講演
「海を越える交流、そして人々の絆」
img1_1.jpg
モンゴル日本関係促進協会 理事長
モンゴル・豊岡シルクロード友好協会 副会長
モンゴル 日本学会 理事
S.デムベレル 博士


モンゴルと日本の交流のはじまり


 モンゴルと日本の両国における文化交流は、国交が樹立するずっと以前から始まっていました。東西冷戦下で両国間の政治的関係は厳しい状況下にありましたが、文化交流が閉ざされていた窓から新鮮な風を吹き込んだのです。初めは、そよかぜ程度でしたが、政治的、経済的な交流を後押しし、国交樹立に導いたと言えるでしょう。
 これは、わたしの記憶にあるいくつかの事例です。
 例えば、日本人の戦後初めてのモンゴル訪問は石川達三、村松梢風、芥川也寸志といった著名な作家や画家、音楽家たちでした。1956年6月、モスクワで開催されたアジア連帯文化会議の帰途に彼らがウランバートルに立ち寄ったのです。
 同年、「原爆の図」で有名な画家・丸木位里がウランバートルで展覧会を開きました。1960年代半ばには、日本の吉村公三郎監督の原爆映画「その夜は忘れない」という映画が「広島の石」という題名で、その2,3年後、「恋の季節」という映画がそれぞれ上映されました。こうした映画が、当時の人々に大きな感動を与えることになり、日本国及び日本国民について少しずつ理解を深めるきっかけとなりました。わたしも映画を通じて日本文化に初めて触れた一人です。
 モンゴルからは、1957年に著名な学者ダムディンスレン教授ら5名が日本を訪問しました。彼は帰国後に「日本訪問記」を書いています。その記事の中、「知らない国に来たのではなく、モンゴルの故郷を訪ねて友人、知己に会っているような思いになった」と、その印象を書いています。また、日本料理店のメニューまで紹介し、刺身を食べられない者もいたが、日本の家は靴を脱ぐからきれいな靴下をはかないといけないとか、ユーモアを交えつつ、日本の文化を伝えています。
 当時、モンゴル人が日本を訪問する機会は限られており、労働組合の会議や貿易、原水爆禁止大会などの国際会議だけでした。
 1972年2月24日にモンゴルと日本の外交関係が樹立され、1974年に文化交流協定が結ばれました。このことにより、文化交流は国家間の重要な目標と位置づけられ、新たな段階に入りました。そして、今年は40周年に当たる記念すべき節目の年になるのです。
 文化協定では教員、学生の交換、研究者、文化人の交流、共同学術調査、映画会の開催などが取り決められました。学生、教員の交換制度は順調に進み、両国間の架け橋になる多くの人材を育てました。文化協定締結を契機に1975年には国立大学に日本語コースが開設され、モンゴルにおける日本語教育が本格的に始まりました。



流暢な日本語で語りかけるデムベレル博士の講演


社会主義国時代のモンゴル


 1977年、社会主義だったモンゴルは、東ドイツやロシアと深い関係にあり、外交官になりたいと思っていた私は、ドイツ語を一生懸命勉強していました。社会主義の国から資本主義の日本に留学することは、とても難しかった時代でした。しかし、わたしは1975年にモンゴル国の外務省に入省し、多方面からの理解を得て、1977年の3月から4年間、外務省の研究生として、日本へ留学することができました。帰国後は、外務省で日本語や日本国とは全然関係のない仕事に配置されました。
 モンゴルはまだ社会主義の国だったということで、政治や経済に関して、民主主義で影響を受けたわたしの考え方とはかなり隔たりのあるものでした。当時のモンゴル国外務省の幹部の中には、第三国に留学した者を信用しない者もおり、資本主義国との関係及び、特に政治的な仕事を任せるということから避けていたような気がします。その上、様々な噂が影響した事もあり、せっかく勉強した日本語や政治とは関係のない仕事に長年にわたって任命され、頑張ることとなりました。帰国後は、日本語を話す機会も全くなく、夢の中で日本語を話していて、目が覚めるということもありました。まるで、病気にかかっているような状態でした。
 そのような状況の中で、1989年の夏、モンゴル国の日本大使館で現地職員の募集がありましたので、外務大臣に希望を出し、承認され赴任することとなりました。社会主義国としてペレストロイカの流れを受けて民主化活動が起こり、1992年には新憲法が制定され、「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」になった時期でした。




