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特定非営利活動法人しゃらく
代表理事 兼 事務局長 小 倉   譲


神鋼環境ソリューション労働組合
(エコユニオン)とのかかわり

 みなさんこんばんは。特定非営利活動法人(NPO法人)「しゃらく」の代表理事 兼 事務局長の小倉と申します。今晩そして明日の昼まで、みなさんと一緒に研修を行っていきますので、どうかよろしくお願いします。
 みなさんは、しゃらくという特定非営利活動法人をご存知ですか? 大半の方はご存じないですよね。しゃらくとは何か、どのようなことをやっているのかということは、追々、説明をするとして、まずはなぜしゃらくの小倉がこの場所で講演しているのか? 神鋼環境ソリューション労働組合(エコユニオン)のみなさんとは、どのような関わりがあるのか?ということについてお話ししたいと思います。
 そのためには、まず「生きがいしごとサポートセンター」の事業について説明しないといけません。生きがいしごとサポートセンターというのは、兵庫県が地域に貢献し地域での新しい働き方を応援することと、そうした仕事をしたい人と働く場をマッチングするという目的のために予算化を行い、具体的な運営をNPOに委託するという形でNPO団体の事務所に設けられています。これは2000年(平成12年)から始まり、現在は、神戸東、神戸西、阪神南、阪神北、播磨西、播磨東、の6地域で、公募による審査を経て、NPOによる生きがいしごとサポートセンターが活動を展開しています。
 民間と行政の協働事業としての試みとなった、これらの挑戦は、ミッション(使命)と事業経営のバランスの難しさなどの課題を抱えながら、広い意味の「しごと」(社会に役立っている実感)とそこから広がる人間関係によって、誰にとっても生きがいを得ることができることを、私たちに教えてくれました。
 その生きがいしごとサポートセンターのひとつに、私たちのしゃらくも選ばれ活動を始めたのですが、民間と行政の共同事業をコーディネートするとは言っても、当時、若干28歳の若造にコーディネートを依頼してくる企業もなく、また声をかけようともその伝手もなく、年度末の予算執行の期日が迫り困り果てていました。その時に、今日と同じようにエコユニオンのセミナーで講演の経験のある兵庫県の清原理事から紹介を受けて、県の担当者と一緒に関谷前委員長を訪ねたことが、エコユニオンとの関わりの初めです。
 そして、当時、定年退職が目前となった方々を対象にセミナーを計画されていることを聞き、年度末ギリギリの2007年3月31日に、セカンドライフ準備セミナーを開催していただきました。そのセミナーの、企画構成および講師の派遣も含めたコーディネートをしゃらくで行い、会場の使用料や講師の派遣料の一部に兵庫県からの事業予算を割り当てることにより、エコユニオンのみなさんにとってもセミナーの充実と費用の抑制を図ることができ喜んでいただくことができました。その一方で、兵庫県としゃらくとしても、民間と行政の共同事業をNPOがコーディネートするという、生きがいしごとサポートセンターの活動実績が出来上がったわけです。
 頑張ってNPOを立ち上げ、厳しい公募を突破し、ようやく生きがいしごとサポートセンターに選ばれて、予算を獲得したものの、あやうく何の実績も上げることができず年度末を迎えるところを、関谷前委員長や石田前事務局長そして現在の大野委員長のおかげで、兵庫県と手を携えたNPO活動の一歩を踏み出すことができ、そのことが、現在のしゃらくの事業の発展につながっていると言っても過言ではないのです。



講義を受けるメンバーの真剣なまなざし


 というわけで、活動の立ち上げの時期に受けた恩義を忘れずに、相談事があれば何をおいても駆けつけ、知恵を絞ることでその恩返しをしています。これまでも、定年退職間際の方だけでなく、OBの方、ユニオンの役員の方を対象にした研修など、様々な形で協力をしてきた経緯があり、今回は、大野委員長から「ゼロからNPOを立ち上げ、社会貢献に命を捧げる、小倉譲の波乱万丈で壮絶な生き様」について、若い方を対象に熱く語ってほしいと依頼を受け、この場に立っているというわけです。
 大野委員長は「波乱万丈で壮絶な生き様」と言われていましたが、あまり壮絶な部分を赤裸々に語ると、今の言葉でいう「ドン引き」状態になってもいけないので、ある程度はオブラートに包んでマイルドな表現を心がけたいと思います。本日の講演の後には、ワークや夜を徹してのフリーデスカッションも予定されていると聞いていますが、どうか逃げ出さずに最後まで聞いていただき、明日の昼の研修終了までお付き合い下さい。



特定非営利活動(NPO)法人
「しゃらく」とは

 それでは、私たちしゃらくの活動の組織と活動を簡単に紹介させていただきます。図に示す通り、常勤スタッフが12名、パートスタッフが2名、医師や看護師やヘルパーといった専門職の登録スタッフが40名、ボランティアが30名で事業活動を行っています。
 事業は大きく2つに分かれており、ひとつは要介護者の旅行を企画サポートする「しゃらく旅倶楽部事業」、もう一つは、先ほど説明した生きがいしごとサポートセンターや、ホームページ開設、チラシなどのドキュメント作成支援、パソコン教室などの支援…他、NPO活動の立ち上げや継続を支援する「インキュベート事業」です。



