 写真の様に津波を警戒する看板などが町のあちこちに見られました。港町なので、普段から津波への警戒はしていた様ですが、今回は想定外の津波だった様です。消防署の例がそれです。


瓦礫撤去状況

屋内被災状況


泥出し作業状況


 この日は瓦礫の撤去と泥出し作業でした。津波に呑み込まれた屋内は家電やキッチンが押し倒されて、泥にまみれていました。買ったばかりのテレビも瓦礫と化していました。



瓦礫を撤去する重機

釜石駅前
 これは鵜住居地区というところです。釜石市街より被害は大きく、何もかもが津波に流されていました。  釜石駅前です。釜石駅前は市街地から1kmも離れていないのですが、川を1本挟んでおり、この川のおかげかわかりませんが、被害は軽微だったようでした。


釜石警察署

決壊した巨大な防波堤
 釜石警察署の写真です。津波によりシャッターが押し曲げられていました。  海辺の写真です。巨大な防波堤が決壊しておりました。


陸に打ち上げられたチョウザメ


 津波により市街地に打ち上げられた新日鐵釜石の関係会社がキャビアをとるために養殖していたチョウザメです。おいしいと地元では評判のキャビアだったそうです。この震災で全滅したため、釜石のキャビアが食べられなくなったことは残念と地元のみなさんは言われてました。
 以上で写真は終了です。


 確かにあんなに大規模な震災の後で、素人の自分たちができることは微々たるものなのかもしれませんが、小さな第一歩ですが、この一歩が次の一歩、そして続く人間の一歩につながるということだけは確信しています。
 実際に被災地に立ち、その空気を感じ、本当に何も無くなってしまった街を目の当たりにし、被災された人々と出会い、行動してきたことは、他には代えられない体験であったと思っています。本当に感じてきたことだから、自分の家族や親兄弟、友達、会社の先輩後輩・・・といった、多くの人に被災地のことを伝えたいと思っています。そういう意味で、こうして神鋼環境ソリューションの新入社員のみなさんに、話を聞いてもらう機会を作っていただけたことは、本当に感謝しています。私も40才半ばとなり、体力的には無理なのかもしれませんが、もし再び機会が回ってくることがあるのなら、迷わずにまた被災地に行くことを選択すると思います。



おわりに


 今日は、野球の話が多くて、肝心の震災ボランティア活動を紹介する時間があまりなく、みなさんたちには物足りなかったことになってしまい、大変申し訳ないと思っています。
 最後に新入社員のみなさんに対し、私の経験から得た、「勝手に思う」3つのアドバイスを伝えたいと思います。
 まず最初は「いじられやすいキャラクターになってください。」です。いじられやすいキャラクター、つまり誰からも気にかけられ、声をかけてもらえるような人間をめざしましょう。
 次に「物事を真剣に考えることができる人になってください。」です。これは、社会人になると、学生時代とは違い理想や夢など青臭いことを言うことが恥ずかしくなってしまうものですが、会社のこと、自分の生活のこと、夢や生きがい、仕事のやりがい・・・いろいろなことに対して、真剣に考えることができる人になって欲しいということです。
 3つ目は「社会貢献をはじめとした様々な活動に参加してみて下さい。」です。何か行動できる人が、次のチャンスをつかみ、新しい知恵や知識、新たな人のつながりを広げることができるのです。
 まずは行動! そして動きながら考えて、次の展開につなげていく、必要であれば軌道修正をする、そんなことを心がけていると、5年後そして10年後に自分の立ち位置が、何も考えていない人と比べて全然違うところまで進んでいることに気づくでしょう。
 みなさんは若く、これから社会人としての生活が始まります。たった3つのことを心がけるだけで、自分でも思っていないような人生が未来に待っているかもしれません。
 今日は「誰かのために・・・"心に響くことば"とボランティア体験報告」と題して講演をしましたが、自分でも、心に響く言葉を伝えることができてなかったのでは? そもそもボランティア体験の報告は時間が短かったし・・・と反省すること然りです。しかし、少しでもみなさんの心に何か響く言葉があり、それが残ってくれれば、そして、何か一つでも、小さなことでも、行動に移してくれるようなことにでもなってくれれば、とても嬉しいと思います。
 本日は、取り留めもない話になってしまい申し訳なかったですが、最後まで聞いていただきありがとうございました。  

以上
(文責:川端 健)


講師プロフィール

氏   名 山崎吉博(やまさきよしひろ)
    (1967年4月3日生まれ44歳)
出 身 地 福岡県福岡市
  1986年3月 福岡大学付属大濠高等学校卒業
  1986年4月 株式会社神戸製鋼所入社
  1996年9月〜 神戸製鋼所労働組合(神戸支部) 専従
  2006年9月〜 全神戸製鋼労働組合連合会
  2008年9月〜 日本基幹産業労働組合連合会 兵庫県本部
家族構成 妻、娘
趣   味 ゴルフ(下手なクセに大好き)
特   技 献血における血の早出し
誰にでも声を掛けられる事
主な記録 長浜ラーメンの替え玉12回(合計13玉)


フレッシュセミナー参加者集合写真