友人・金津氏との出会い


 現在、兵庫県豊岡市但東町にある日本モンゴル民族博物館の創立者である故・金津匡伸氏とは1991年から3年ほど一緒に勤務しました。金津さんとは政策についても共通した認識をもっていましたので、よくディスカッションし、また個人的にも影響しあいました。私が絵画収集をはじめたのもその頃からです。彼はモンゴル絵画、民俗学に関する物を個人で収集していましたので、わたしは可能な限り収集の手助けをしていました。その一方で、「大事なお金をつまらないものに使っているな」と内心残念に思っていました。しかし、彼が収集してきた文化資材が基盤となり、全但東町民の努力もあって設立された素晴らしい博物館が、すでにオープンから15年を迎えたことを振り返ってみると、金津さんの地道な努力の成果に本当に心を動かされます。
 このように、但東町は自らの力と可能性、そしてモンゴルに対する熱い気持ちを持って1996年に日本で唯一と言える「日本モンゴル民族博物館」を建設し、多くの日本人にモンゴルを具体的に紹介し、国民の相互理解を深めるという、この高邁な目的を支援してきました。また、このような高いレベルに達した協力関係を更に発展させるために、適切な貢献を行う目的で私たちは10年前に、「モンゴル・但東シルクロード友好協会」(現在はモンゴル・豊岡シルクロード友好協会)を作りました。私たちの協会は、当博物館の所蔵品を更に豊かにし、モンゴルと但東町の子どもが相互に訪問しあう等、交流の機会を広げており、そのための可能な限りの協力をしています。


故郷、オブス県マルチン村



雪化粧をまとうマルチン村
 わたしの故郷であるオブス県マルチン村は、モンゴルの西端に位置し、ウランバートル市から遠く離れた田舎にある村です。中心地から遠いので内外から訪れる人も稀です。しかしながら、訪れた誰もが心奪われるような湖、砂漠、大草原や山脈のある美しく恵まれた土地です。我が村の住民の多くは家畜を飼って、一年中移動しながら生活している遊牧民です。マルチンというのはモンゴル語では「遊牧民」という意味です。
 この地方で生まれ育ち、進学のため故郷を離れ、その後ウランバートル市で就職し定住している数名の有志が、自分の故郷の発展に貢献するために、約10年前、地域評議会を設立しました。わたしは日本大使館に勤務しながら当会幹部として、自分の故郷のため力のかぎりを尽くしたいと頑張ってきました。
 モンゴル国の人口は僅か270万人ですが国土は広大です。そのため、海外からの支援と交流の多くは首都で中心地であるウランバートルへ集中し、わたしの故郷のような中心を外れた地域には、交流の輪が届かないということが多く見受けられます。その最大の理由は、遠隔地のため、交流には時間と費用がかかる事です。


神鋼環境ソリューションとの
出会いと交流


 2002年10月、モンゴル・但東シルクロード友好協会の使節団が兵庫県出石郡但東町を訪問した際、日本モンゴル民族博物館の当時館長の金津さんのご紹介により、当時神鋼環境ソリューション労働組合の執行委員長である関谷さんをはじめとする組合の皆様と、私は出会うことが出来ました。皆様が、これらの事情を深く理解し、我が村との長期にわたる交流について決定されたことに対し、当村の人々は非常に喜んで大歓迎しています。
 我が故郷は中央から遠く離れていることから、残念ながら情報も不足しており、届けられる本の数も非常に少ないのです。恥ずかしながら申し上げますが、正直なところ、本があっても購入する余裕のある村民も少ないのです。このような状況をご理解下さり、モンゴル語で書かれた多数の書籍を寄与するため、2004年の6月に神鋼環境ソリューション労働組合の当時事務局長だった井上さんを団長とした6名の方々が現地を訪れ、子どもたちや教職員への図書にあわせて楽器、スポーツ用品などを贈呈をして下さいました。また物品の贈呈だけでなく、現地訪問の際には、バレーボール等の友好試合、日本とモンゴル双方の歌の披露、児童絵画の展示、環境をテーマとしたパネルディスカッション等を行ってきました。こうしたスポーツと文化の交流が、日本とモンゴルの双方の人材育成にもつながるものと信じており、今日では、多くの村の住民が、若手組合員を中心とした訪問団の来訪を心待ちにしているところです。特に印象深いのは第一次訪問団のメンバーのバレーボール担当だった冷水真吾さんでした。彼はバレーボールが本当に上手で、マルチン村の皆が驚き、子どもも大人も全ての住民が、彼のことを大変良く覚えています。彼は非常に若い年ながら、事故で亡くなったと聞き、本当に残念に思っております。
 当時のマルチン村には電気も携帯電話もなく、道も舗装されていない時代遅れの地域でしたが、遠く離れた海の国である神戸市の神鋼環境ソリューション労働組合から、代表の訪問団の方々が心を込めて3回訪問し、素晴らしい交流をして下さっていることに対し、皆が非常に喜び、今後も繰り返しご訪問下さることを心待つようになりました。本は世界を視る窓であり、人間の能力を向上させるための計り知れない価値を秘めています。