NPO法人 しゃらく 組織図


 そして、具体的な活動を展開していくうえでベースとなる考え方というか、法人の存在意義や事業を行うための使命をミッションとして、次のように定義しています。
 法人全体のミッションは、「新たなライフスタイルを提案し、心のバリアフリーを推進する」を基本理念に、主にシニア、シルバーの世代に対して、誰もが活躍できる場の創出と、いかなる状況であっても生きがいのある人生を送ることができるよう、しゃらくのスタッフが一丸となって最大限のサービスを提供することです。
 しゃらく旅倶楽部事業のミッションは、「誰でも行きたいときに、行きたいところを!」を合言葉に、加齢や健康上の理由で旅を諦めている方に対して、それぞれのニーズにあった旅をお手伝いする。そして、最高の笑顔を生み出し、人生最高の日になるように最大限の支援を行うことと、この事業の仕組みを社会に広めることにより、新たな価値文化と市場を作り出すことです。
 インキュベート事業のミッションは、地域で頑張る様々な団体に対して、親切・丁寧をモットーに同じ目線にて共に悩み、共に考え、共に成長し、市民参画による創造的社会の構築に一役を担うことです。 
 「社会は変わる」、「社会は変えられる」と信じることが、私たちが最も大切にしているメンタリティであり、そのためには、「常に地域や社会の課題を意識する」、「どんなインパクトを与えることができるのかを常に考える」、「社会への存続可能なアプローチとは何かを意識する」ことが重要だと言えます。
 つまり、しゃらくは「社会を良くしようと思って活動をしている団体」であり、具体的には、身体に障害を持っている方や、要介護状態の方、地域の中で何をすれば良いかわからず悩んでいる年配者の方などを対象に、何かできないかと問題意識を持ち、その解決のために取り組んでいます。そして、私たちの考える答えの一つの形がしゃらく旅倶楽部事業なのです。



「しゃらく旅倶楽部」事業の紹介

 ここで、少し「しゃらく旅倶楽部」についてご紹介したいと思います。私たちが提供している旅行は他の旅行会社と何が違うのかというと、要介護や要支援の方、身体に障害のある方、病を患っている方に対し、介護付きの旅行を提案しているというものです。
 そもそも、介護が必要な方々に旅行に行きたいというような要望があるのでしょうか? 答えは「イエス」です。アンケートの結果では、63.6%の方が、旅行に行きたいと感じています。個々人でニーズは違いますが、「死ぬ前に、もう一度、夫婦の思い出の場所に一緒に行ってみたい」、「長年連れ添った夫の墓参りに行きたい」、「故郷に帰って50年ぶりに昔の友人に会いたい」、「甲子園で阪神タイガースの応援をしたい」…など、様々な要望が寄せられます。しかしながら、「体力が持つのだろうか?」「バリアフリーのホテルは本当に自分にとって十分な設備が整っているのか?」、「移動中に頻繁にトイレに行きたくなるが、トイレはどこにあるのか?」、「透析や注射をする必要があるが、旅行先に病院はあるのか?」、「一人で移動できないので、家族に迷惑をかけたくない」…という、不安を解消することができず、旅を諦めているのです。
 近年は高齢者用の介護オムツが充実し、テレビコマーシャルで目にする機会もあるので一般的に認知されていると思います。しかし、実際に介護オムツを使う必要がある方にとっては、大げさだと言われるかもしれませんが、人間としてのプライドを傷つけられ、尊厳を損なわれるというように感じている方もおられます。家の中ならすぐにトイレに行けるのでオムツをはかないで済む方も、旅行中はそうとも限らないのでオムツをはく必要がある。でもオムツをはくぐらいなら旅行には行きたくない、という方もおられるのです。
 また、最近は平均寿命が高くなり、80〜90歳の高齢者の子供さんは60歳代というような、高齢者が高齢者を介護するという状態にもなっており、体力的に家族が要介護者を伴って旅行に出るということは、非常に難しい状態になっています。



しゃらく旅倶楽部 紹介


 私たちは、日帰りから宿泊までの様々なケースで、既に700件もの要介護者の方の旅行をサポートさせていただきました。重篤なケースでは、ヘルパーだけでなく、医師や看護師が同行することもありましたが、おかげさまで旅行中に大きな事故にあうことには至っていません。勿論、旅行後に亡くなる方もおられますし、旅行前に亡くなった方もおられますが、旅行に出発し戻ってこられた方々は、全員が満足し元気になってくれます。体力的に無理をしていても、病院のベッドの上で過ごす日々と比べて、刺激と精神的な充実を得ることができるからです。こうした経験から、私たちは「旅は最高のリハビリ」だと考えています。それも、心のリハビリです。そしてこの心のリハビリが、また旅に出たいという希望になり、身体のリハビリに励むことにつながっています。
 まさに、一つの旅は旅から戻ってくることで旅が終わるのではなく、その先の旅に続くプロセスになってくれていると思うのです。



旅の風景
 写真の方は、5本の指に入るほどの重篤な方のケースでした。ほぼ寝たきり状態のおばあさんで、富山の本家にある夫の墓参りと、50年ぶりに友人に会いたいというご要望でした。まずは、寝たきり状態のおばあさんが使う大型の車いすが、移動できるのか、交通手段、通路、トイレ、昼食を食べるレストラン、ご主人のお墓までのアクセス(他の方のお墓、1軒、1軒に車いすを通すためのボードをかけさせてもらう承諾ももらいます)… そのような懸案事項を、現地調査によって一つずつ潰して、プランを練り上げていきます。その上に、今回は50年ぶりに友人と会いたいということで、古い一枚の写真を手掛かりに、地元を虱潰しに1軒、1軒に声をかけて探していきました。こうした事前調査で、富山での2泊3日の調査が2回、勿論、主治医の先生にも相談し、事務所でのプランニングを経て、ようやく1泊2日のプランが固まりました。結果として、ご要望を受けた内容は全て叶えることができ、プラスαのサプライズとして、もう一人の知り合いも探し当て、再会を果たすことができました。もっとも、この方は認知症が進んでいたので、少し話がチグハグでかみ合わないというオマケもありましたが…
 この、1泊2日の富山旅行の費用が約70万円でした。これはかなり高いケースですが、最も安い日帰りのケースでも10万円程度、1泊2日の標準ケースなら30万円程度、一番高かった例では160万円という旅行もありました。これを高いと感じるか、安いと感じるか、人それぞれだと思います。元気なみなさんなら、きっと高いと感じるでしょう。しかし、介護を必要としているお客さんやそのご家族にとっては、暴利ではなく必要な経費の積み上げで算出された、それだけの費用を払っても叶えたい最後の要望があるということです。亡くなった後に、豪華なお葬式でお金を使うよりも、最後の思い出を本人や家族と共に作るということに、価値を見出す方も多いのではないでしょうか?
 それは、しゃらく旅倶楽部のリピーター率が、約80%もあるということでもわかると思います。旅の後に亡くなっている方もおられるので、実際の比率はもっと高いかもしれません。