井上事務局長(当時)が、図書贈呈団の
派遣に先立ち、 真冬のマルチン村を訪問

故冷水真吾さんが、第1次図書贈呈団の
バレーボール交流で、 マルチン村との交流の礎を築いた


モンゴルと日本の若者たちへ


 この交流を、息の長い、実りのあるものとして絶対に成功させたいと思っております。モンゴル日本両国民の相互理解が更に深まり、神鋼環境ソリューション労働組合とモンゴル国オブス県マルチン村の共同協力が、一層繁栄することを祈ってやみません。
 モンゴル国は1990年代の初めに民主化・市場経済へ移行しはじめたばかりの発展途上国です。現在まで、モンゴル国の新しい国づくりに我が国の様々な分野において、支援の手を差し伸べていただいている日本国政府及び日本国民が積極的に支援協力をしてくださっていることを我が国民は良く理解し、感謝しております。
 「苦しい時に、友の本性が分かる」というモンゴルの諺があります。我が国が民主化、市場経済へ移行している苦しい時に、日本国政府及び日本国民の与えてきた援助は我が国の繁栄に大きな貢献となっていることを我々は良く覚えていますし、それを常に評価しています。
 両国民の交流を発展させる為に、主な障害の一つである言葉の問題を軽減することに対し、わたしは自分なりにわずかな力を尽くしたいと決心しました。そして、1995年に和蒙漢字辞典を出版し、その後も幾つかの辞書を編集してきましたが、今回、和蒙大辞典を編集することができました。またその他にも、日本文化をモンゴル人に紹介するため、いくつかの日本の本をモンゴル語に翻訳しており、今後もその活動を行うつもりです。私と一番緊密な関係を持ち続けている但東町(現在は豊岡市但東町)との友好が更に強化されることを目標に、個人としての役割を果たしたいと思っています。
 しかし、援助をいただくのは良いことですが、それに慣れてしまうと悪い結果になりかねません。雪害などで本当に困っている人には、物質的な援助は必要ですが、本当に物資が必要な地域や僻地には届いていないケースも多く、こういうことは我が国の政府としての努力が大切です。



マルチンの元気な子どもたち

デムベレル博士の講演を熱心に聴く来場者

 いずれにしても過去の体制から変わる為にも、各方面での調整と改革がより一層必要となっていますし、教育・技術分野の人材を育成することも大切だと言えます。今後、モンゴルの労働者の職業訓練を始め、高い教育の専門家を人材として育成することが重要であり、そのためにも、もっと日本の皆さんに協力していただきたいとわたしは個人的に思い、期待しています。
 わたしたち、冷戦をくぐり抜けてきた世代が基礎を築いた、長い歴史のあるモンゴルと日本の交流が、今後も若い世代に引き継がれ、人と人との交流が末永く継続していくことを心から願っています。



サンジ・デムベレル(Sanj DEMBEREL) プロフィール

モンゴル日本関係促進協会 理事長
モンゴル・豊岡シルクロード友好協会 副会長
モンゴル 日本学会 理事
言語学博士

1945年生まれ、モンゴル国オブス県出身。モンゴル教育大学卒業後、大阪外国語大学へ留学。
1975年、モンゴル国外務省事務官、1989年、在モンゴル日本大使館職員。2005年、クリジッド銀行頭取。
現役引退後は、大学非常勤講師、日蒙辞書の編纂など日本語教育に尽力。デムベレルさんの辞書は日本へ留学する若者たちのバイブルとなっている。今回の東日本大震災に対してもモンゴル国からの支援活動の先頭に立ち活躍されている。