  衝撃を受けた祖父との体験が
          「旅はリハビリ」の原点

 また、今回ご紹介したケースとは別のお客様で、同じように「小学校時代の友人に会いたい」との依頼で、その友人を探したのですが、その方は2年前に他界されていた為、目的をお墓参りとしたことがありました。その際に、その方の娘さんとお孫さんに会えたのですが、娘さんから、「いつまで生きたという長さではなく、最後に何を望んでいるのか、そしてそれをどれだけ叶えてあげられるのかで、幸せな気持ちで人生を終えることができると思います。もう少し早く、小倉さんたちの存在を知っていれば、亡くなる前に反対に昔の友達に会いにいけたかもしれず残念です。」と言われていたことが印象的でした。
 元々は、私の祖父が車いす生活で、普段は家のベットから食卓やトイレぐらいまでしか移動をすることはなく、何年も旅行に行ったことがなかったのです。その祖父が「人丸神社にお参りに行きたい」というので、近所の神社だろうと探してみると、家の近くにはなくよくよく聞くと、祖父の故郷である四国の徳島鳴門にある神社であることがわかりました。そこで、おじいちゃん孝行で私が祖父を連れていくことになったのですが、いざ目的の神社に到着すると、神社には良くある石の階段が行く手を阻んでいるではありませんか。しかたがないので、車いすが通ることができるスロープを探そうとしていると、祖父がおもむろに手すりをつかんで立ち上がり、石段を一段ずつ登り始めたのです。この姿を目にして、私の中で何かが弾けるほど衝撃を受けました。思えば、このときの衝撃が「旅はリハビリ」ということにつながっていったのだと思います。



NPO法人しゃらくの最終目的

 私たちが、このしゃらく旅倶楽部事業で目指していることは、「仕組み」を作り、「波及効果」を生み出すことだと考えています。私たちは年間180人程度のお客さんに対応しており、言い換えると年間180人の方しか幸せにすることができていません。しかし、私たちの蓄積したノウハウを旅行会社や介護施設に伝えることにより、その幸せの数は増えることになります。例えば、5年先までに10団体にノウハウを提供したとすると、180人の10倍の1,800人の方を幸せにすることができるはずです。
 社会に対して波及効果を生み出すことにより、多くのご高齢の方や身体的な理由により旅行に行けなくなった方が、旅行に行けると思えるようになり、実際に普通に旅行に行くことができるようになるはずです。つまり、しゃらく旅倶楽部の旅行システムが社会的に一般的になった時が、私たちの勝利宣言なのです。私たちの究極の目標は、「社会を変えること」なので、社会を変えることができたらしゃらくの使命は終ることから、しゃらくというNPO法人は解散したいと思っています。



非営利活動(NPO)とは

 非営利活動いわゆるNPOと聞くと、みなさんはどのような団体でどのような活動を行っていると思いますか? ボランティアをやっている団体、年末のテント村の支援をやっている団体…何となく無償奉仕をやっている団体というイメージがありませんか?
 非営利活動とは読んで字のごとく、営利を求めない活動です。その対極になるのが営利活動、つまり株式会社などの営利企業ですね。大ざっぱな言い方をすると、企業は、売上から商品の原価とかかった経費(当然従業員の給料も含まれます)を差し引いた差額を、最終利益として株主に配分したり、将来のためにストックしたり、設備などに投資を行います。これを利益の分配といいます。非営利とは、利益を分配してはならず、必ず全て他の事業に使わなければならない活動のことなのです。従って、最終利益が出るところまでは、営利企業である株式会社と同じなのです。当然、スタッフの給料や商品を無償で提供することではありません。その例として、国際機関であるユニセフや、赤十字のスタッフはきちんと給料をもらっていることを考えれば、良く理解できると思います。
 NPOは日本が発祥であり、お寺が地域の為に行う活動がその起源となります。
 広い意味で言えば、NPOとは、学校法人や医療法人、各種の共済、生協などがあり、労働組合であるエコユニオンも立派なNPOです。その数多くのNPOの中で、法人格を持っている団体と持っていない団体があります。要するに、きちんとした組織を持ち、規約を定め、予算とその執行を明確にしているところと、非営利の活動をしているけれども組織としての体制を整えていない、言葉は悪いですが、志だけで集まったまだ未成熟な団体に分けられると思います。また、法人格を持っている団体の中でも、法律に則って定められた17分野の活動を行う団体を、特定非営利活動法人と呼ぶのです。


(特定非営利活動法人の17分野)

1  保険、医療または福祉の増進を図る活動
(高齢者・障害者支援、医療に関する普及・啓発、ホームレスの生活支援等)
2  社会教育の推進を図る活動
(生涯学習の推進等)
3  まちづくりの推進を図る活動 
(村おこし地域おこし、地域産業の活性化、コミュニティ作り等)
4  学術、文化、芸術またはスポーツの振興を図る活動
(伝統文化の振興、芸術活動の支援、スポーツの普及・啓発等)
5  環境の保全を図る活動 
(河川の浄化推進、リサイクル運動の推進、野生動植物の支援等)
6  災害救援活動
(災害の予防活動・調査・研究、災害被害者への支援等)
7  地域安全活動
(地域犯罪・事故の防止、火災や風水害安全対策等)
8  人権の擁護または平和の推進を図る活動 
(差別に対する活動、家庭内暴力からの保護等)
9  国際協力の活動
(国際交流、難民救済、海外での教育支援、留学生支援等)
10  男女共同参画社会の形成の促進を図る活動
(性差別への反対運動、女性の自立支援等)
11  子どもの健全育成を図る活動
(地域の子育て支援、学童保育、フリースクールの運営等)
12  情報化社会の発展を図る活動
(インターネットなど新しい情報通信手段の普及・啓発等)
13  科学技術の振興を図る活動
(科学技術の普及・啓発等)
14  経済活動の活性化を図る活動
(起業活動、ベンチャー企業の支援等)
15  職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動
(障害者やホームレスに対する職業訓練・就職支援等)
16  消費者の保護を図る活動
(消費者に対する商品の情報提供、商品知識の普及・啓発等)
17  前各号に掲げる活動を行う団体の運営または活動に関する連絡、助言または援助の活動
(市民活動の支援、市民団体や企業・自治体への情報提供等)


神戸はNPO法人の聖地

 現在日本全国には40,000団体のNPO法人があり、その内1,600団体が兵庫県にあると言われています。NPO活動のことを定めるNPO法は議員立法により法制化されたのですが、そのきっかけは16年前の阪神淡路大震災なのです。震災の時には、地域も行政も混乱し、行政が対応できないような問題が山積されていたのですが、その問題に取り組む組織が必要となり、必然的に市民が市民を助ける団体が立ち上がってきました。その団体の多くが震災後も活動を続けてきたことから、その活動を支援し他の公益法人とのすみ分けを行って整理するために法制化されたのです。ということで、兵庫県にはNPO法人が数多くあり、特に「神戸はNPO法人の聖地」と呼ばれているのです。


(NPO法第2条第1項)
 特定非営利活動とは、不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与することを目的とし、以下の17分野のいずれかに該当する活動のことです。
 
※これは、民法第34条の特別法として、他の公益法人とのすみ分けのために、対象を限定しているものです。
 不特定かつ多数のものの利益とは、広く社会一般の利益となることです。利益を受けるものが特定されていては対象とはなりません。従って、構成員の利益(共益)を目的としたり、特定の人・団体の利益(私益)を目的とするものは、特定非営利活動にあたりません。
 ただし、実際の受益者が少数にとどまったとしても、活動目的からして社会一般の利益と認められれば、該当することになります。


 先ほど、兵庫県に1,600のNPO法人があると紹介しましたが、その中で、スタッフにちゃんと給料を支払っている団体は50団体ほどだと思います。それも月給16万円程度で、ほとんどの団体がスタッフにきちんと給料を支払うことができていません。それは、多くのNPO団体が行政からの委託事業で成り立っており、行政の予算には人件費が計上されていないことから、スタッフは手弁当の無償状態になってしまうのです。
 しかしながら、行政からの委託事業のみを唯一の収入源として、スタッフに負担をかける活動をしていては、無理があり長続きできないし、行政の方針が変わって委託事業ではなくなれば、自分たちの思いとは別に活動を継続することができなくなります。
 私たちNPO法人しゃらくは、スタッフの生活を維持するために必要な経費を自前で稼ぐシステムを作っています。しゃらく旅倶楽部事業は、旅行業の認可も受け事業としての収入を得て、結果としてNPO法人の全経費の7割を賄っています。しかし、こうした努力は、他のNPO団体からは目障りなようで、「しゃらくはNPOで株式会社のように儲けている」と陰口を言われることもあります。
 いずれにしても、行政にはビジネスの観念がないので、予算として使うこと、消化することしか考えることができません。一方で営利企業は「儲けること」を基本に考えているので、ここで、橋渡し役としてNPOがコーディネートする必要があると考えているのです。



2日目 講義の風景


なぜNPO活動に携わることに
なったのか〜自分史から振り返る〜

 ここからは、私がなぜNPO活動に携わるようになったのか、後ほどみなさん方にもワークの時間でやっていただく、自分史を使って振り返ってみたいと思います。自分史とは、横軸にこれまで生きてきた年齢、縦軸にその時における感情の度合いの高低を記しグラフ状にまとめたものです。詳しくは、これからポイントごとに説明していきますが、その前に私のミッション(使命)を紹介します。


小倉謙のミッション
社会の矛盾をなくしたい
社会の見えない「弱いものイジメ」をなくしたい
 
市民が市民を見捨てない社会、一人ひとりの個性やライフタイル、働き方を認め合える社会へ

 このような社会を実現するために、私は様々な活動に取り組んでいるのですが、それでは、なぜこのような考えを持つようになったのか、自分史を使って振り返ってみたいと思います。


  荒れていた学生時代と
         何かが変わった大震災

 私は3人兄弟の3男坊として神戸市に生まれ、長男がグレていた影響で、問題児の弟が入学してきたと、中学に入学したとたん先生に目を付けられ、何かにつけて色メガネで見られ、先生からイジメられたことがきっかけで、私自身も本当にグレてしまいました。ひどい時は、教室の後ろにある掃除用具入れに閉じこめられたこともあり、それ以来狭いところが苦手になりました。そんな私が、青春の道を踏み外すきっかけとなった長男は、今は立派な大学の先生ですが、当時の私にとっては全く迷惑な話です。
 中学校時代には家庭裁判所に2回呼ばれていますし、今でもバイクに乗るのが大好きなのですが、高校生の時はいわゆる暴走族なるものに入って爆走を繰り返していました。また高校生の時には、自分は何でもできるスーパーマンのような人間だと本気で信じており、夢は世界征服などと幼稚なことも口にしていました。
 しかし、高校2年生の時に阪神淡路大震災で友人を亡くしたことで、普段は何でもできると豪語していた自分が、震災の時に友人を助けることもできない自分の無力さに気づかされ、いわゆる鬱状態で1週間も自分の部屋の片隅で膝を抱えてうずくまっていました。



小倉先生の自分史


 このままではダメだ、その友達のために何かしたいと震災復興支援のボランティアに参加し、三宮の東遊園のステージでスタッフとして汗を流していた時に、今まで自分が知っている電車で見る疲れたサラリーマンや自分のことを認めてくれない学校の先生達とは違い、自分を色メガネで見ることもなく、しっかり叱ってくれちゃんと面倒を見てくる大人達と出会いました。ここで、初めて格好いいと思える大人に出会えたことで、それまでろくに行ってなかった高校にも、ちゃんと通うようになったのです。
 しかし、それまでの素行の悪さはすぐに忘れてもらえるものではなく、たまたま後輩が起こした傷害事件の犯人として疑われ、ろくに真偽も確かめないままに高校を退学させられました。学校からしてみれば、やっかい払いができるチャンスと思っていたのでしょう。グレていたとはいえ、やったことはやった、やっていないことはやっていないと、父親にはきちんと話をする関係はあったので、疑いを晴らすべく父親が走り回ってくれたお陰で無実が認められ、復学が叶いました。しかしながら、結局、卒業式には出席させてもらえませんでした。ということで、中学、高校という青春時代が、私の人生の中で一番暗黒な時期だったかと思います。


  中国留学(起業と挫折、そして復活)

 高校を卒業後、日本に居ては何をやっても色メガネで見られてしまうことに嫌気がさし、海外で自分のやりたいことを見つけようと思い立ち、中国語もできないままに、上海の語学学校に単身留学をすることにしました。ところが、全く言葉ができないことで、その語学学校も3日で辞めてしまいました。
 それから、学生でもなく上海で何をしていたかというと、日本企業から赴任してくる日本人相手に、日本人留学生を通訳として派遣する、人材派遣会社を立ち上げたのです。当時はそのような会社は、まだ上海にはなかったので、大変に儲かりました。儲かった勢いで、約400万円借金をして携帯ゲームのテトリスを日本から輸入することに手を出したのですが、パートナーの台湾人に持ち逃げされ、借金だけが残り会社は倒産してしまいました。これが19才の時の体験です。
 借金の返済は何とか猶予してもらい、大都会の上海を離れ、南に位置する雲南省の雲南大学に移籍しました。雲南省というのは、そのまま南に下ると、ミャンマーやベトナムに行き着く中国でも田舎の地域で、少数民族が多く暮らす地域でもありました。中国にはメジャーな漢民族以外に、60近くの少数民族があると言われていますが、雲南省にはその半数近くが暮らしていると聞きました。
 実は、雲南省というのは中国産松茸の産地で、日本に輸入される松茸のほとんどは、雲南省が産地となっています。そこで、借金返済のために松茸貿易の通訳に精を出すことになりました。これがまた儲かったのですが、なぜ儲かったかというと、松茸業者は金を持っているということで、松茸山には山賊が出没し、狙われ易いため非常に危険を伴う仕事だったからです。実際に、私も2回ほど襲われましたが、いくら青春時代に日本でグレをしていたとはいっても、相手は略奪を生業にしているプロですから、何の抵抗もせずに有り金を渡して許してもらいました。という訳で、命を張った仕事だったので実入りが良かったのですが、結果的にこの稼ぎのお陰で借金を全額返済することができたのです。
 暗黒の青春時代から、バラ色のバブル時代のような起業と挫折、命をかけた借金返済と山谷を繰り返し(というか深い谷の間に特異点のような山がピョンと出ていただけなのですが)、この雲南省のころから、ようやく人生が上向きになってきたように思います。


  雲南省での少数民族との交流

 雲南省では松茸のシーズンである6月〜12月を除き、少数民族の村を訪ねてはホームステイさせてもらいながら、村の住民と交流を続けていました。町から村へと続く道を進み、村に入る前の儀式として、身を清める意味で、大きなお椀に注がれたお酒を飲むようになっていましたが、当然自分たちで作っているどぶろくのような酒なので、小さな虫は浮いているし、衛生的には万全という訳にはいきません。しかしながら、村に入る儀式なので頑張って飲み干し、ようやく村に入れてもらえることができました。
 村は30世帯程度の規模で、大人と子どもを合わせて60人ぐらいが生活しており、今はどうかわかりませんが、当時は電気が通っていない村でした。村の中で受け入れてもらうには、子どもと仲良くなるのが一番です。子どもは警戒心が薄く好奇心も旺盛だから、必ず最初に集まってくるので、その子ども達と本気になって遊び友達になることで、大人達も「あいつは悪いやつじゃない」と受け入れてくれるのです。そうなると、酒が出てきて歓迎の始まりです。当然、虫も浮いています。しこたま酔ったころに、当然のように腹の具合がおかしくなり、グルグルと嫌な音が下腹から聞こえてきます。トイレの場所を訪ねると、池の方を指さすので、目をこらして見ると、池の桟橋の上に小さな小屋があり、どうやら池に向かって用を足すことがわかります。こっちは酔っぱらいの千鳥足なので、池に落ちないように注意しながらフラフラと小屋までたどり着き、案の定、板が渡してあるだけの床板を踏み外さないように気をつけながら大きい方を産み落とし、ホッと一息ついた瞬間に、下の方からバシャバシャと音が聞こえてきます。おつりにしては時間がかかりすぎているし、おかしいと思って下を覗いて見ると、大きな鯉のような魚が、たった今産み落としたばかりの私のナニを奪い合うように食べています。電気がなくても、自然の力を使って立派に浄化する仕組みを、村人は生活の知恵として知っていたのです。
 宴席は夜まで続き、夕食には立派な魚の姿煮が出され、その美味さに舌鼓を打ちながら、「これはメコン川で取れたのか?」と聞くと、村人がある方向を指さします。確かメコン川は反対方向だったような気がすると酔った頭で指さす方向を見ると、見覚えのある桟橋と掘っ立て小屋が目に入りました。そうです、自然のトイレの浄化システムは、浄化するだけでなく、食料となる魚の養殖にも使われていたのです。私は、「自分のナニを餌にした魚を食べているかもしれない!」という衝撃と、それ以上に、単なる下痢だけでなく、「もっとヤバイ病気になるのではないか?」という不安に駆られましたが、酔っぱらった頭はそれ以上の思考を完全にストップしてくれたのでした。
 これまでは、働いてお金を得てそのお金で欲しいものを手に入れるということを、当たり前のことと思っていましたが、この少数民族の村の生活で、お金という概念がない中で自分たちの欲求を満足させる仕組みを持っていることを目の当たりにして、自分が求めていた「人間らしく生きる」ということに、つながるものがあると感じたのでした。
 こうした体験があったことで、自分のやりたいことを具現化する方法を学ぶために、日本に帰り、もう一度、大学に進学しようと決心したのです。


  入院を通じて「見えない不平等」の
               存在を強く意識

 日本に帰って必死のパッチで勉強し、一生の半分ぐらいの運も使い果たして、何とか立命館アジア太平洋大学に合格することができました。
 グレていた青春時代や、松茸通訳時代のハードボイルド、極めつけは少数民族の村でのサバイバル生活…などを考えると信じられないでしょうが、実は私は意外に身体が弱く、これまで4回の手術を経験しています。その手術入院中に病院で仲良くなった友人は、不治の病で学校にも行ったことがなく、ずっと病院での生活しか知りませんでした。その友人曰く、「自分にも夢がある。病院の外で学んだことはないけれど、病院の中でずっと本を読んできたから、人の文章をチェックして校正することならできる。両親に不安と迷惑をかけたから、そんな仕事に就いて恩返しがしたい。」と言っていました。しかし、その話を聞いて2ヶ月後に、残念ながらその友人は亡くなってしまい、夢を叶えることはできませんでした。
 その時に強く感じたことは、世の中でよく言われている、「時間は平等にある」や「諦めないで努力すれば夢は叶う」という言葉は、全くのきれい事ではないと理解しているものの、「スタートラインは人それぞれ」であり、「見えない不平等はある」という思いでした。こうした体験から、何か福祉についてやってみたいという思いが芽生えたように思います。
 じっとしては居られない性格なので、大学時代も学生が先生となる語学塾の会社を立ち上げました。そして、必要経費を除く収益を全て留学生に寄付したことで留学生から非常に感謝され、彼らから感謝状を贈呈されたのです。そして、この体験により、雲南省の少数民族の村で感じた生き方と初めて合致するものが見え、社会貢献という自分自身のやりたいことをする上で、手弁当の無償奉仕ではなくきちんと経費を賄いながら、多くの人に感謝されることが可能であると気付いたのです。


  安定した企業の収入を捨て、
        4人の同志とNPOを設立

 大学卒業後は、障害者向けの服を作りたいという思いで、アパレル関係の会社に就職しました。起業と挫折も経験し、それなりに社会のこともわかっていたことから、仕事の方は順調で、新人ながら大きな仕事を任されてそれなりに成果を出すことができました。
 ところが、新人のくせに生意気だということで先輩方のイジメに遭い、資料は勝手に捨てられる、大事な電話は取り次いでもらえない、あげくにお針子さん達も巻き込んで私の仕事をしてもらえなくなり、最後は自分でミシンを踏んでデザインを形にしたりしていました。
 そんなころ、ある飲み会での「俺、会社辞めて起業しようかな〜」というつぶやきを真に受けた後輩が、「小倉さんと一緒に起業します!」と、勝手に荷物を送りつけてきたことをきっかけに、起業を決意し、NPOを立ち上げたのです。
 NPOは、先ほど話に出た後輩を含めて4人のメンバーで立ち上げました。当時、アパレル企業での私の給料は30万円程度、野村證券に勤めていた者が35万円ぐらい、リクルートに居た者が40万円ほど給料もらっていたので、いわゆる一流と呼ばれる企業で平均以上の給料をもらっていた人間ばかりでした。まあ、それまでの高給取りの時代の蓄えがあったからこそ、立ち上げ時の極貧生活にも耐えられたのだと思いますが、当初の給料が、全員一律3万円で、4人で6畳2間のアパートに、2段ベッドを2つ押し込んで、共同生活を始めたわけです。
 事務所でも自宅でも、四六時中、顔をつきあわせ、2年ほどはまともな服も買えなかったので、全員が大安売りの服を買って着ていました。同じ柄の色違いを間違って着たりしていたことは、しょっちゅうありましたし、靴の底が剥がれたので、ガムテープで貼り付けて履いていたこともあります。
 そんな苦労も全て、ミッションである「社会の矛盾をなくしたい」「社会の見えない弱いものイジメをなくしたい」という思いがあったからこそ、乗り切ることができたのだと思います。
 まだまだ、日本には様々な差別が存在しています。外国人差別、児童差別、性差別…etc、「一人ひとりの個性やライフスタイル、働き方を認め合える社会へ」、そして本当に「市民が市民を見捨てない社会」を実現したいと思っています。残念ながら、今の日本は「自分だけ良ければそれで良い」という風潮が強く、市民が市民を見捨てている社会になっていると感じています。究極の姿は、行政のサービスなどなくても、地域のみんなが助け合って問題を解決し、行政などいらなくなることなのだと思います。



発表の風景



ライフスタイルの変化と
人口構造の変化

  ライフスタイルの変化と
          自身の八つの役割

 人は生まれた時から役割を担い、成長と共にバランスが変化していきますが、その役割は大別すると八つに分けられます。まずは、生まれてすぐに持つ役割として【@息子・娘】があります。次に成長し、学業に励む為【A学生】という役割が出てきます。学生でありながらアルバイト等の社会経験や、また就職という転機から【B職業人】となり、いずれ結婚をして【C配偶者】、並びに家事を行う【Dホームメーカー】、子供が生まれ【E親】となり、成長をするにつれて役割は増えてきます。この他、【F余暇を楽しむ】、また【G市民】といった役割も存在します。
 生まれてすぐは息子・娘という役割しかない為負荷は小さいものですが、成長するに連れて役割は増え負荷は上がってきます。自分自身のキャパシティーには限界がある為、それぞれの役割をバランスよく担うことが重要となってきます。また、突発的な出来事(キッカケ)である役割が突然負荷が上がることもあります。
 個人的な経験談で話をすると、昨年末身内の病気をキッカケに突然、息子・娘と配偶者という役割の負荷が急激に上がりました。これにより、職業人の役割の負荷を減らす必要があり調整を取りましたが、それでも全体負荷状況がかなり高かった為、結果的に私自身が過労で倒れることになってしまいました。
 突発的な出来事は予測することはできません。突然、自分の親、または祖父母が倒れることもあるかもしれません。いつ、何時どうなるかわからないのです。従って、10年先またはそれ以降までのライフバランスを予測し、一時的には全体負荷が上がるかもしれませんが、突発的な出来事が発生しても計画的にライフバランスを見直せるよう対処することで、自身が過負荷にならないようコントロールしてほしいと思います。


  日本の置かれた状況と
          これからの日本の姿

 次に人口構造の変化から10年先にどういう変化があり、どういうふうに社会変化として現れるか予測し考えていきたいと思います。



10年後の人口推移予想


 この表は、2000年度を基準に、10年後である現在(2010年度)までの人口の推移と、さらに10年後の2020年度における人口推移の予想を、総人口、生産人口、高齢者人口などの視点で分析したものです。これを見てもわかる通り、総人口は減少していきます。それに伴って生産人口も減少していきます。これは、ものを作る世代の人口が減っていくわけで、同じ量の仕事を少ない人数でこなさないといけなくなるわけであり、加えて一番購買能力があり消費していく世代が減っていくということと同じ意味でもあります。ということは、国内の状況だけ見れば、日本の経済は間違いなく縮小していくということを表しており、支える必要のある高齢者の数は、反対にドンドンと増加していきます。
 この表の比率から推測すると、今現在1人の高齢者に対して約3人の生産人口の方が支えている構造が、10年先には2人の生産人口の方で支えていかなければならないことになります。さらに、学校法人や医療法人の方はほぼ税金で養われていることを考慮すると、実質はさらに少ない人数の方で1人の高齢者を支えることになるかもしれません。税金を納める人が減り、税金をもらう人が増えるとなると、必然的に増税という考え方が現れます。増税することにより消費者の購買意欲は低下します。これは企業に対しても同様で、設備投資等は削減されることになるでしょう。
 現在、1つの介護福祉施設に対し、何人待ちの状況か知っていますか? おおよそ、150人待ちです。税収は減る為、施設が増える可能性は低いのですが、施設を必要とする方は増えていくことになります。では、今後増えることになる施設を必要とする方の面倒はだれが見るのでしょうか。家族の方が見なければなりません。自分の親が高齢になった時、仕事や家族を含め役割の負荷を見直す必要が出てくることが考えられます。
 これらにより、女性の出産・育児後の職場復帰の考え方について見直す必要があると思います。行政及び一部の民間企業では、福利厚生制度が充実し出産・育児後の職場復帰が高確率であるところもありますが、まだまだ一般的にみれば満足するものではなく職場復帰率は低い水準です。再び働ける環境を整えることで、期待できる効果は大きいと思います。これと合わせて、男性の育児に対する環境も見直す必要があると思います。
 企業に関しては、ますますグローバル化が進むことになるでしょう。国内で製造するメリットがなくなり、安い賃金で人材を確保できる海外へ進出していきます。楽天、ユニクロ、日産等では社内の公用語を英語にし、会社全体として環境変化に取り組んでいます。働いている社会が今後、どのように変化するか予測し、自分の立場(役割)をどのように変化させていくかを考えていく必要があると思います。
 最近、政府がしきりにワーク・ライフ・バランス(下記よりWLBと略)という言葉を多用し、世の中にWLBがあふれていますが、これは、日本経済が縮小していく中で、福祉をはじめとする公的な支援の限界が見えているからだと言えます。公的支援のシステムが破綻した時に、国民が自らの力で問題に立ち向かうことができるよう、これまでの経済成長を前提とした働き蜂状態では社会の秩序が維持できないので、生き方や働き方を見直そうということなのです。


現時点で考えられる問題点
少子高齢化社会により
地域の担い手(自治会等)が不足し機能を失う
独居死や孤独死の増加
生産人口が減ることにより、働き方を大幅に見直す必要がある
生保・介護保険・年金財源の不足
小規模集落の増加(50戸以下で高齢化率が40%以上の地区が兵庫県で200カ所)
地域医療の限界
人口減により
人口減により経済減に、モノを買わない社会に
税収の落ち込み、行政による既存施設やサービスの見直し
日本のマーケットに見切りを付けた日本企業が海外移転
多様化を認めあい、グローバル化に対応する必要がある


小倉先生の話に聞き入るメンバー



今、若い人は何をすべきか?

 そこで、ここに参加されているみなさんのような若い人が今、いったい何をするべきなのでしょうか? その答えを、私からみなさんに示すことはできません。なぜなら、その答えはみなさん方の一人ひとりで違うものであり、そのきっかけをつかんでもらい、考えてもらうために今回の研修があるからです。
 ただし、ひとつだけ言えることは、これまではどんな形にせよ、人口は増え、経済は成長していくという歴史でしたが、私たちは初めて人口が減少し、日本経済が縮小していくことを体験する世代になるのです。この事実をしっかりと認識し、そのような時代を迎える中で、みなさん方の会社がどのような方向に向かっているのか? 向かうべきなのか? そしてそこで働くみなさん方自身がどのように成長していくべきなのか? まずは自分自身で将来の姿を具体的にイメージすることが大切です。



2年後の自分への手紙に悪戦苦闘!?

今回のまとめ 発表風景

 もちろん、将来の自分の姿を考える上では、自身の生き方やそばにいる家族、そして人生の計画などが密接に関わってきます。独身の方は、結婚して子どもができると配偶者や子どもに自分の時間を配分することが多くなるでしょうし、その反面に仕事の部分で後輩や部下ができ、仕事上での責任の度合いも重くなることで、仕事の部分のウエイトも増えていくでしょう。
 その先の人生を考えると、子どもへの時間配分が減っていく分、自分や配偶者の親の介護などの可能性も高まり、その部分に多くの時間を割り振ることになるかもしれません。少なくとも将来、公的な支援が十分過ぎるということにはならないでしょうから…
 いずれにしても、いくら真剣に考え明確にイメージできたとしても、時と共にイメージは薄れていくので、引き続くワークの中で、10年後の自分の姿について、仕事の部分と個人的な部分の両方の角度からシートにまとめてもらいます。そして、今回の研修の締めくくりには、今回の研修でスタートしたビジョンづくり委員会の期間が終る2年後の自分に宛てて手紙を書いてもらうことにします。今回まとめた、10年後のイメージの途中となる2年後にきちんと成長できているのか、未来の自分自身に問いかけてみてください。手紙を書くことが重要ではなく、皆さん自身の今後の「ものさし」となるものを提供することが今回の研修の最大の目的だと思っています。
 そのような意味も込めて、今回の講演のタイトルを「未来の自分への約束」とさせていただきました。それぞれにライフスタイルがあり、だからこそ個々人ごとにミッションがあるのです。みなさんのミッションを明確にして、そのミッションを達成するために努力し、成長されることを期待しています。

 以 上
(文責:三枝 大輔)



第1ステージ 参加メンバー


講師プロフィール

小倉  譲(おぐら ゆずる)紹介/特定非営利活動法人しゃらく理事長 兼 事務局長
 1977年、兵庫県神戸市生まれ。神戸市立木津小学校・桜ケ丘中学校を経て、岡山理科大学付属高等学校国際教養科に入学。高校2年生の時、震災を経験し神戸市役所横、東遊園地にてフラワーテントのボランティアに従事した。
 1996年、中国の上海儀劇学院に留学。上海の駐在日本人に対するビジネスを行おうとDNA上海を設立したが、ものの見事に失敗。
 1997年3月、雲南省昆明市の雲南大学へ移籍。少数民族との出会いや、昔ながらの生活に感動し、学校に行かずひたすら旅行を続けた。その合間に、マツタケなどの貿易関係の通訳に従事。
 1999年、突如日本の大学への進学を思い立ち、必死の勉強の結果、立命館アジア太平洋大学に奇跡の合格(一生の半分くらいの運を使う)を果たした。入学後まもなく、起業家サークルEntrepreneursを立ち上げ、代表に就任。留学生に対する雇用の創出と、地域に対する大学資産の還元を目的とした語学塾「たんぽぽ」を設立した。また、起業家を招いたサクセス講演会の企画開催や、言語・文化・宗教・障がいを超えたフリートーク、異文化理解の場を作ることに没頭。その一方で、月に1〜2回はバイクでツーリングキャンプに向かい、「お遍路さん」など四国、九州、中国地方を制覇。大学の4年間も勉強することなく、遊びの達人として大学を卒業した。
 大学卒業後、障がい者向けの衣服を作ることを目的に、アパレルメーカーに就職。その後、ある飲み会の席で「俺、社会起業家として起業しようかな〜」という私のつぶやきを真に受けた後輩が、「小倉さんと一緒に起業します」と勝手に荷物を送りつけて来たことをきっかけに、起業を決意した。
 2005年12月、NPC和橋を設立。2006年NPO法人しゃらくに組織変更し、現在に至る。現在の主な関心事は二つ。一つは、我々しゃらくの最終目標である解散をいかに迎えるか。社会を変え、我々が社会にとって不必要になるには、どんな戦略と社会へのアプローチが必要なのかといったマネイジメント。もう一つの関心は、企業や地域から資金を集め、如何に児童福祉施設を設立し運営するか。役職:兵庫県行財政委員・神戸市円卓会議員・須磨区まちづくり委員・ひょうご仕事と生活センター アドバイザー・NPO法人ワークライフコンサルタント 理事
・ E-mail ogura@123kobe.com
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